「ところで」
「ところで?」
「紐靴の靴紐」
「ん?」
「いや、すまん。ついお題が短かったので言葉遊びをしてしまった」
「へー、お題は靴紐かー」
「運動をするときは履くからね紐靴も」
「あとはスニーカーとか?」
「そう。毎回靴紐を締める人と絞めない人がいる」
「なんか面倒なやつ」
「怪我のもとなのでしっかり絞めたり、必要に応じて緩めるんだけどね」
「でも面倒だよ?」
お題『靴紐』
「ところで」
「ところで?」
「なんか意味深な」
「なんか意味深だ」
「……」
「お題のことだよね?」
「そう。『答えは、まだ』なんていってると、答えは一つ説や中間的な答えが許されていない文化的な問いな気がするね」
「んー、それは?」
「答えは暫定的なものとか今はこれとする。みたいなのがないと、答えを出さなきゃいけないとかみたいなのを感じるね」
「あー、必ず答えなきゃいけないから『まだ』があるのか」
「それと「正解」がある問いかどうかとかものね。なんか教育の弊害っぽさを感じるね」
「なるほど。正解がある教育をうけるとそうなるかも」
「今のことはなんでも正しいみたいに思っていても、数百年後から見たら間違いだらけなんだろうし。今から数百年前がそうだったように。まあ加速していくので、百年後ぐらいで感覚としては数百年前かもしれないけどね。コンピューター以前と以後、インターネット以前と以後、今のような汎用的なAI以前と以後」
「長い。でも正解って時代によって違うとかあるよね。だとしたらこのお題もそうかもしれない」
「その時代の人には答え合わせができないんだろうね。その点ではお題のように答えは、まだ。みたいなのはあるね。本質的な分からなさという点でね」
「わからないのが正解みたいな」
お題『答えは、まだ』
「ところで」
「ところで?」
「横文字だ」
「あー、いつものお題ね」
「しかも長い。『センチメンタル・ジャーニー』か、日本語だと失恋旅行、傷心旅行というところか」
「失恋すると旅に出る心理はよくわからないなー」
「その人が身近にいて顔を合わせたくないというならありじゃないかな?」
「あー、普段会うとなるとお互いに居心地悪そうだもんね」
「よくわからなかったので、検索してしまった」
「へー。なになに、松本伊代って人が出てくる」
「へー。ローレンス・スターンって人が1768年にセンチメンタル・ジャーニーって本を書いてる」
「最古のセンチメンタル・ジャーニーだ!」
「内容が気になるね」
「なるなる!」
お題『センチメンタル・ジャーニー』
「ところで」
「ところで?」
「お題に絵文字が入るようになってる」
「おおっ!」
「まだ文学関係だと絵文字は入っていないけど時間の問題か」
「慣れてくると読みやすくなる」
「慣れないと読みにくい。当たり前体操」
「それはそう」
「今回のお題ってちょっと前にネットで流行った月が綺麗ですね大喜利を見たんじゃないかと」
「あー、ツイッタラー説!」
「ノンデリの『月は綺麗ですね』とデリの『月も綺麗ですね』の対比がおもしろい」
「それ」
お題『君と見上げる月…🌙』
「ところで」
「ところで?」
「『4分33秒』なんて思い浮かぶね」
「何が?」
「ああ、今回のお題が『空白』なんだけど、小説とかは紙がもったいないので多数のページにわたっての空白とかはほとんどないんだよね。なくもないところがおもしろい」
「なるほど。空白の本は泥棒が中身を盗んだみたいな話もあったような」
「カバー、装幀や本文での遊び要素としてあったりするね。絵本でも空白の演出や真っ黒な演出もあるし」
「おー。なかなか自由だ」
「空白の本として出回っているのは後は束見本かな。出回っちゃダメなやつ」
「何それ」
「本の格好をしたノートみたいなものだよ」
「へー」
お題『空白』