肌寒さを感じて、腕をさする。
秋の夜は、絶妙に冷える。
遠くで、人を探す人の声が聞こえる。
蚊帳の中から、だらしなく空を見上げていた。
外の騒がしさは依然として変わっておらず、私の待ち人はまだ見つからないようだった。
私の四肢は、力を抜いて、布団の上に投げ出されていた。
まるで、高熱が引いたばかりの子どものように、私はぼうっとして、空の白い月を眺めていた。
街角で罹患し、ここまで私を突き動かしてきた熱は、とっくに引いて、冷徹な寂しさと退屈さが、だるさとなって私の体にのしかかっていた。
この郭町の街角で、私は人生初の恋とも言えない恋をした。
街角の埃っぽい道の隅で、堂々と物語る、その面白さと切迫した演技と香りのようにひかえめに映る華やかさとは、恋に不感を貫いていた私の脳に、強い衝撃を与えた。
その衝撃は高熱となり、私を突き動かして、とうとうここまでやってきたのだった。
しかし、目当ての彼はいなかった。
それを気にした店主の気遣いで、私は今ここにいる。
あてがわれた部屋はずいぶん広く、そして静かだった。
彼を探す人の声も、あちこちで鳴いている鈴虫の声も、遠く聞こえる。
もうかれこれ一時間くらい、一人で秋の夜長を担当しているが、未だに外の騒がしさに変わりはなかった。
そして今、秋の夜特有の寂しさは、怠さと眠気となって、私を苛んでいた。
人恋しい秋の夜でも、私は独りで寝てしまえるのだった。
もういいか、なんて考えて、薄く目を瞑る。
既に慣れない体験で、無意識にこわばっていた身体がほろり、と解ける感覚がした。
瞼の裏から眠気が込み上げる。
先ほどまであんなに孤独を苛んで疎ましかった月の光や鈴虫の声が、心地良い。
私はその心地良さに身を委ねた。
意識が次第に真っ黒な闇に呑まれ、遠のく。
疲れによる安堵が、秋の夜の孤独を呑み込んでいく…
…
…気づいたら、眠っていた。
意識が自分の元に戻ってきても、私はしばらく目を瞑っていた。
ぼんやりとした頭には、ここが何処かわからなかったし、
何より、真横で人の気配がした
目を薄く瞑ったまま、私はひとしきり考えた。
堂々巡りの考えが二周くらいして、私はようやく目をゆっくりと開いた。
目の前に、あの人がいた。
街角で見た、あの物凄い語りを見せた彼だった。
柔らかそうな睫毛を伏せて、静かに目を閉じて、その彼は眠っていた。
一瞬、息が止まり、時間も止まったような気がした。
ぼんやりした頭の中で思考はもつれ絡まって混乱し、ぐちゃぐちゃのまま霧散した。
遅れて、衝撃がまた脳裏を駆け抜けた。
彼は彼のままでも美しく、物凄かった。
そして、その彼が他でもない私のすぐそばで寝息を立てている、という現状に、貫くような恥ずかしさと喜びが駆けずった。
…結果として、私はネズミのような素早さで飛び退き、したたか蚊帳に頭を打ちつけ、絡ませた。
それが、私の恋の始まりだった。
初恋である秋恋の。
たまねぎを剥いて、にんじんにピーラーを当てる。
コンソメキューブをお湯に落として、ぷくぷくと浮かぶ泡を見る。
「愛する」というと、なぜ世の中の人は皆、恋人を思い浮かべるのだろうか。
洗い立てのじゃがいもに、ざっくり包丁を差し込む。
なぜ「愛する」というと、みんなキスだのセックスだの結婚だのを目指そうとするのだろうか。
じゃがいもは、小気味良い音を立てて、ことん、と、半分に割れる。
料理に親しんだ私の手に任せるだけで、たまねぎはすうっ、とくし形に分割され、にんじんは軽やかに半月切りになる。
私たちは恋人でも、パートナーでも、姉妹でも、なんでもない。
ただ、一緒に暮らしていて、日常を分け合って寄り添い暮らす、お互いにとって大切な二人組でしかない。
私たちには、名前のついた関係性はいらない、というより、しっくりこなかった。
だから、私たちの関係に名前はない。
ただ私は、毎日、二人分、できるだけ素朴で、美味しくて、健康的で、愛情がこもっているような食事を作る。
もうすぐ帰ってくる彼女は、すっきりと部屋を整理整頓をし、丁寧にテーブルを拭き、私に笑いかけてくれる。
そして、朝夕、二人揃ってテーブルにつき、温かい食事を一緒に食べる。
夕食の後、お菓子か何かがあれば、お茶を淹れて、二人でゆっくり飲む。
