見下ろされたまま、頬に貼り付いた髪を顔の横に流された。
「こんな時くらい、名前を呼んでよ」
君と初めての時。
普段苗字で呼んでいる君は必死な顔をして眉を歪めた。
「名前、よんで」
生真面目な君が、こんな時は甘えたになるなんて知らなかった。
(可愛いから、呼んであげよう)
名前を呼んだら、眉を歪めたまま、はんにゃりと笑った。
/5/26『君の名前を呼んだ日』
※暗い話
※自傷の描写があります。
僕を称賛する音が聞こえる。
鳴りやまない、拍手の音。
僕は両手を広げ、真ん中で一礼。
次に右、左と頭を下げていく。
とうとう僕は成功させたんだ。
あの困難な曲を一度も間違えることなく。
(父さん、母さん、見てますか。先生、僕やったよ)
鳴らし慣れていないのか、短い指笛の音まで聞こえる。
無名の僕にそこまでしてくれるなんて、感動だ。
歓声は時折大きくなり、また戻りする。
関係者席にいたであろう記者が慌ててカメラを持ったのか、バシャバシャと二度写真を撮られた。
まさか無名の僕が優勝するなんて思ってもみなかったのだろう、当然の行動だ。
(あぁ、涙と照明で目の前がまっしろだ。まぶしいな――)
僕はもう一度頭を深々と下げて、暗い舞台袖へ戻った。
――――
――
「先生、患者の意識が……」
「……ご家族を呼んでくれ」
看護師の声に、ペンライトをしまった医師が言った。
看護師は慌てて連絡をしに向かう。先の連絡時に受けた印象から患者には同情せざるを得なかった。
(今度はちゃんと来てくれるといいけど)
ベッドに横たわる若きピアニストの細い左手首には包帯が巻かれていた。
さぁぁぁ、と窓を細い雨が叩く。
5/26『やさしい雨音』
一年半振りに復帰。リハビリ。
復帰始めがこんな話になるなんて。
穏やかな昼下がり。
ココアを淹れて、
久しぶりにクッキーなんて出してみたりして。
窓辺でゆったりなんて優雅な感じではないし、
クッキーをお皿に出して、ソーサーも使わないけれど。
忙しい時間に心奪われた日々に休息を。
じぶんをたいせつに。
/10/8『束の間の間の休息』
本気で
あなたを殺したいと思った
誰にも渡したくないんじゃない
わたしだけのものにしたくて
/『本気の恋』9/12
文字の赤い日はあなたに会える日
あなたが嘘をついて、私に会ってくれる日
/9/11『カレンダー』
世界に星が散っていた。
これが「世界が輝いて見える」ということか
太陽の光が反射しているわけではない。
けれど、まさにそのようにきらきらと
ぼくの視界は輝いていた。
ああ、この世界はなんて素晴らしいんだ
思わず両手を広げて空を仰いだ。
阿鼻叫喚が僕の眼下では
繰り広げられていたけれど
赤い広がり
視界の端にはサイレンと瞬く赤が見えた
ああ、邪魔しないでくれ
せっかくの素晴らしい世界に水を差すな
きらめきが瞬きと同義とは聞いていない
/9/4『きらめき』
とめて、止めて……
ねぇ、お願い! 誰か止めて!
わたしの足はワルツを、ステップを踏むように
あちらへ こちらへ ひとりでに動いていく
わたしが悪いの?
こんなことになるのなら、こんなステキな靴なんて望まなかった
お願い、止めて
わたしの足を止めて!
