この世の言葉が全て逆さまだったらいいのに。
そしたら私はあなたに気持ちを伝えられるのに。
いつもおちゃらけて、女の子には誰にでも優しく告白されたら誰とでも付き合う、隣の家に住んでるケンちゃん。
『なぁ、なんでお前はそんなに俺のこと嫌うの?』
『女の子を取っ替え引っ替えする人のどこを好きになれる要素があるの?』
『ほんと、お前って可愛くないよな』
そんな言葉のやり取りを、何度しただろう。
『うるさいな、別に私が可愛くなくてもケンちゃんには関係ないでしょ』
『そうだな』
『アンタなんて大嫌い』
『ああ、知ってるよ』
少しだけ悲しそうに笑うケンちゃんに胸が締めつけられる。
嘘だよ、ケンちゃん。
本当は、好き。大好き。
私もケンちゃんに告白する女の子たちみたいに素直にそう言いたい。そしたらケンちゃんと付き合えるかもしれないのに。
でも、そんな勇気私は振り絞れない。
言葉はいつも喉元で詰まってしまう。
だから今日も「大嫌い」しか言えないの。
本当は小学校の頃から好きで好きでたまらないのにね。
小学五年生。
四月八日はクラス替えの日だ。
私は、一年の頃から仲良しな久美ちゃんと同じクラスになりたかった。
校長先生の長くて眠くなる話が終わり、いよいよクラス発表の時間。五年生は皆、多目的室へ向かった。
誰と同じクラスになるのか。胸の中はずっと不安でいっぱいだった。
久美ちゃんとは同じになれなくても、ようこちゃんやマキちゃんとは同じになりたかった。二人とも久美ちゃんほどではないが、仲良しだ。多目的室でも当然隣同士に座った。
先生が一組から順番に名前を読み上げていく。
一組の時点では私も久美ちゃんも呼ばれなかった。でも二組の発表のとき、久美ちゃんの名前が呼ばれた。心臓がドキッと跳ねる。次に、ようこちゃんも呼ばれ、マキちゃんまで呼ばれた。私は祈りながら名前が呼ばれますようにと両手を合わせた。
けれど、私の名前だけが、最後まで呼ばれなかった。
私は四組。
ひどいショックだった。
もう一度クラス替えをやり直してほしいと願った。でも、そんなことが叶うはずもない。
久美ちゃたちと、
「休み時間は絶対に遊ぼうね!」
と約束したが、その約束は果たせなかった。
四組では席替えするためのルールで、休み時間はクラスの全員で遊ぶ必要があったから。
時々、遊んでいる最中にこっそり抜け出したが、すぐにクラスの子に見つかってしまい、久美ちゃんたちと遊べなくなった。話も全然しなくなって、仲良しだった子が遠くなってしまった。クラスが違っただけなのに、私たちははなればなれになってしまったのだ。
悲しくて仕方がなかった。どうして私だけ違うクラスなんだろう。久美ちゃんとようこちゃんとマキちゃんが更に仲良くなったように見えて、自分だけのけものになった気分だった。
だけど、いつしか四組にもいい友達ができた。毎日遊ぶことでクラスに絆も生まれた。だから私はいつまでも嘆くのをやめ、同じクラスの子と遊ぶことに専念したのだ。
この先もきっと、数えきれないほどの別れがあるだろう。そして新たな出会いもある。私はその出会いを大切にしていこうと胸に深く刻んだ。
昔、母親に内緒で飼っていた子猫がいた。
学校の帰り、ダンボールに入れられてミャアミャア鳴いてた子猫。私が通りかかると、いっそう大きな声で鳴き出して、通り過ぎようとしたら小さな手でダンボールをカリカリ引っ掻き、さらにミャアミャア。
どうしても無視できなくて、私はなけなしのおこづかいをはたいてミルクを買った。
子猫は喜んでミルクを飲んでいた。すごくお腹が空いていたみたい。けれど、家じゃ飼えない。私にさえご飯をくれないお母さんが許してくれるはずがないから。だから、ダンボールのまま公園に連れて行って飼うことにした。
そこは、私が毎日時間を潰している場所。お母さんが家に男の人を呼ぶとき、私はいつもこの公園のブランコに座っていた。お母さんと手を繋いで帰る子供たちをぼんやり眺めていた。
その間はいつもひとりだったけど、これからはこの子がいる。そう思うと寂しくなかった。
