静寂の中心にはきっと、深い穴がぽっかりと空いている、と思った。
透明な、公衆電話のボックスの中で、田舎の静寂に耳を傾けている。
今どき、非通知設定の電話番号なんて、企業の固定電話ですら相手にしない。
べたりと張り付いたシャツの水滴を、上辺だけ拭き取る。
周りに溶け込むような半透明の電話ボックスの壁を、雨粒が叩き、撫でて、滑り落ちていく。
雨の音と、風の唸りと、虫の声。
わんわんと喚く静寂の中心の電話ボックスの中では、静寂がどこか僅かに遠く聞こえる。
この片田舎に、次のバスはいつ来るのだろう。
静寂の中心で、穴にすっぽりとハマってしまった。
張り付いたシャツが、私の呼吸に合わせて、微かに波打つ。
静寂の中心で、私は何かを待っている。
静寂の中心には、ぽっかりと深い穴が空いている。
静寂が、穴の外でわんわんわなないている。
電話ボックスの中で、私は冷たく濡れた秋雨が止むのを待っている。
落ち葉掻き 火おこし燃える 赤い葉の
はぜる音聞く 秋の暮れ
夕闇に もみじは紅く もえる葉よ
月もまだ出ぬ 秋の宵口
もえる葉の 紅き山の端 消すように
降る秋雨の 冷たさぞ知る
月が出ている。
永遠に、同じように光っているとさえ思えるような、丸い月が出ている。
月光は、柔らかな白いカーテンの隙間から、柔らかく飛び込んでくる。
白っぽく、もったりと滑らかな光が、ノートのわずかに膨らんだ白い面を照らす。
moonlitght。
ノートの端に置いた古びた便箋に書かれたその文字が、月明かりにぼうっと照らされる。
月が出ている。
青白い、中秋の、大きな満月だ。
手元に柔らかい月光を受けながら、私は手紙をめくる。
この古びた手紙は、古道具屋でたまたま買ったこの机の引き出しに、たまたま入りっぱなしになっていた。
遠い異国の言葉で、日本語のような順番で単語が並べられたそれは、ちぐはぐで、支離滅裂で、けれどもどこか思いやりに溢れているような気がした。
だから持ち主に渡してやりたいと思った。
大学生になってからというもの、全く使っていない真っ白なノートと、高校時代に読みづらくなるまで蛍光ペンを引いた英語の辞書を引っ張り出した。
手紙の書き出しは一つの単語で始まっていた。
moonlight.
今日は月が出ていた。
まばゆいばかりの、柔らかい月光がさしていた。
バイト帰りで疲れていたはずなのに、私は、吸い込まれるように手紙と筆記用具を手に、机についた。
月明かりが柔らかく風に揺らいでいた。
手紙の、筆で無理やり書かれた下手くそなmoonlight.が輝いて見えた。
月が出ている。
永遠に夜を、同じように眺めてきたのだ、という風に。
カーテンが、夜風にそよいだ。
月の光が、柔らかく飛び込んでくる。
「今日だけは 許してよ」と 舌を出す
絶妙に分かって いない顔
助けを求めるときは「誰か」と言ってはいけないらしい。
「誰か」と呼びかけてしまうと、人間の心理的にはみんな「誰か」が助けることを期待して、なかなか手を貸してくれない。
だから、緊急救命時には「誰か助けてください!」ではなく、「そこの人、〇〇をしてください!」とか、「あなた、救急車を呼んでください!」とか、いうのが正解、だそうだ。
誰か、という呼びかけは、不透明で、不確実で、とかく呼びかけられた気がしない。
人間にとって、そういうものらしい。
私は、今、困っている。
理由は単純だ。目の前にまさしくその「誰か」を体現したような人物が、助けを求めていたからだ。
それは確かにヒト型をしていた。
しかし、とにかく、輪郭も顔も表情も体型も曖昧模糊ではっきりしない。
地面に転がって、助けを求めてのたうってはいるが、なぜそのような状況になっているのか、何を助けたらいいのか、全くわからない。
とにかくはっきりしない、説明するのも難しいほど、ごぬごぬしたナニカ、だった。
そしてそいつは、あろうことか、自分がどう見えているかも理解していない様子で、「誰か!誰か助けて!」と喚いていた。
声は震えてはいたが、その声の特徴も、あるようなないような…
とにかく、何もはっきりしていなかった。
確かに、その「誰か」は苦しそうで、憐れみを誘ってはいたが、いたが…。
周りの人間は足早に、その「誰か」を一瞥し、残して去っていく。
しかし、私は立ち止まってしまった。
誰か、は、まだ地面に這いつくばりながら叫んでいる。
「誰か、誰か助けて!」と。
私は少し迷ったものの、結局放っておけなくて、手を差し伸べた。
結局のところ、私も同類だと思ったからだ。
人間に紛れて暮らす、人間ではなく、同じような存在を持たないナニカ、それが私だったから。
私は手を伸ばした。
その曖昧模糊な、正体不明の「誰か」に向かって。
秋風が鋭く吹き抜けていった。