数日前に亡くなったおばあちゃんの形見に貰ったドレッサー。経年により飴色に変わった木の色は、温かみを感じさせる。たくさんの引き出しがついた机の上に、木に縁取られた大きな丸い鏡が鎮座している形だ。昔におばあちゃんが使っているのを見て、憧れていたものだった。
お葬式やらいろいろと終わって、今日から仕事に復帰した。
疲れ切って帰ってきた夜、私は何の気なしにそのドレッサーの鏡を覗き込んだ。当然疲れた私の顔が映るだけ、のはずだったのだが。
「なっちゃん、お疲れさま。大丈夫かい?」
鏡の中の私が、私を呼んで、微笑みかけてきた。
声は耳から入ってくるのではなく、頭の中に響く感じで私の声に聞こえた。
目と耳を疑った。気のせいかと思って、1回天井へ視線を外してから、もう一度鏡へ戻した。
「なっちゃん、無理してないかい?」
鏡の中の私はまた喋った。幻覚だろうか。
私は眉を顰めた。確かに疲れてるけど、幻覚を見るほどだった?
不思議なのは、私の顔で私の声なのに、何だかすごく懐かしさを感じたこと。微笑み方が、口調が、おばあちゃんに似ている気がして。おばあちゃん家に遊びに行くと、こうして話を聴いてくれたことを思い出した。
「おばあちゃん?」
私は鏡の中に語りかけた。鏡の中の私(?)はただ微笑みを深くしただけだった。
それが、おばあちゃんの微笑みに本当にそっくりで。
「疲れたよ。おばあちゃんいなくなっちゃって悲しいし寂しいしつらいのに、仕事頑張らなきゃいけなくてきつかったよ」
思わず、本音が口から溢れた。
鏡の虚像は、微笑んで「うん、うん」と話を聞いてくれる。
涙も溢れて止まらなくなって、私は鏡に向かって話しながら、子どものようにわんわん泣いた。
その日から、私は、毎日仕事から帰るとその日あったことを鏡の虚像に話すようになった。完全におばあちゃんに話している気分だった。最初の頃は毎日泣きながら話した。こんなのおかしい、やめるべきだ、そう思ってもやめられなかった。
私、本当はおばあちゃんともっともっといっぱい話したかったんだなあ。一週間くらい経った頃、やっとそう気づいた。
「あのね、今日はね――」
おばあちゃんの四十九日の前夜。その夜も私は鏡に話していた。虚像は相変わらず微笑んで、「うんうん」「よかったねえ」「大変だったねえ」と相槌を打ってくれた。
だいたい話し終えた頃。
「今日も聴いてくれてありがとう」
いつものように私はそう言った。いつも「また明日もきかせてね」と微笑んで、ただの鏡に戻るのに、今日はそうじゃなかった。
「なっちゃん、最近よく笑うようになったねえ。もう大丈夫だねえ」
虚像は、少し寂しそうに微笑んでそう言った。私はぎょっとした。
「な、何のこと?いつもみたいに『また明日』って言ってよ」
声が震えた。虚像は静かに首を横に振る。
「なっちゃん、なっちゃんはもう大丈夫なんだよ」
優しい微笑みだった。『また明日』はもうないんだと私は悟ってしまった。
「やだやだやだ、いかないで。ずっとここにいて」
涙と駄々をこねる言葉が出てしまう。胸がぎゅうっと締めつけられる思いだった。虚像は困ったように首を横に振るばかりだった。
ひとしきり駄々をこねた後、私は乱暴に涙を拭った。意を決して、鏡に向き直る。
「わがまま言ってごめんなさい。ありがとう。もう大丈夫」
私は、少し無理をして笑ってみせた。虚像は深く微笑んで、一筋涙を流したかと思うと、ただの鏡に戻ってしまった。もう、泣き腫らした顔の私がただ映るだけだった。
それから、鏡は本当にただの鏡になって、もう話すことはできなくなった。
それでも私は、夜に鏡を覗き込んでいる。
そして、「私は大丈夫」と口に出して、鏡に向かって笑うのだ。
同じく笑う鏡の中の自分を見て、明日への勇気を湧かせるために。
人生の合格点って何点だろう。
毎日毎日、眠りにつく前に、今日は何点ぐらいの日だったかなって考える。
100点満点の日もないけれど、0点の日もない。
平均したらたぶん60点くらい。
他人と比べたことがないから、これが高いのか低いのか、よくわからない。
少なくとも今の私には、この点数くらいでちょうどいい。
人生の終わり、眠りにつく前に、私は人生に何点をつけるだろう。
たぶん100点満点ではないけれど、きっと0点でもないはずだ。
まあまあだな。合格点だな。
最期にそう思えたら、とても幸せだろうなあ。
貴方の心に永遠に残るにはどうしたらいいか、ずっと考えてたの。
「九条、何してんだ!早まるな!こっち来い!」
せんせいが必死でこちらに叫んでる。
ここは、せんせいの住むマンションの屋上。私はその柵の外に立っている。8階建ての屋上から足元を見れば、ずーっと下に地上が見える。
「ああ、くそっ、こういうときは110か!?119か!?わかんねえ!」
せんせいが1人で、スマホを片手に慌てふためいている。
「あら、だめよ。“先生”なら、生徒1人くらい自分で止めてみせて。」
私がそう言うと、せんせいは酷く困惑した表情になった。
すごく愉快だ。
