薄墨

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8/7/2025, 4:15:35 PM

心の羅針盤?儂が「心の羅針盤」だと?
お前は、他人や羅針盤みたいな道具に頼らなければ、自分が進みたい方向すら、分からないというのか。この痴れ者め。
どうやら、しばらく見ぬうちに、あの頃まで精神が退化したようだな。
そんな意志薄弱なものに育てた覚えはない。
もっと励め。精進しろ。


独り立ちして久しく数十年。
久しぶりに師匠へ出した手紙の返事には、そんなことが書いてあった。

師匠は、私が弟子入りした頃から、頑固で、昔気質で、意志の強い、面倒な人だった。

自分で進む道は自分で決めろ、己の決断は己でしろ、他人の言葉をそのまま使うな。

小さい頃から、自らの手で人生を切り開いてきたという師匠は、いつでも一貫して、自己決定の大切さを訴えていた。

そんな、パワフルで力強い、自立心の高い師匠の背中は、私の心の羅針盤だった。

師匠と出会ったことで、それまで他人の言葉の受け売りで生きてきた私は、初めて己で世の中と向き合わなくてはならなかった。
師匠に叱責されるから、私は自分の言葉で、自分の決意を表さなくてはならなかった。
師匠と将来を話すときには、私は親に敷かれたレールをもう一度、己の脳と目で見直す機会を与えられた。

師匠の言葉と修行のおかげで、私は初めて私の人生を私の目で見直し、私の頭で考え、私の言動で主導するようになった。
私は他の誰のものでもない、私の人生を歩むことができた。
師匠の言葉が心の羅針盤になって、今に至るのだ。

しかし、師匠の持論にしてみれば、それも、私の甘えに見えるのだろう。
他ならぬ師匠の言葉を、深く考えずに、そのまま自分に適応しているのだから。
師匠の教えに反している。
師匠がこのような返事をするのも当たり前である。

だからこそ、これでよかったのだ。
今月で、師匠は米寿を迎えられる。
だが、まだ変わらずお元気のようだ。
自らの信念も、もう何十年も前の弟子の課題も、変わらずまだ覚えていらっしゃるのだから。

師匠はまだお元気で、あの時の師匠のままでいらっしゃるようだ。
少なくとも、呆けたり、弱気になられたりは、なさっていないようだ。

私としては、今回の返事の叱咤激励が非常に嬉しい。

私の心の羅針盤が、今でもお元気である、ということが。

8/7/2025, 1:56:32 AM

夕方の シオカラトンボに 呟いた
 またね、明日ね、さようなら

きっと君 またね、と言った はずなのに
 つまんだ骨の 重さは後悔

またね、など 信じはしない 同じ日は
 私たちには 二度とないから

またね、って 進んだきり針 戻らない
 8月6日 8時15分

8/5/2025, 10:26:07 PM

ヴィーナスは泡から生まれる。
だから私は、泡になりたかったのだ。

海は荒れ、泡立っていた。
どろどろと透き通ったミズクラゲが、海辺に打ち上げられていた。

かつて、彼は美しいあの人に向かって、口説き文句で言った。
あなたは私のヴィーナスだ、と。
私に向けてではなかったけど、確かに。
彼はモチーフを求めていた。
彼は切望していたのだ。
神でさえ魅了する美しさを。

だから私は、泡になりたい。
あなたが神に愛されるために。
あなたを神に愛させるために。

波が荒々しく打ちつけている。
海は泡立ち、白波を立てながら、クラゲを運んでくる。

高い波を眺めながら、泡になれないものかと考える。
人魚姫でもあるまいし、こんな海の中に飛び込んでも、私は泡になれないに違いない。

波が泡立っている。
私は、泡になりたい。

8/5/2025, 7:19:25 AM

ようやくこの日がやってきた。

私は馬に跨り、完全に水平線の向こうに落ちようとしない夏の太陽の薄闇の中、あの細い煙を目指して、手綱を握る。

蝉はもう、ヒグラシに切り替わっている。
それにしても、この数年で、この季節はずいぶん暑くなったものだ。
もう必要のないはずの汗が、だらり、と頬をつたう。

なんで、私たちがここへ帰って来れる季節は、こんなにも暑い時期なのか。
昔から暑がりで、汗かきな私には、とても理解できない。
今年だって、この夏は、暑い、暑いと騒ぐ人々を、尻目に、私はのんびりと涼しいところで引きこもっていたというのに。

