フラワー 後日書きます
朝、いつもの最寄り駅までの道のりに、唐突にぽっかりと、更地になった土地が現れた。私は思わず立ち止まって、真新しく土が剥き出しになった地面を見つめる。え、この場所って、どんな建物が建ってたっけ、と。
毎日この道を歩いてきたのだ。何度もこの土地の前を通ったはずなのだ。それなのに、思い出せない。住宅だった気がするが、その記憶はハッキリとしない。どんな壁の色で、どんな屋根で、どんな玄関で、どんな庭で……全部靄がかかったように思い出せなかった。
帰り道、またあの更地の前を通る。やはり記憶はハッキリとしない。ふと思いついて、某地図検索のストリートビューで探してみた。
ここが駅であの道がここだから……と方向音痴なりに地図を見て、やっとそれらしい場所に画面の中で降り立ってみる。
その画面を見た途端、ジグソーパズルのピースが嵌るように、頭にかかった靄が晴れた。そこにあったのは、白い壁に赤い屋根が特徴的な、どこかメルヘンチックなところを感じさせる大きな家だった。大きな家だな、掃除が大変そうだな、なんて、過去に思った覚えがあった。何でこんな印象に残りやすそうな家の姿を忘れていたんだろう、と不思議になった。
ストリートビューを解除して、平面になった地図を眺める。この地図のこの場所に次に載るのはどんなものになるだろうか。もしかしたらしばらく更地のままかもしれない。それとも、土地がけっこう広いから、家が新しく何軒か建つかもしれない。
そんなふうに、この土地が変わって、新しい地図になる日のことを考えると、私は、少し寂しいような、それでいて楽しみなような、そんな気持ちになるのだった。
「好きだよ」って君が言うたびに、私は戸惑うの。どうして私なんかって。君は「私なんか」じゃないって言うけど、私はなかなか納得できない。だって、ずっと、「お前なんか」って言われてきたんだよ。それを否定して守ってくれる人なんて、ずっと現れなかったんだ。君に出会うまでは。
私の中の卑屈な心は凝り固まってガチガチで、どんなに「好きだよ」って言ってもらってもなかなか解けそうもない。私がそう言うと、君は「いつまでだって、君が好きだって言い続けられるから、安心して」って笑うんだ。何それ。何でそんなに。わからないけど、私はなんだか涙が出て、君に惹かれてしまうの。君の言葉はまだ信じきれないけれど、君のそばは心地よくて。こんな私も、君に甘えて、そばにいてほしいって願ってもいいのかな。
私の気持ちが君の「好き」と一緒かはわからないけど、いつか誰かに「好きだよ」って告げるなら、その相手は君がいいなって、思ってるの。そう言ったら、君は笑ってくれるかな?
俺はプロミュージシャンを目指している。今日も路上ライブをした。以前よりも立ち止まって聴いてくれる人がかなり増えていて、手応えを感じている。
機材を片付けていると、ひらりと1枚、桜の花びらが舞い落ちてきた。近くに古い桜の木があるから、そこから舞い落ちてきたんだろう。その桜はもう満開の時期は過ぎて、葉桜になってきていた。
舞い散る花びらを見ていると、思い出す人がいる。第一印象は、花びらを散らす桜のように儚げな女性。でも、本当のところは、芽吹く新芽のように瑞々しく、芯の強い女性だった。
彼女は学生時代俺がバイトしてたカフェのお客さまで、音楽の趣味が合ったことから仲良くなり、やがて付き合うようになった。夢を追う俺を、彼女は応援してくれてた。俺が大学を卒業する頃に同棲するようになってもそれは変わらず。俺は彼女に支えてもらいながら、夢を追い続けてた。
だけど、大学を卒業して1年経った頃、オーディションに落ち続けていた俺は、評価されない自分に苛立って、彼女に当たってしまったことがあった。荒んで酒を飲んでばかりだった。
「俺には最初から才能なんてなかったのかな……。だから誰にも見向きもされねえのかな」
そうこぼしながら俺が情けなくも泣いていると、彼女は言った。
「そんなにつらいなら、もうやめたっていいんだよ」
俺は、その言葉が許せなくて、暴れて、彼女にも怪我させて、家を飛び出し、その夜は家に帰らなかった。その後家に帰っても、彼女と俺の間に会話はなく。数日後、彼女から、「もう一緒にいることはできない」と別れを告げられた。
別れの日、最後に彼女は言った。
「やめていいって言ったけど、ほんとはやめてほしくないよ。私、あなたの歌が好きだから。もし、あなた自身がまだ自分の歌を好きでいられてるなら、どうかやめないで。応援してるから」
俺はガツンと殴られたみたいに衝撃を受けた。誰にも見向きもされないなんてとんだ勘違いだった。こんなに近くに俺の歌を好きでいてくれる人がいたのに、俺はそれが見えなくなってた。あの日、俺の歌を好きだと言う彼女に、歌をやめていいと、俺が言わせてしまったのだ。
その別れ以来、俺は一層がむしゃらに、音楽に打ち込んだ。もっと上手くなって、もっとたくさんの人に聴いてもらうために、できる努力は何でもした。
その甲斐あって、俺の歌は少しずつ認知され始めて、好きだと言ってくれる人も増えてきた。
古い桜を眺めながら、舞い落ちてくる花びらの下にすっと手のひらを出すと、花びらが一片、手のひらの上に乗った。
俺の手のひらは、まだ夢を掴めてない。掴めているとすれば、せいぜいこの花びら程度の小さな一欠片。でも、今はそれでいい。俺はまだ俺の歌が好きで、いくらでも頑張れるから。
「応援してるから」と言ってくれた彼女の顔を思い出す。
舞い散る桜のように儚い笑顔だった。でも、その目には、俺の背中をそっと押すような、優しい力強さがあった。
君とまた会えたら、って何度も想像した。
自分勝手に別れた癖に、何度も何度も想像した。
君はどんな顔をする?何を言う?私を許す?それとも許さない?また前のように戻ってくれることはない?
私は君にまだこんなに囚われているのに、君は私のこと、もう忘れちゃってるかもしれない。
あんなに一緒にいたのにって、また自分勝手に寂しく思う私がいる。
私はバカだ。
きっと私は、一生君を忘れないんだと思う。
どんなに君が忘れても、ずっと。
本当に、私はバカだ。