ひよこを撹拌して、撹拌する前と重さを比べたら、死んでしまった撹拌されたひよこの方が、少し軽いらしい。
死んだらみんな軽くなる。
生きた物と死んだ物の間には、物質では説明できないなにかがある。
なにかがあるのだ。
だから、自らの手で生き物を生み出し、生き返らせようとするなら、その“なにか”が必要になる。
ただ、臓器や骨やパーツを組み立てて、それだけでは、生き物は生き返らない。
心か魂のようなものが、生き返らせるためにはいる。
そういうわけで、魂にあたるものが必要なのだ。
厳正な調査と思考の結果、魂の代用には、音楽を使うことにした。
音楽が、人や生き物の気持ちや調子に作用するというのは、実証もされている。
これほど、科学的に魂に相応しいものはないだろう。
私はメロディを集めた。
組み立てた、ありとあらゆるものにそぐう音楽を。
その一心で、作曲を勉強し、音楽を勉強し、あまたのメロディを作成してみた。
そして、今聴いてもらったこれが、君のメロディなのだ。
君の、君だけのメロディ。
君がこうして音楽を聴いている今、私の考えは実証されたことになる。
すなわち、これが私からのプレゼントだ。
君の魂を担っている、君だけのメロディ。
「I love」と、言えば私が「愛している」のは、いったい誰で、誰が好きか、後からそっと付け加えられる。
ずるくて、都合が良くて、安心で、優しい言葉。
傘をさすのが下手だ。
小さい頃からずっと。
傘をさして歩いていると、その日がどんなに小雨でも、履いているズボンの太ももがびしょ濡れになる。
はみ出るはずがないのに、いつの間にか傘からはみ出ていた、傘を持っていない方の肩から腕に、雨粒の水玉模様ができる。
今も、傘をさすのが下手だ。
ボタン、ボタタン…底の浅いタライに、雨粒が衝突する音が聞こえる。
トトン、トトトン…缶詰の空き缶に、雨粒が落ちる音。
ポチョチョン、チョン…もうすでに雨水が溜まり始めた小さな容器は、水っぽい音を立てている。
子は親に似る、ペットは飼い主に似るというが、家というものも、持ち主に似るらしい。
この家は私に似て、傘をさすのが上手くなかった。
雨を塞ぐのは苦手なのか、雨の日はいつも雨漏りする。
だから、梅雨の時期には、缶詰が欠かせなくなった。
中身は、濡れてしまった私の体を温めるためにスープになり、外の缶は雨漏りを受ける受け皿になる。
ざああ…
ポトトン、トトン、ボタタン、ピチャン…
雨音に包まれて、今日も私は鍋をかき混ぜる。
幼い頃、雨のたびにびしょ濡れな私に、母はため息をつきながらも、温かいスープや鍋で作るココアを作ってくれた。
ざああ…
ボタタン、ポトン、ピチチャ、トトトン…
雨音に包まれて、今日も私は鍋をかき混ぜる。
美しいもの
蜘蛛の巣に捕らえられた雨露
ブロック塀に這う飴色のカタツムリ
飛行機に置き去りにされたばかりの白い飛行機雲
横から見ると透明のドームのように見える猫の目
宝石みたいにそっと箱に収まった高級チョコレート
かじるとさやの中から顔を出すスナップエンドウの豆
磨かれたばかりの蛇口
動くたびに表情を変えるトバトの首周りの羽毛
額縁の中で丁寧にピン留めされて形を保った虫の剥製
一夜で見た夢
満開の桜
丁寧に、気持ちを込めて書かれた文字
積もったばかりの雪
どこかの誰かが人生を削って書いた詩集
苔と蔦に覆われたコンクリート
沈黙
ひらがな
遠くから見る星
晴れている日の海
横で手元に目を落とすあなたの横顔
どうしてこの世界は、こんなに歪な形をしているのだろう。
最近、そんなことを思うようになった。
真っ白なミルクパズルのピースを手に取って、眺める。
変な形だ。
四角っぽいのに、辺の途中がぐにゃぐにゃと凹んでいたり、ぴこぴこと飛び出したりしている。
角は丸みを帯びて、そんな丸い先の先端で、うっすらとコーティングされた層が、べらりとめくれて、剥がれかけている。
歪な形だ。
それでもきちんとはまる。
はめて揃えれば、ちゃんとした長方形の真っ白な板になる。
この世界と同じだ。
私の世界はこんなにも歪なのに、私自身はピッタリと上手に枠の中にはめられて、それで世界は平々凡々に回っていく。
生来の怠惰な怠け癖に病名がついてからというもの、私がサボる理由を周りが勝手に考えて勝手に納得するようになった。
この病気にはこんな傾向があるから、とか、こんな子の発達にはこういう傾向があるからもう少しかかるだろう、とか
私の単なる怠け者な部分は、全て“傾向”で片付けられ、一般化し、私の悪いところや問題なところはアンタッチャブルになった。
“特性”としてグレーである、と明文化され、親や家族や周りが上手くピースをはめてきたおかげで、私は白い長方形の現実にぴっちりはめられ、きちんと学校を出て、就職して、誰かの期待を裏切ることなく、生活をしている。
しかし、私には、これが本当に正当であると思い込むことができない。
私の周りの他のピースや、世間的には“理解のある”らしい親や、私を“分かっている”らしい友人とパートナーのようには。
私の怠け癖は、単なる私の怠け癖だと、私は思う。
私のこの加水分解されたスポンジみたいな愚かな頭は、私の努力不足や馬鹿みたいな行動で、なるべくしてなったものだって思うのだ。
したがって、こんなグレートの生活を、なんでも怠ける私がすべきではないと、思う。
もっとここにはぴっちりはまるピースがあるはずだ、と。
私は思っている。
しかし、現には、私は白いピースとピースの間にぴっちりはめられ、まるで正当に努力し、正当に生きている人間のように生きている。
こうなってくると、自分の世界のグレーのピースみたいな形より、そんな歪な形を吸収しているのに、見てくれはきっちり長方形で真っ白な、世間の形の方が、歪に見えてくる。
少なくとも、加水分解されたスポンジのような頭をしている私には。
どうしてこの世界は、こんなに歪なのだろう。
最近、そんなことを思うようになった。