涙は、精神と身体とが繋がっているということを示すもっとも分かりやすい証拠であると思う。血も涙もない性格だねなどと言われる人間になりたくないから、私は今日も身体を動かす。
自分の幸福のラインを下げることによってより多くの幸福を得ようと試みるといった話には反対である。色々のことに幸福を感ずること自体はとても良いことだと思う。けれども、至らない幸福の、至ることのなかなか叶わない幸福を前にして、それに目を向けるのを諦め、それを求めるのを諦め、より身近で、簡単に得ることのできるものによって自己を満足させて納得させるというのが続けば、いずれきっと、精神が疲れてしまう。醜悪の部分があるのが人間であるというのは間違いない。が、醜悪は醜悪であって、それは美ではない。醜悪に理屈を付けて美と解するのには無理がある。醜悪を美と勘違いしてはならない。私は生きることとは、なんとかして、ときに涙を流しながら、醜悪を避け、退け、そして前に進み、真善美と言われるものをひたすらに追い求め続けることだと思う。
草木が芽生え、花びらが舞い、水が温み、空気が暖かくなるだけで、最悪の時期は過ぎたと思わせてくれるのは、春の用意してくれるいちばんの優しさであると思う。
平安時代の貴族たちはいったいどれだけの色の言葉を有し、それぞれの微妙の差異を解し、私たちに比べてどれだけ色鮮やかなる世界を見ていたのだろう、語彙の多寡をそういう文脈で捉え、言葉がものをあらしめる、言葉によって混沌とした世界は切り取られ、いわばアナログのものがデジタル化され、そして言葉を学ぶことこそが教養だ、語彙を増やすことが世界を理解する方法だ、そういう風に言われがちであるけれども、その文脈をのみ盲信し、語彙の少ないのを恥じる必要は一切ないのだと思う。いたずらに実感の伴わない語彙を増やし、地に足の付かない言葉遣いをして衒学者となることほど虚しいものはない。それをするぐらいならば、むしろ語彙は少なくて良いと思う。言葉の意味はいつでも実感として感じられ、生活、人生に伴うものでなければならない。いのち懸けのものでなければならない。私はそれを特に「詩の言葉」と表現したい。そして「詩の言葉」を使って生きる人達が私は大好きである。
ものを憶える、憶い出す、記憶と一語で言えば人間のたくさんある性質の一つのように単に思えるけれども、これはとても身体的で、根源的で、人間性や動物性といったものの狭間で揺れるとても気高い性質のように思う。少なくとも、人間のその活動は、たとえばコンピュータのデータ管理や深層学習などとは最初から、枠組みからして違うのだという実感がある。