秋風に運ばれた紅葉が足元に舞い降り、私は足を止めた。
目の前に広がる紅葉の美しさに息をのむ。
忙しい日々に追われるうち、気付けば季節は秋へと移り変わっていた。もうあと一週間もすれば、辺り一面は赤一色に染まりそうだ。
そんなことを考える余裕が出来たのは、重要なプロジェクトが終局を迎え、仕事とプライベートのバランスが上手く取れるようになってきたからだろう。
そよそよと、風に揺れる紅葉の葉音が心地よく耳に響く。心が自然と穏やかになり、洗われていくようだった。日々の喧騒を忘れるように、私は軽く目を閉じる。
『なぁ、俺たちもう一緒にいる意味ないんじゃないか』
半年前、別れた彼の言葉が胸に甦る。学生の頃からの付き合いで、私のことを誰よりも理解してくれる唯一の存在だった。心のどこかで彼なら大丈夫だとうぬぼれ、忙しさにかまけて関係をおざなりにしてしまった自分を反省する。
あの時、少しでも彼を思いやることができていたなら……
目を開けて、燃えるように赤い紅葉を見つめる。じっと眺めていると、枝から離れた葉が一枚、ひらひらと舞いながら私の肩に乗った。小さな手よのうな紅葉。私はふっと微笑み、肩へ指先を伸ばした。けれど、紅葉は触れる前に風にさらわれてしまう。くるくると踊りながら運ばれていく紅葉は、誰かの足元に静かに落ちていく。
「久しぶりだな」
彼の声が風に乗って、私の耳に優しく届く。
「会いたかった」
ゆっくりと顔を上げると、彼が微笑んでいた。半年ぶりに見る笑顔。『会いたかった』その言葉に胸に熱いものが込み上げる。忙しい日々の中で失ってしまった大切なもの。今からでも取り戻せるだろうか。
私は意を決して彼に向き合う。
吹き抜ける秋風が、私の背中をそっと押してくれるようだった。
彼女が荷物をまとめている。
この家を出ていくそうだ。
付き合って5年。結婚して10年。
好きで好きで、おれから猛アタックして付き合った彼女。何度断られても諦めずにプロポーズして結婚した彼女。
大好きだった。
一生愛して守る。教会でそう誓ったのに、おれは今、その誓いを破るのだ。
彼女が荷物を手に取り、振り返る。
部屋に残されたおれたちの思い出。
写真の中の笑顔、幸せな瞬間。
かつて、この部屋に溢れていた温かな空気を物語っている。
「また会いましょう」
彼女が微笑んで囁く。
こんな時まで綺麗な彼女に涙が少しこぼれそうになる。
部屋は彼女の出発で寂しくなるだろう。
けれど、追いかける真似はもうしない。
「ああ、また会おう」
おれは一歩下がり、彼女の背中を見送る。
彼女が前へ進むように、おれも進む。
さあ、新しい章への旅立ちだ。
バイクで走るのが好きだった。
風を感じる。生きてる感じがする。
苦しかった肺が膨らみ、ようやく呼吸ができるようになる。
だから彼にもバイクに乗ってくれるようにせがんだ。優しい彼は「いいよ」と笑って免許を取ってくれた。何度も一緒にバイクで出かけた。彼の運転は安全で、穏やかで、少し物足りなかったけど、それでも良かった。
私のバイクを修理に出してる間、彼の後ろに乗せてもらった。
彼の運転は相変わらず安全だ。
街を出て山道に入る。
いつも私たちが走っている場所。
少しだけ、スリルが欲しかった。
「もっとスピード出して」
「だめだよ」
「だって、これじゃあ息ができない」
彼によく言っていた。
バイクに乗っている時だけ、呼吸が苦しくなくなると。優しい彼は「わかった」と言って、スピードを上げた。
「もっと」「もっと」
少しずつ彼はスピードを上げてくれる。
景色が変わる。呼吸ができる。
「もっと」
「これ以上はだめだよ」
困ったように彼がそう言った瞬間、生い茂った草むらから何かが飛び出してきた。何かはわからない。シルエットは小さな四足歩行の動物。狐か狸か、たぶん、そんなのだ。
彼は避けようとハンドルを切った。動物にはぶつからなかった。けれど、スピードが出過ぎて制御ができない。バイクはそのまま横転する。山道に投げ出される身体。音を立てて転がるバイク。全てがスローモーションだった。
うつ伏せて倒れた身体を起こす。
手も足も動く。起き上がって周りを見ると、動物の姿はなかった。……彼の姿も。
転がったバイクの先に崖がある。
まさか、彼はここから?