それからそれぞれお風呂に入って、彼女がぴっしり伸ばしてくれたふかふかのシーツと布団にくるまって、眠る。
たまにサボりたい時は、ギトギトしたジャンクフードや甘ったるい炭酸飲料や、体に悪そうなアルコール飲料なんかを二人ではしゃぎながら買いに行って、宴会を開く。
彼女がテレビゲームを起動して、二人で画面を分け合って、バカはしゃぎする。
私たちは、そうやって、幸せを分け合って生きている。
愛おしくて、穏やかで、温かくて、シンプルな生活。
肉体関係も、戸籍の関係も、社会的な名前もない生活。
それでも私たちは幸せで、他人に言われる、「そろそろ関係性をはっきりさせなよ。愛してるならさ」なんて言葉は、迷惑だった。
いや、むしろ、このままの関係性を愛せるところが、お互いに好き。
この関係、この空気感、この間柄…私と彼女にとって、そういうことが愛するということであり、他の人が「愛」と呼ぶ恋愛や情愛や家族愛は、私たちにとっては少々性急で、情緒的すぎた。
愛する、それ故に、私たちは私たちの関係を定義したくなかった。
どこまでも曖昧で、儚くて、脆くても、確かに繋がっていられる今の生活が、私たちにとっての「愛する」ということだった。
コンソメキューブが溶け合い、お湯がごぼごぼと唸った。
切り分けた根菜を、ごろごろと、鍋の中に流し込んだ。
鍋を煮ながら、私は愛する人を待つ。
柔らかい料理の香りが、そっと部屋を包んでいた。
静寂の中心にはきっと、深い穴がぽっかりと空いている、と思った。
透明な、公衆電話のボックスの中で、田舎の静寂に耳を傾けている。
今どき、非通知設定の電話番号なんて、企業の固定電話ですら相手にしない。
べたりと張り付いたシャツの水滴を、上辺だけ拭き取る。
周りに溶け込むような半透明の電話ボックスの壁を、雨粒が叩き、撫でて、滑り落ちていく。
雨の音と、風の唸りと、虫の声。
わんわんと喚く静寂の中心の電話ボックスの中では、静寂がどこか僅かに遠く聞こえる。
この片田舎に、次のバスはいつ来るのだろう。
静寂の中心で、穴にすっぽりとハマってしまった。
張り付いたシャツが、私の呼吸に合わせて、微かに波打つ。
静寂の中心で、私は何かを待っている。
静寂の中心には、ぽっかりと深い穴が空いている。
静寂が、穴の外でわんわんわなないている。
電話ボックスの中で、私は冷たく濡れた秋雨が止むのを待っている。
落ち葉掻き 火おこし燃える 赤い葉の
はぜる音聞く 秋の暮れ
夕闇に もみじは紅く もえる葉よ
月もまだ出ぬ 秋の宵口
もえる葉の 紅き山の端 消すように
降る秋雨の 冷たさぞ知る
月が出ている。
永遠に、同じように光っているとさえ思えるような、丸い月が出ている。
月光は、柔らかな白いカーテンの隙間から、柔らかく飛び込んでくる。
白っぽく、もったりと滑らかな光が、ノートのわずかに膨らんだ白い面を照らす。
moonlitght。
ノートの端に置いた古びた便箋に書かれたその文字が、月明かりにぼうっと照らされる。
月が出ている。
青白い、中秋の、大きな満月だ。
手元に柔らかい月光を受けながら、私は手紙をめくる。
この古びた手紙は、古道具屋でたまたま買ったこの机の引き出しに、たまたま入りっぱなしになっていた。
遠い異国の言葉で、日本語のような順番で単語が並べられたそれは、ちぐはぐで、支離滅裂で、けれどもどこか思いやりに溢れているような気がした。
だから持ち主に渡してやりたいと思った。
大学生になってからというもの、全く使っていない真っ白なノートと、高校時代に読みづらくなるまで蛍光ペンを引いた英語の辞書を引っ張り出した。
手紙の書き出しは一つの単語で始まっていた。
moonlight.
今日は月が出ていた。
まばゆいばかりの、柔らかい月光がさしていた。
バイト帰りで疲れていたはずなのに、私は、吸い込まれるように手紙と筆記用具を手に、机についた。
月明かりが柔らかく風に揺らいでいた。
手紙の、筆で無理やり書かれた下手くそなmoonlight.が輝いて見えた。
月が出ている。
永遠に夜を、同じように眺めてきたのだ、という風に。
カーテンが、夜風にそよいだ。
月の光が、柔らかく飛び込んでくる。