「さて、みなさん、待ちに待ちましたお盆です。今日から私どもも、お盆休みをいただきます。さあさ、みなみなさま、年に一度の機会です。ぜひご帰省なさってください」

私たちは、毎年の如くそう言われて、馬に乗り、ここへやってきた。
…いや、帰省できるのは嬉しいのだ。私は、家族とも関係が良好だったし、親戚の子や兄妹の子、かつてのご近所の子どもたちが、どのくらい大きくなったかを見守るのも、楽しみだったりする。

しかし、しかしだ。
時期が悪すぎる。
なんで、一年に一度、家に帰れるその時は、こんな夏真っ盛りのお出かけに向いていない日なのだろうか。
汗っかきで、暑がりの、夏嫌いな私にはどうしても納得できない。
もはや姿も匂いも誰にも気づかれないようになったと言っても、気になるのだ。
三つ子の魂百まで。
生前の習慣や好き嫌いは、死後何年経っても、治らないものなのだ。

文句を言いつつも、私は家族に会いたい。
だからその一心で、いつもこの暑い中、季節のない年中快適な天国をわざわざ出て、家へ向かう。
お盆は夏だから。
しょうがないのだ。

日がある程度落ちたというのに、外はまだ暑く蒸している。
毎年のことだ。
毎年のことだが、暑さは年々、酷くなっている気がする。
ただいま、夏。
私は僅かな恨みも込めて、毎年のように呟く。

今年も、夏に帰ってきた。

8/4/2025, 1:20:34 AM

沈黙が満ちる。
コップに注いだソーダの泡が、弾ける音さえ、聞こえていそうな沈黙。

外はギラギラとした夏の太陽が、惜しげもなく照りつけている。
青天井。
青くて高い空が、窓から見える。

回しっぱなしの扇風機が、ぶぅぅん、と唸る。
扇風機の、テープで固定していた首が、がくん、と折れて、項垂れる。
沈黙が、私たちを支配している。
君は言葉を発しない。
私も何も言えない。

私たちは向かい合わせに座って、ただ、沈黙の支配を甘受しながら、テーブルの上に置かれた炭酸を見つめている。
このテーブルで、唯一生き生きと動いていそうな炭酸の、泡が生まれ、浮き上がり、弾け飛ぶ様をただ2人で見つめている。

君の目には光はない。
私の目にも、きっと光などないだろう。

沈黙が満ちる。
遠くからニイニイゼミの声らしき声が聞こえる。
ウシガエルの低音が混じる。
扇風機は折れた首を項垂れたまま、ぶぅぅん.ぶぅぅぅんと断末魔のように唸っている。

私はこわばった右手で、コップを掴む。
生き生きとしたこの炭酸の泡を飲み干せば、私にも命が宿る気がして。

炭酸を口に運ぶ。
ぬるい。
ぬるい。
まるで、私と無口な君の間にある、死んだ時間のようだ。

今まで、ここを支配していた沈黙もぬるかった。
結局、これを飲み干しても、私は変われないのだろう。

そう思いながらも、味気なく不味い、沈黙のような、ぬるい炭酸を飲み干す。
ぬるく緩慢な炭酸が、萎んだ喉を、ぬるりぬるりと落ちていく。

沈黙がこの場には満ちている。
もう変わることのない沈黙が。
首が折れ、断末魔すら低く静かに唸ることしか許されていない、私たちの沈黙が。

沈黙は、この部屋を支配している。
ぬるい炭酸と無口な君。
それから、哀れで愚かな私を。

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