次の日も、次の日も、子猫は私を待ってくれていた。膝に乗ってミャアミャア鳴いて、私の手をペロペロ舐めて、またミャアミャア鳴いて。
私が来るのをそれはもう、心から喜んでくれているみたいだった。
だけど、一緒に過ごし始めてから一週間が過ぎた頃。お母さんに見つかった。
おこづかいが底をつき、家のミルクをお皿に入れているところを見つかってしまったのだ。
子猫はあっさりと捨てられ、私はまたひとりぼっちになった。
公園に行っても、ミルクをねだる子猫はもういない。
膝の上で気持ちよさそうに眠るあの子には、もう会えない。
寂しかった。けど、あの子はどこかで幸せになってるんだって自分に言い聞かせた。私がいなくても、私の膝の上じゃなくても、あの子はどこかで幸せに暮らしているはずだって。
だけど、いまでも子猫を見ると確かめに行ってしまう。
あの公園はもうなくなっているし、あの子はもうこの世に存在しないかもしれないのに。
それでも、探してしまう。
あの小さな体をもう一度なでたかったから。
あのミャアミャア鳴く声を、もう一度聞きたかったから。
秋風に運ばれた紅葉が足元に舞い降り、私はふと足を止めた。
目の前に広がる紅葉の美しさに息をのむ。
忙しい日々に追われるうち、気付けば季節は秋へと移ろい変わっていた。もうあと一週間もすれば、辺り一面は赤一色に染まるだろう。
そんなことを考える余裕が出来たのは、重要なプロジェクトが終局を迎え、仕事とプライベートのバランスが上手く取れるようになってきたからだ。
そよそよと、風に揺れる紅葉の葉音が心地よく耳に響く。心が自然と穏やかになり、洗われていくようだった。日々の喧騒を忘れるように、私は軽く目を閉じる。
『なぁ、俺たちもう一緒にいる意味ないんじゃないか』
半年前、別れた彼の言葉が胸の中に甦る。学生の頃からの付き合いで、私のことを誰よりも理解してくれる唯一の存在だった。心のどこかで彼なら大丈夫だとうぬぼれ、忙しさにかまけて関係をおざなりにしてしまった自分。
今さら反省しても遅いけれど、あの時少しでも彼を思いやることができていたなら……
目を開けて、燃えるように赤い紅葉を見つめる。じっと眺めていると、ふいに枝から離れた葉が一枚、ひらひらと舞いながら私の肩にそっと乗った。小さな手の平よのうな紅葉。私はふふっと笑みをこぼし、肩へ指を伸ばした。けれど、指先に触れる前に紅葉は風にさらわれてしまう。くるくると踊りながら紅葉は運ばれ、誰かの足元に静かに降りた。
「久しぶりだな」
聞き覚えのある声が風に乗って、鼓膜に優しく届く。
「会いたかった」
その言葉にゆっくりと顔を上げる。目の前に、彼が微笑んでいた。半年ぶりに見る笑顔。
『会いたかった』その言葉に胸に熱いものが込み上げる。忙しい日々の中で失ってしまった大切な、大切なもの。今からでも取り戻せるだろうか。
私は意を決して、彼に向き合う。
「少し時間あるかな? 話したいことがあるの」
吹き抜ける秋風が、私の背中をそっと押してくれる。「ああ」と、あの頃と変わらぬ笑顔を向けた彼に、私は心臓は期待に張り裂けそうだった。
彼女が荷物をまとめている。
この家を出ていくそうだ。
付き合って5年。結婚して10年。
好きで好きで、おれから猛アタックして付き合った彼女。何度断られても諦めずにプロポーズして結婚した彼女。
大好きだった。
一生愛して守る。教会でそう誓ったのに、おれは今、その誓いを破るのだ。
彼女が荷物を手に取り、振り返る。
部屋に残されたおれたちの思い出。
写真の中の笑顔、幸せな瞬間。
かつて、この部屋に溢れていた温かな空気を物語っている。
「また会いましょう」
彼女が微笑んで囁く。
こんな時まで綺麗な彼女に涙が少しこぼれそうになる。
部屋は彼女の出発で寂しくなるだろう。
けれど、追いかける真似はもうしない。
「ああ、また会おう」
おれは一歩下がり、彼女の背中を見送る。
彼女が前へ進むように、おれも進む。
さあ、新しい章への旅立ちだ。