私には記憶がない
正確には記憶が持たないが正しいのだろう
毎日記憶がこぼれ落ちてしまうからだ
その日の事はその日の内の間だけは記憶はできるが次の日になると忘れてしまう
一過性全健忘と呼ばれる病気とは違うようだ
だからこそ一日経過する前にその日、
何をしたか日記をつける様にしている
その日の朝はどんなものを食べたか、どんな行動をしたか、どんなものを見たか、どんな風に過ごしたか
思い出せなくなる前に全てを記録として書き留めておく
そうして次の日の私が日記を読み、
昨日はどんな事をしたか改めて記憶を引き継がせるようにしている
面倒かもしれないが切実な問題だからやむを得ないのである
私の毎日は空白な毎日
だからこそ毎日が新鮮に感じるのだ
毎日が新鮮な事は良い事かもしれない
不便な事もたまにはあるが毎日古い事は忘れ、
新しい事に目を向ける事は
結果的には精神的に良い事だ
細かい事は気にしても仕方ない
決して細かい事だけで
人生は終わるわけではないのだから
「空白の日常」
色取り取りに着飾った花々
幾重にも重なった色味のある虹
毎日食べる食卓の彩り
あらゆる緑に包まれた公園
一つとして同じ色のない一つだけの世界
私達はいろんな色に囲まれ生きている
生まれた時から亡くなるその時まで
どれだけの色に出会えるのだろうか
普段は気にならないが
ふとした瞬間に気づいてしまう色彩
自然という色彩に気付ける人は
きっとほんの少しだけ
毎日が幸せな人かもしれない
街角で人間達の他愛の無い会話に
耳を研ぎ澄ます猫達
空を羽ばたき踊る鳥達
水面に揺れる魚達の囁き
夜空に瞬く星々の溜め息
生命の始まりは何色にも染まらない色合い
あらゆる物はやがて色彩に染まり
世界も様々な色に染まりゆく
そんな世界が私は好きだ
「色彩の世界」
私はそっとその場へ花を置いた
あなたがいてくれたからここまで来れたのだ、と
あなたが傍にいなかったら
私はきっと一生立ち直れなかった
ありがとう
お疲れ様
また会いましょうね
お別れは言いません
また再開できる時を信じて
本当に大好きでした
みんな忘れませんからね
あなたとの思い出だけは決して忘れないから
娘達や息子夫婦達、孫達もあなたの事が大好きでした
もちろん私もあなたの事が初めて会った時から、
一目会った時から好きでした
私は下を向き、あなたは照れくさくて
そっぽを向いていましたね
でもそれから何十年も一緒にいてくれて
本当に私は幸せでした
最後のひと時まであなたと一緒にいれて
本当に私は幸せだったのかもしれません
本当にありがとうございました
向こう側でもまた会いましょうね
そして、また二人で美しい花を見に行きましょうね
「ある老夫人の亡き夫への思い出語り」
「とある丘の上にある桜の樹に
相合傘を刻むと将来結ばれるんだって。」
私はその噂を聞いてこっそり刻みに行こうと思い、
その丘の桜の樹の麓に行った。
桜の木には既にびっしりと相合傘が刻まれていた。
私はそれを見て唖然とし、踵を返した。
私には好きな人がいた。
いた、とはあるが今では私の良き旦那である。
つまり結局のところその後、結ばれたのである。
私は踵を返した後ふと
とあるもう一つの噂を思い出した。
それもあまり知られていない噂だ。
それは確かこんな内容だった。
「好きな人に振り向いて欲しければ
ノートを使い切った後、
最後のページの端っこに
相合傘を書けば結ばれる。」
私はそんなもので結ばれるのだろうか
と初めて知った時、疑問しか浮かばなかった。
使い切ったノートなら何でもいいのだろうか、
どんなノートでもいいのか、と。
私は疑問を抱きながらも試しにやってみた。
腑に落ちない。なんか腑に落ちない。
こんな事で本当に振り向いてくれるのだろうか。
そんなある日の事だった。
その日は午後から雨が降る予定がなかったのに
降り出したのだ。
私は普段から少し大きめの折り畳み傘を
鞄に入れていた為そこまで気にしてなかった。
丁度帰ろうとしていた時に声をかけられた。
「あの、すみません。
今日、傘を持ってきていなかったもので、
申し訳ないのですが一緒に入れてくれませんか。」
私はその声を聞いて振り向くと、
その人は私の後の旦那になる彼だった。
「帰る方面は何方ですか?」
聞くとどうやら私と同じ方面だという事がわかり、
私は心の中で
「まさか、あの噂は本当だったのかな。」
と思ってしまった。
雨の中、二人でいる相合傘は私にとって、
何処か照れ臭くも嬉しく感じた瞬間だった。
まるで夢のようだった。
その夢のような光景が私には忘れられなかった。
結婚した今でも覚えている。
あの時恥ずかしくて一言も話しかけられなかったと。
「あ、ここまででいいです。」
「本当にいいの?家まで送るよ?」
「いえ、ここまで来れば家はすぐそこなので。
ありがとう。」
そう言って私は彼と別れた。
それからその日はその事で
頭がいっぱいになってあまり眠れなかった。
次の日から私はその人から声を掛けて
もらえるようになった。
恋の御呪いは絶大なのかもしれない。
気づけば自分の思い通りになってしまう事も
あるのだから。
御呪いは文字通り呪いの一種である。
使い方さえ誤らなければ
幸せになれるのかもしれない。
「恋と云う御呪い」
私はある場所を目指していた。
その目的地の立て看板にはこう書いてあった。
「注意 この先、落下道」
思えば私の人生は色々あった。
家族には迷惑かけてばかりだったし、
会社にも迷惑をかけていた。
同僚達からは陰口を叩かれ、
果てには家族からも避けられていた。
こんな人生ならと思い、探したどり着いたのが
この「落下道」だった。
落下道は文字通り、
道の先は切り立った崖になっている。
私は過去の出来事や思い出を頭の中で整理しながらその先端へ向かった。
先端から下を覗いた時には全く見えず私は急に心細くなった。
私は意を決して飛び込んだ。
人生、色々あったなぁ。
そんな事を考えながら落下し続けた。
数分後
「喉渇いたなぁ、まだ下には辿り着かないのだろうか。あっ、なんか降ってきた。これオレンジジュースじゃないか。折角だから美味しくいただこう。」
数時間後
「まだ下が見えないな。どうなってるんだここは。」
数年後
周りには色んな人や物が降っている状態になった。
気づいたら顔見知りもできた。
「やぁ、こんにちは。あなたはここに落ち続けて何年ですか?」
「私は多分五年位ですかね?ここは色々降ってきて最早快適な環境ですよ。」
そして更に数年後
「おやっ?やっと下が見えてきたぞ?」
やっと地上らしき光景が見えてきた、
がどうもその地面はやたら白いのである。
何だこれは。
いざ着地。
私は着地の瞬間思わず目を瞑った。
が、どうやら生きているらしい。
というか何だこの感触はまるでベッドのふっかふかのマットではないか。
その感触に私は思わず「ここから離れたくない」
と思ってしまった。
現実という地獄からこのままずっと離れていたい。
いつまでそのマットに埋まっていたのか、起き上がるとその先に立て看板がある事に気がついた。
そして、その立て看板にはこう書いてあった。
「人生の登り道」
私の人生は終わりなんかじゃなかった。
まだ始まってすらなかったんだ。
これからの人生はずっと落ち続けた分だけ登り道が続くのか。たとえその道が急であったとしてもその分好調が続くというのか。
私は意を決してその道を登り続ける事に決めたのだった。
「落下道」