薄墨

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怪物が足を振り下ろす。
視界が霞む。
自分の下半身が、パワードスーツごと、まるで潰れたカニのように無惨にぺちゃんこになっている。

どこかで、建物が崩壊する音がする。
有象無象の、私にとってはなんでもないけど、それでも私が守るべきだった人たちが、慌てふためいた悲鳴や上手く逃げようとする声や無慈悲な応援の声や自分の命のために叫ぶ声を、必死に上げている。

私は耳を澄ます。
探しているのはただ一つの声。
最期までこの街を守る、という使命を抱いているはずの私の脳裏に、この死に際に浮かぶのは、ただ一つの、ただ一人の顔だった。

…君の声はしない。
地獄の不条理な仕打ちに、呻き、喚き、叫ぶあの声声の中に、君の声は、しない。
しない。

もはや安否は分からなかった。
家を出る時に私が言い残した通りに逃げおおせて、もうここにはいないのか。
逃げ遅れて、運悪く、もう命を失っているか、声を上げられないほどの状態に陥っているのか。
それさえも、無秩序にパニックなこの街の中では、もう分からなかった。

道路で轢かれたサワガニのように、半分潰れて、死に行く私には、分からなかった。

気が遠くなる。
白み、霞む視界の奥で、私が生きていると感じられた記憶の数々が、一瞬一瞬、フラッシュのように現れ、そのくせ、焼印で焼き付けるかのようにくっきりと、脳に現れ消えていく。

今までの楽しみが込み上げる。
今までの悲しみが込み上げる。
今までの苦しみが込み上げる。
今までの幸せが込み上げる。
潰れた身体は、不思議と痛くない。
人生がいっぺんに、強く、優しく、私の脳裏をあっという間に埋め尽くし、あっという間に去っていく。

そうして。
そうして最期に、後悔が遺る。
咀嚼する度、しぶく、強く、濃く遺る。

身体は痛くない。
私が私の人生に感じた全ての感情は、ゆっくり周囲と同化していく。
形を半分残して潰れた下半身は、怪物の足によって、粒にまで粉砕されていく。

芯を貫くように、あるいはそれが芯であるかのように、ただ、最期に、後悔が遺る。

言い出せなかった。
私は言い出せなかった。
言い出せなかった、君に。

言い出せなかった「------------」が。
言い出せなかった「」が。
しぶとく喉に吊り下がっている。

私は言い出せなかった。
君に言い出せなかった。
言い出せなかった。「」が。

思考が引き延ばされていく。
記憶が薄れていく。
視界のピントはとおに合わず、遠く、遠く、ぼやけていく。

目を閉じる。
街が破壊される音が聞こえる。

9/4/2025, 1:39:09 PM