もう靴の色なのか 私の足に流れる色なのか
わからないの
赤い靴をはいた足は、踊るように止まることを知らない――
/『踊るように』9/7
時計の針が頂点を指した。
それにぴったりと寄り添うように短針が重なった。
「ぴったりと針が重なり合う時。それは始まりを告げる。もしくは終わりかもしれないね」
パチンと懐中時計の蓋を閉じて、男は傍らの子どもに微笑んだ。
「なにクサいこと言ってんですか。劇のセリフでもあるまいに。そんなこと言ってるヒマあるならさっさと仕事行きますよ」
傍らの子どもは冷たくあしらうと、ハンチング帽を目深にずらした。
いつしか行動を共にするようになったこの子どもは、彼の相棒だ。
だが相棒と呼ぶほど、仕事の片棒を担がせるのは良心が痛む。
「今日の獲物は絵画『彗星の美女』。まっすぐ12時の方向、南の窓の鍵が開けやすいですよ」
早々に留守番係になってもらいたいのだが、いかんせん優秀なので口実を作れずにいる。
「よし、じゃあ行こうか」
彼はマントを翻すと、仕事――怪盗となり、闇夜に消えた。
/9/6『時を告げる』
書き上げた直後に消えた悲しみ……。
色々消えてしまって不完全燃焼気味。戻らない言葉たち。
昔、小学校の運動場で貝がらを拾っていた。
わたしはあまり活発な子ではなかった。
同じように仲のいい子たちと静かに(わたしたちの中では活発に)遊んでいた。
その頃のわたしたちは、砂場で貝がらを拾うのがブームだった。
どこかから運ばれてきた砂にまぎれる貝がらはロマンがある。
この限られた空間から拾えるキレイなものは、宝物だった。
「ねぇ、しってる?」
ある日いつものように貝がらを拾っていると、ある女の子がつぶやいた。
「ぴったりくっついた二枚貝を拾うとね、願いが叶うんだよ」
女の子は砂をさらいながら続ける。
「こんなふうに開きかけとか割れてるのとかじゃだめ。ちゃんとぴったりくっついてるの」
ひとつ拾ってみせたその貝がらは、二枚貝ではあるものの、少し口が開いていた。
「見つけよう!願い事が叶う貝!」
わたしたちは、それから砂場をひっくり返す勢いで、それこそ隅から隅まで探したと思う。
一週間も経った頃、見つからなかったのか飽きたのか新しいブームが来たのか、どれが原因だったか覚えていないが、ひっそりとわたしたちは貝がら探しをやめた。
結局、誰ひとり二枚貝を見つけることは出来なかったのだ。
――たぶん。
実は、わたしはこっそり見つけていた。
白いぴったりとくっついた二枚貝。
「宝物を見つけた!」と思った。
あの時は、海沿いで結婚式を挙げる花嫁のウェディングドレスのような白だと思った。
そう思ったのは、年の離れたはとこからのハガキが原因だろう。今ならそう思う。
キレイにぴったりと口を閉じ、あんなに砂にまみれていたのに汚れもなく、まっしろな二枚貝だった。
これは願い事も叶えてくれる。そう思えるほどのものだった。
これは大事に仕舞わなければと思い、引き出しの宝物箱になっている菓子缶から、小瓶を取り出した。
この小瓶は、両親が結婚祝いを贈ったはとこからのお返しの中に入っていた、幼い私宛のお土産。あちらの願いが叶うと言われる砂を入れた小瓶。
誰にも見られないように、ゆっくりと小瓶を開け、そーっと貝がらを入れた。そして願い事が叶う空気のようなものが抜けないように、さっと瓶のコルクを閉じた。
もしかしたら、みんな言わないだけで、ひとつくらいは見つけていたのかもしれない。
だけど自分だけが見つけて和を乱すのも嫌だったから、こっそりとポケットにしまった。
「ふふ、願い事、まだ叶えてくれるかしら?」
あれから20年は経った。
引き出しの整理をしていたら出てきた小瓶。
懐かしくて、手のひらに出してみた。
未だにぴったりと口を閉じている。
(あの頃はあんなに手のひらの上で輝いていたのに――)
もう小指の爪くらいになった小さな白い二枚貝。
色褪せることのない白を汚すまいと、持っていた指先から小瓶に大事にしまった。
/9/5『貝殻』