猫(筆に随ふ)

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 平安時代の貴族たちはいったいどれだけの色の言葉を有し、それぞれの微妙の差異を解し、私たちに比べてどれだけ色鮮やかなる世界を見ていたのだろう、語彙の多寡をそういう文脈で捉え、言葉がものをあらしめる、言葉によって混沌とした世界は切り取られ、いわばアナログのものがデジタル化され、そして言葉を学ぶことこそが教養だ、語彙を増やすことが世界を理解する方法だ、そういう風に言われがちであるけれども、その文脈をのみ盲信し、語彙の少ないのを恥じる必要は一切ないのだと思う。いたずらに実感の伴わない語彙を増やし、地に足の付かない言葉遣いをして衒学者となることほど虚しいものはない。それをするぐらいならば、むしろ語彙は少なくて良いと思う。言葉の意味はいつでも実感として感じられ、生活、人生に伴うものでなければならない。いのち懸けのものでなければならない。私はそれを特に「詩の言葉」と表現したい。そして「詩の言葉」を使って生きる人達が私は大好きである。

3/26/2025, 10:31:38 AM