あの日の月は赤かった。
血のように紅く、コンパスで描いたかのように新円で、地上から空に貼り付けたかのように大きかった。
あの日も私は、君と月を見ていた。
おどろおどろしく、神秘的に輝く赤の月は、あの日の血みどろに彩られた私たちの夜を照らしていた。
あの日、私は君の血に汚されていて、君は物も言わずに冷たく転がされていた。
あの日、確かに私は君を殺して、私の復讐と後悔に終止符を打ったのだった。
しかし、全てはあの日から始まった。
私が否応なく、毎日、君と顔を合わせなくてはいけなくなったのは、あの日からだった。
私の傷ついた手の甲を塞ぐようにできた、君の顔は、私の瘡蓋であり、腫瘍でありながら、紛れもなく孤立した君だった。
私は君と生き抜かねばならなかった。
それからの一年は、苦悩に満ちたものだったのか、楽しい記憶なのか、どうにも分からないようなものだった。
あまりにもいろいろなことがありすぎた。
しかし、あまり迷惑というものでもなかった。
君は思ったより人間であったことを、私は知った。
私が思ったより人間であったことを、君が知った。
そして今日、私たちは一切のしがらみから解放された。
私は一年前と同じように、血で汚れていた。
私の右手の甲で、血生臭い匂いに、君は顔を顰めながら咳き込んでいた。
月を見上げた。
君も見た。
月は一年前とは全然違う。
月色にほのかに輝く今日の月は、弓形に細く引き絞られていた。
今晩だけは、私たちの夜だった。
君と見上げる月は、いつも鮮やかだった。
空白に潜む悪魔はこう言った。
「沈黙は金だよ、いつだって」
教科書の 空白に描いた 落書きは
あの時のまま あの空気のまま
台風が過ぎ去って、旱る太陽、独り。
この辺りには、「ひとりきり」という言葉がある。
濃厚で重たい霧が壁のように立ち込めて、船が一艘一艘孤立してしまい、最後には行方不明になってしまうことを言う。
この海には、ひとりきり_壁のような閉塞感のある、濃厚な霧_がよく出る。
それが祟りなのか、加護なのか、ただの自然現象なのかは定かでないけれども。
この辺りには、確かにひとりきりが出る。
風にすら揺らがないこの霧のために、この辺りの沈没船の数は、他の海と比べ物にならない。
ここは船の墓場で、この酷い霧は、沈んだ船たちを弔う線香だかなんだかの煙なのではないか。
それほどまでに濃い霧が出る。
ひとりきりは、船を連れ去っていく。
漁師を、船員を、整備士を、鼠取りの猫を、積荷を、マストを、全てを霧の中に引き摺り込んで、閉じ込める。
深い霧の中で、船の汽笛が聞こえたのに、船の姿が見当たらないなら、それはきっと、今、ひとりきりに紛れ込んでいる哀れな船の断末魔なのだ。そんな話がまことしやかに囁かれている。
不本意である。
確かに、ここは船の墓場だが、恐れるような場所では、ないからだ。
ひとりきりは、船の弔いと迎え火の煙だ。
寿命を迎えたり、もう死にたいと思ったりした船は、この霧に誘われ、集う。
そうして、船は最期のひとときを、人間や、動物や、荷物や、自分に近しい、自分を愛してくれたモノたちと、ゆっくりひとりきりで向き合い、過ごすのだ。
ここはそういうところだ。
決して、人間の言うような、魔境ではない。
私は今日も、迎え火を焚いて船を待つ。
ひとりきりを海面に漂わせる。
船の、悔いのない最期を、作るために。
今年のクリスマスプレゼントは、筆記用具とノートだった。
最悪だ。
サンタへの手紙には、「新しいスパイクが欲しい。」って書いたのに。
真っ白なベッドの枕元に置かれた、小洒落た包みを開くと、中に入っていたのは、真っ新なノートと、4色ボールペンだった。
確かに僕は、初めて知ったことをノートにまとめて、自分だけの図鑑や辞書を作るのは好きだったけど。
今日だけは、別のプレゼントが欲しかったのに。
新しい足に合うスパイクが欲しかったのに。
いつもの看護師さんが笑顔をたたえてやってくる。
動画を回している。
手のひらほどの大きさのビデオを手に、「みんな、サンタさんにお礼で送りたいから、プレゼントを使ってるところを見せてね」
そう言っている。
お目当てのプレゼントをもらえた子達が大はしゃぎで、看護師さんにプレゼントを見せにいく。
使いたくなくてプレゼントをしまいこんだ時、看護師さんと目が合った。
看護師さんは、申し訳なさそうな、悲しそうな、心配そうな、いろんな複雑なものが混じった温かい目で、僕を見ている。
仕方なくノートを引っ張り出して、ボールペンを持つ。
4色のボールペンには、黒、赤、緑、青の芯があるようだ。
僕はボールペンを握って、それぞれの色で覚えたばかりの英語の綴りを書いてみた。
Red,Green,Blue
書きながら、悲しくなった。
本当は僕にだって分かっていた。
サンタさんが新しいスパイクをくれなかった理由も。
看護師さんがあんな顔をする理由も。
僕は、掛け布団をこっそりめくって、足を見た。
僕の足だったところを見た。
足は膝のところで丸まって、それ以上は伸びていない。
僕は僕の足と引き換えに生きている。
涙が出そうで、あわてて、足を隠した。
ノートを見る。
Red,Green,Blue
鮮やかな僕の字が、ぼんやりと潤んできた。