震える手でスマホを取り出し、救急隊を呼ぶ。
彼にも電話したけれど繋がらない。何度かけても繋がらない。ああ、ああ。神様。
私がスリルがを求めたばかりに彼が。
救急隊の手を振り切って、救助隊の背中を見つめる。
どうか助かってと願いながら。
一年後の自分がどうなっているか、なんて考えられない。
だって私はたった今、大切な人に別れを告げられたのだから。
何年も一緒に過ごしてきて、周りの友達からも「いつ結婚するの?」「結婚まで秒読みだね」なんて言われていたのに。
そんな彼に突然別れを告げられて……。
私は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
『……ごめん』
たった一言そう告げて、部屋を出て行った彼。
一緒に暮らしていたこの部屋に、私だけを残して。
どうしてなんだろう。何がいけなかったの?
上手くいってると思ってたのは私だけだったの?
彼の洋服も、お気に入りだった本棚の中身も、歯ブラシも、お揃いのマグカップも、全部そのままなのに……彼はもうここにはいない。
香りだけ残して、どこかへ行ってしまった。
しばらくして、ピコン、とメッセージが届く。
彼が思い直してくれたんだろうか。
淡い期待を抱いて画面を見る。
『しばらく友達の家に泊まるから。荷物はまた取りに来る』
明日、世界がなくなるらしい。
なんでも巨大な隕石が流星群となって地球に降り注いでくるのだとか。
テレビやSNSではひっきりなしにそのことが流れてる。
世界中の偉い学者や大学の教授も認めているから、隕石が振ってくるのは間違いないようだ。
上流階級のお金持ちや権力のある政治家たちは地球を捨て、さっさと宇宙へ飛び立った。
お前も来い、と私の名前も知らなさそうな父親が言った。顔を見るのは何年振りだろう。相変わらず自分の言うこと成すこと全てが正しいと思ってる顔をしてる。本当に変わらないな、この人は。
どうせ私を連れて行くのも人が住める地を見つけたあと、自分の子孫を残すためなんだろう。
私はそのためだけの道具だ。誰が行くもんか。知らない男と子どもを作るなんてごめんだ。
知ってるでしょ、私に好きな人がいることを。ずっと大切に思ってる人がいることを。
アナタが人を使って彼との仲を引き裂かなければ、今頃私はあの人と一緒になっていたんだから。
無理やり私を連れて行こうとする父親の隣で、母はずっと泣いていた。一緒に行こう、と。
ごめんね、ママ。
ママのことは好きだった。
けど、私は行かない。
父親の手を振り解き、玄関へ走り表へ出る。
行き先はただ一つ。
人生を終わらせる場所はあそこだと決めていた。
あの人に初めて出会った場所。
何度も二人で会っていた場所。
そして、あの人と別れた場所。
坂を登り階段を駆け上がると視界が広がる。
高台にポツンと寂しそうに置いてあるベンチに座り、空を見上げた。残された時間はあとどれくらいあるのだろうか。
もし、彼に少しでも私への気持ちが残っていたならここへ来てくれたりしないだろうか。
最期の日をあなたと迎えられたら、それはどんなに幸せなことだろう。
私の、たったひとつの願い。