合ってるかが不安になり、手は冷え切り、絶えず汗が流れる。そうすると「大丈夫?」と声をかけるやつがいる。
その人は外国人で親世代の女性である。カタコトが可愛く癒やし的な存在になっている。大丈夫じゃないと言えばどうなるのだ?何かしてくれるというのか?「大丈夫」を想定して聞いてるだろう。自分が安心したいだけの情緒由来の確認。幅広の二重に大きい瞳孔を此方へ向けて眉を下げる。マスクをつけているので目元の情報しかなく、余計に心配と同情で模した表情が目につき、そして鼻につく。
やめろ。私が惨めになるではないか。優しくするな。
そんな未熟で惨めな言葉が脳内でこだまする。
が、言えることはない。余計に眉を下げて瞳を潤ませて、被害者ぶられるだけなのだから。
親世代という年齢もあり、子供のように思われているのだろう。その優しさが私を惨めにさせるのだ。
また、その女は「ごめんなさい」とよく言う。
後ろを通る時や、ぶつからないのに掠めるくらいでも言う。いちいち謝らなくていいと思うが、こんな卑屈な考えをする自分と、カタコトの愛嬌のある礼儀正しい人ならば後者が好かれるのは明確である。
そうだ。私はきっと優しくされなくとも惨めであるのだ。
それを優しい人間のせいにしている性根の悪い人間なのだろうな。
空が明るさを取り戻す頃、僕は本来の明るさを取り戻せずいる。空が明るくなると同時に彼方此方でアラームが鳴って、規則正しく起き規則に基づき働くのを想像し自己否定に陥る。出勤や通学で行き交う車で騒がしくなるまであと少し。まだ仄暗く運送業者が何かを運ぶ音が聞こえる。それを聞く僕はカーテンが閉ざされた部屋の中。本来の明るさと言ったけれど周りがそう勝手に言っているだけだ。
誰が暗く振る舞うかよという話なのだ。娯楽化された暗さに憧れたものしかいないだろう。装飾的な暗さや病みが好きなだけで僕なんかと分かり合えるとは到底思ってはいけない。そういう奴は美化された苦しみが好きなだけで現実の弱者や苦しみに寛容なわけではないことを肝に銘じておかなきゃいけない。世間は明るくなると生産性を取り戻す。生産性の音が僕を殺す。正しくは自分で殺しているが、人のせいになんとかしたいのだろう。出典も何もかも過去しかない中古品は今日も過去に泣かされる。
郵便配達の音がする。世界で自分一人だけが何もしてないのではないかと被害妄想を繰り広げる。
身の回りで考えるからそう思うだけなのは分かっている。
夜になれば光だけになる。車の光コンビニの光くらいだろうか。田舎だから街灯もない。深夜に街へ繰り出してみると自分に似た落ちぶれた人間しかいない。勝てない勝負はしないの価値観で深夜の街へ繰り出す。明るくなれば人の視線に顔が見られる。何もいいことはない。
勝てない勝負はしないから成長しないまま。
今日も歪んだ価値観から世間一般を嫌い妬む。
「昼」を嫌い「朝」を嫌い「人」を嫌い「接触」を嫌い
「休日」を嫌い「祝日」を嫌った。
世間一般を嫌うことで同じように嫌っている人間と繋がりたいとか共感を求めているという事実に気づくとより一層自己嫌悪が深まるばかりだ。
今までどんな風景を見てきただろうか。見たくない風景もあったであろうが、思い出せることができ言葉にすることのできる風景は花火だ。小学一年生の時に花火を題材にした作文を書いたことがある。その内容はおおまかこうであった。花火が私を踊りへと誘う。轟く轟音の後に徐々に徐々に点と点とが繋がる様に色彩が繋がる。一緒に踊りませんか。赤青黄色緑。轟音を聞いて家族の元へ届いたお国の戦いの出場通知である真っ赤な紙とリチウムによる炎色反応の真紅の花火が繋がり顔を俯かせ一筋伝う。その頃の無抵抗でいるしかなかった幼子へと戻るのだ。
花火と違い夥しい量の不健全な赤黒いものが一面に塗られている。花火の様に撃たれて首が飛ぶ。色が変わる前にほら早く。肌に纏わりつく衣服が気持ち悪い。汗が垂れ衣服の中へと伝っていく。音に怯えながらも手を取れば何か変わるかもしれないそう信じた。どこへと誘ってくれるのだろう。花火と共に空へ舞う。地面へと誘われるだろう。そして第一発見者が通報し病院へと誘われるのだろうが、小学一年の私は知らなかったことである。花火に怯える様な臆病な性格ではあったが色彩と音を使った表現方法に幼いながらに感銘を受けたのだろう。今はその歓声の声が鬱陶しく聞こえる。だが、それは歓声を上げている方々には何も関係がないことであって、ただの底辺が下から恨み言を言っているに過ぎない。何も知らなくていいことである。何も気にしなくていいことである。だがだからこそ腹が立つのだ。偽善を生業にしている方や偽善や自己満足で行動し責任もないくせに揺さぶる輩が。