私とせんせいは、高校の生徒と教師だ。1年生の途中から周りに内緒でお付き合いをしている。
アプローチはせんせいから。1年生の私は、大人の男の人にそういう目で見られたことに戸惑ったけれど、嬉しくて、教師と生徒の恋という禁断の関係に心惹かれて、せんせいとお付き合いをはじめた。
学校では内緒の目配せをするだけで、私達のお付き合いはせんせいの家でだいたい完結していた。
せんせいの休みの度にこのマンションを訪れた。たくさん愛の言葉を囁きあった。たくさん抱き合った。最初は軽い気持ちだったのに、いつからか、この関係が永遠に続けばいいのにって思っていた。
でも、長く過ごすうちに分かってきたことがあって。せんせいは、“生徒”の私に価値を感じていること。卒業したら、私はきっと捨てられて、忘れ去られて、次の“生徒”に手を出すんだってこと。
私はもう3年生で、卒業も目前に見えてきた。もうすぐせんせいに捨てられる。せんせいに忘れられる。そんなの耐えられないから。
「せんせい、私の気持ち、舐めてたでしょう?」
私はせんせいへ笑った。せんせいはまだ訳が分かってないみたい。
「おい、九条、本当にどうしちゃったんだよ。頼むから、こんな悪ふざけやめてくれ。俺に何か悪いところがあったんなら直すから」
せんせいが懇願してくる。万が一が怖いのか、私に触れてくることはない。
『悪いところがあったら直す』なんて、よく言うわ。
でも私は、こんな人でも、好きで好きでしょうがないの。
「せんせい、大好きよ。愛してる」
告げて、マンションの縁から足を離し、空中へ飛び出した。せんせいが必死で私の方へ手を伸ばしているのが見えたけれど、それも間に合わない。
絶望的な表情のせんせいの顔が、さいごに見えた。
これで、貴方の一生消えない傷になれたかしら。
ねえ、永遠に私を忘れないでいて、せんせい。
日曜日の昼、太陽がすっかり昇りきった頃。オレは、自分の部屋で、コントローラーを手に、黙々と画面に向かっていた。
画面の中には作りかけの街が広がっている。
これは、クエストをこなして資金や資材、人材を集めて、街を形作っていくゲームだ。建築できるものの種類はある程度限られているものの、一般的な街にあるものは大抵作れる。
今は街の中心となる役所を建て終わったところだ。
オレは、自分の頭の中に作りたい街の形を思い浮かべながら、次は何を作ろうか思案する。
学校か、病院か……。迷って、次は病院にすることにした。
そして、クエストを受注して、街はずれの森へ資材を集める旅に出た。
数時間後。日もだいぶ傾いて、窓から入る西日が眩しくなってきた。オレはコントローラーを置いて伸びをする。何時間も夢中でやっていたから、肩と背中がだいぶ凝っていた。
画面の中の街は、まだ理想の3割程度しかできていないが、明日のことを考えて、今日は終わりにすると決めた。まだプレイしたい気持ちを抑えてデータをセーブし、電源を切る。
オレはもう一度座ったまま伸びをして、そのままの勢いでゴロンと後ろに寝転んだ。
日曜日の夕方、集中してゲームをした後、心地よい疲労感に包まれる時間がオレは好きだった。
来週はどこまで進むかな――。
狭い部屋の狭い画面の中の小さな理想郷を思い描き、オレは心を踊らせた。
「ミネルバ、私が中2の頃の写真を見せて」
AIに語りかければ、「かしこまりました」の声と共に、空中に無数の写真が投影される。それを手でスワイプして順番に見ていく。
親友4人で同じ色のハチマキをして肩を組んで笑っている写真が目に入る。中2の体育祭の写真だ。
「この頃は4人同じクラスでずっと一緒にいたなあ。懐かしい……」
中学からの親友。今も交友はあれど、それぞれ違う道を進んで会う機会は減ってしまった。それが、久々に来週会えることになって、思い出を振り返りたくなったのだ。
「ご主人様、『懐かしい』とはどのような感情ですか」
ただただ楽しかったあの頃を思い出していると、AIのミネルバが言った。
ミネルバは普段は私の言動を見て勝手に学習しているようだが、たまにこうして質問をしてくる時がある。
「えー、なんだろう。過去を振り返って『あの頃は良かったなあ』とか『楽しかったなあ』とか思う気持ち?」
「過去の記録を参照することで当時の感情を想起するということですか」
「うーん、それだけじゃないんだよね。当時の感情だけじゃなくて今の思いも含んでるというか……」
私は頭を悩ませた。『懐かしい』って感情の言語化、結構難しい。
「うまく答えられないや、ごめん」
「いえ、ご回答ありがとうございました」
それっきり、ミネルバは沈黙した。
ミネルバには感情はない。『楽しい』『嬉しい』『悲しい』など人の状態として記録することはできても、その感情になることはできない。
それでもこうして質問してくることが、感情に関して理解しようと努力してくれてる感じがして、私は嫌いじゃなかった。
もしも、ずっと未来、ミネルバが感情を得る日が来たとしたら。私とのこんなやりとりを懐かしく思うこともあり得るだろうか。
そんな日が来たらいいなと、私は思った。