「仲間になれなくてごめんね」
今際の際の、
哀れみを孕んだそんな声と、慈悲すら感じさせるあの寂しそうな微笑が
今も悪霊となった私の脳を焼き焦がしている。
その怪異は、噂によれば、透き通るように細いあの朝日の中にあるはずだった。
ところが、その日は雨が降っていた。
厚く曇る灰色の空から、銀に光る縫針のような細い雨が、ひっきりなしに降り続いていた。
私が君を見たのは、そんな雨の日だった。
「雨は嫌いなのに」
私と目が合うと、君は少々驚いて、釈然としないようすでそう言った。
その頃の私は、とんと噂話に鈍感であったから、君のそれが何を表すかは理解していなかったのだが。
それから私は、雨の日の視界の先に、君をとらえるようになった。
細いにわか雨の中に、君はいつもいた。
雨と君。
私の中では、その2つはセットで、揺るぎないものだった。
あの日も、雨が降っていた。
君を初めて見つけた日のような、縫針みたいな細い銀の雨が降っていた。
その日も私は、雨と君を見ていた。
雨が降り頻る窓に、頬杖をついて。
その時、にわかに日がさした。
君の立っているところに、一筋の、眩しすぎるくらい金色の、日がさした。
見上げてみると、厚い雲がそこだけ、僅か3センチほど、切れ込まれて、そこから黄金の光が斜めにさしこまれていた。
ふと目線を戻すと、もう君はいなかった。
その時、私は悟った。
もう私には、雨と君を見ることは叶わないのだと。
その怪異は、晴れた早朝に出遭うもののはずだった。
透き通るように細い朝日の中にあるはずだった。
その怪異は、細い銀の雨の中の、鮮やかな黄金の光に、とても似合っていた。
雨と君は、斜めに差し込まれた、あの光の中に消えた。
雨だけが、まだ降り続いている。
しん、とした教室。
クレセント錠が掛けられた窓ガラスは、向かいの校舎を見つめている。
コンクリートの壁が、静寂を吸収している。
綺麗な深緑色に消された黒板。
机の木目にこびりついた影。
誰もいない教室。
僕は、そっと目の前の椅子を引いてみた。
椅子の滑り止めの硬い足先が床をする音がして、椅子は僕の足元に移動した。
椅子なら触れるらしい。
あの、後ろのロッカーの上で、水槽から出されて、死にかけているグッピーは触れないのに。
外の空は深みを増している。
深夜。
誰もいない教室。
僕の机には、今日も律儀に花が立てられている。
あの日、たしかに僕は死んだのだ。
何で死んだのかなんて、僕はもう覚えていないけど。
たしかに僕は死んで、死んでからこの教室にいるのだ。
あの花にも僕は触れない。
きっと、あの花は生きているから。
しん、とした教室。
教室の隅の角には、もわっと固まった灰色の埃が落ちている。
忘れられたグッピーが、苦しそうに息をしている。
僕の机には花が飾られている。
誰もいない教室。
窓には、みんな、クレセント錠がかけられている。
(中央揃え)ピッポ、ぺぺポ
(中央揃え)ピッポ、ぺぺポ
お馴染みの音が耳に流れ込んでくるこの時分です。
信号の音が、灯りが、存在それ自体が、意味もなく、目につく今の時分。
ちょうど今のような時でした。
お気をつけください。
さがしびとの時間です。
さがしびとを探してください。
(中央揃え、ゴシック体、36)探しています
(右揃え)特徴 (左揃え)見た目
(右揃え)・人間 (左揃え)写真
(右揃え)・高い 道路向かい側から
(右揃え)・若い 信号機の下で、信号を待つ
(右揃え)・丈夫 数人と思しき、身元不明の
(右揃え)・賢い 人影の画像
信号の存在が、目につくこの時分です。
みなさま、お気をつけください。
ご協力を望みます。
どうか、さがしびとを探して。
そして下記のこちらへ、ご連絡ください。
(中央揃え)■■■-■■■■-◾️◾️◾️
(右揃え)××町■丁目◾️番地 〇〇地区 ----店舗
【補記】
〇月×日、△△県××市⬜︎⬜︎町コミュニティ掲示板にて、不審な貼り紙があるとして、本施設に通報がありました。
本資料は、以上の件への対応により、回収した貼り紙の内容を報告したものです。
内容及び当該事象のご精査、ご捜索にご協力ください。
回収した元本は、当該通報の対応、当該事象の調査にあたる、〇〇が、所持しています。
また、〇〇に無断で、本資料の内容を、複製、配布することは禁じられています。
送ることはできません。
他の人に渡すことも。
何人たりとも、私から、これを引き離すことはできません。
信号の存在が、目につくこの時分です。
みなさま、お気をつけてください。
信号の存在が、目につくこの時分です。
本件のご捜索、該当事象のご調査にご協力ください。
信号の存在が、目につく時分です。
さがしびとの時間です。
さがしびとを探して。
怪物が足を振り下ろす。
視界が霞む。
自分の下半身が、パワードスーツごと、まるで潰れたカニのように無惨にぺちゃんこになっている。
どこかで、建物が崩壊する音がする。
有象無象の、私にとってはなんでもないけど、それでも私が守るべきだった人たちが、慌てふためいた悲鳴や上手く逃げようとする声や無慈悲な応援の声や自分の命のために叫ぶ声を、必死に上げている。
私は耳を澄ます。
探しているのはただ一つの声。
最期までこの街を守る、という使命を抱いているはずの私の脳裏に、この死に際に浮かぶのは、ただ一つの、ただ一人の顔だった。
…君の声はしない。
地獄の不条理な仕打ちに、呻き、喚き、叫ぶあの声声の中に、君の声は、しない。
しない。
もはや安否は分からなかった。
家を出る時に私が言い残した通りに逃げおおせて、もうここにはいないのか。
逃げ遅れて、運悪く、もう命を失っているか、声を上げられないほどの状態に陥っているのか。
それさえも、無秩序にパニックなこの街の中では、もう分からなかった。
道路で轢かれたサワガニのように、半分潰れて、死に行く私には、分からなかった。
気が遠くなる。
白み、霞む視界の奥で、私が生きていると感じられた記憶の数々が、一瞬一瞬、フラッシュのように現れ、そのくせ、焼印で焼き付けるかのようにくっきりと、脳に現れ消えていく。
今までの楽しみが込み上げる。
今までの悲しみが込み上げる。
今までの苦しみが込み上げる。
今までの幸せが込み上げる。
潰れた身体は、不思議と痛くない。
人生がいっぺんに、強く、優しく、私の脳裏をあっという間に埋め尽くし、あっという間に去っていく。
そうして。
そうして最期に、後悔が遺る。
咀嚼する度、しぶく、強く、濃く遺る。
身体は痛くない。
私が私の人生に感じた全ての感情は、ゆっくり周囲と同化していく。
形を半分残して潰れた下半身は、怪物の足によって、粒にまで粉砕されていく。
芯を貫くように、あるいはそれが芯であるかのように、ただ、最期に、後悔が遺る。
言い出せなかった。
私は言い出せなかった。
言い出せなかった、君に。
言い出せなかった「------------」が。
言い出せなかった「」が。
しぶとく喉に吊り下がっている。
私は言い出せなかった。
君に言い出せなかった。
言い出せなかった。「」が。
思考が引き延ばされていく。
記憶が薄れていく。
視界のピントはとおに合わず、遠く、遠く、ぼやけていく。
目を閉じる。
街が破壊される音が聞こえる。