美しいもの
蜘蛛の巣に捕らえられた雨露
ブロック塀に這う飴色のカタツムリ
飛行機に置き去りにされたばかりの白い飛行機雲
横から見ると透明のドームのように見える猫の目
宝石みたいにそっと箱に収まった高級チョコレート
かじるとさやの中から顔を出すスナップエンドウの豆
磨かれたばかりの蛇口
動くたびに表情を変えるトバトの首周りの羽毛
額縁の中で丁寧にピン留めされて形を保った虫の剥製
一夜で見た夢
満開の桜
丁寧に、気持ちを込めて書かれた文字
積もったばかりの雪
どこかの誰かが人生を削って書いた詩集
苔と蔦に覆われたコンクリート
沈黙
ひらがな
遠くから見る星
晴れている日の海
横で手元に目を落とすあなたの横顔
どうしてこの世界は、こんなに歪な形をしているのだろう。
最近、そんなことを思うようになった。
真っ白なミルクパズルのピースを手に取って、眺める。
変な形だ。
四角っぽいのに、辺の途中がぐにゃぐにゃと凹んでいたり、ぴこぴこと飛び出したりしている。
角は丸みを帯びて、そんな丸い先の先端で、うっすらとコーティングされた層が、べらりとめくれて、剥がれかけている。
歪な形だ。
それでもきちんとはまる。
はめて揃えれば、ちゃんとした長方形の真っ白な板になる。
この世界と同じだ。
私の世界はこんなにも歪なのに、私自身はピッタリと上手に枠の中にはめられて、それで世界は平々凡々に回っていく。
生来の怠惰な怠け癖に病名がついてからというもの、私がサボる理由を周りが勝手に考えて勝手に納得するようになった。
この病気にはこんな傾向があるから、とか、こんな子の発達にはこういう傾向があるからもう少しかかるだろう、とか
私の単なる怠け者な部分は、全て“傾向”で片付けられ、一般化し、私の悪いところや問題なところはアンタッチャブルになった。
“特性”としてグレーである、と明文化され、親や家族や周りが上手くピースをはめてきたおかげで、私は白い長方形の現実にぴっちりはめられ、きちんと学校を出て、就職して、誰かの期待を裏切ることなく、生活をしている。
しかし、私には、これが本当に正当であると思い込むことができない。
私の周りの他のピースや、世間的には“理解のある”らしい親や、私を“分かっている”らしい友人とパートナーのようには。
私の怠け癖は、単なる私の怠け癖だと、私は思う。
私のこの加水分解されたスポンジみたいな愚かな頭は、私の努力不足や馬鹿みたいな行動で、なるべくしてなったものだって思うのだ。
したがって、こんなグレートの生活を、なんでも怠ける私がすべきではないと、思う。
もっとここにはぴっちりはまるピースがあるはずだ、と。
私は思っている。
しかし、現には、私は白いピースとピースの間にぴっちりはめられ、まるで正当に努力し、正当に生きている人間のように生きている。
こうなってくると、自分の世界のグレーのピースみたいな形より、そんな歪な形を吸収しているのに、見てくれはきっちり長方形で真っ白な、世間の形の方が、歪に見えてくる。
少なくとも、加水分解されたスポンジのような頭をしている私には。
どうしてこの世界は、こんなに歪なのだろう。
最近、そんなことを思うようになった。
突然だが、君に知らせたいことがある。
改装工事が決まった。
君と歩いたあの道の。
土地開発というやつがこの地域にやってきたのは、三年前のことだった。
うちの自治体は浅慮にも、世の移住ブーム、田舎スローライフブーム、離島ブームに乗っかって、この地域の活性化をしようと決めたのだ。
そんなわけで、土地開発というやつはやってきた。
泥だらけで凸凹だらけだった車道にはコンクリートが敷き詰められて、息をしたくなくなるほど堆肥の香りが充満していた土地にはアスファルトの蓋が張られて、その後に新たなショッピングモールやチェーン店に姿を変えた。
カエル爆竹やザリガニ釣り御用達のおっきめの小川の淵には、鋼性の柵が張り巡らされ、倒れた予備の電柱だの、使いきれなかった建材だのが積み重なっていた空き地は、いつの間にか、これから来る新入りたちのための集合住宅になった。
私たちが小さい頃にはしゃいでいた汚らしい危ない遊び場は、アスファルトと白いピカピカの塗料に溢れた、清潔で安心安全な生活必需所になった。
そして、道だ。
いつも君と歩いた道。
あの道も、とうとう、乾いたアスファルトでカチカチに固めた、あのどこにでもあるような四角行儀な道になるらしい。
君と私が足を取られて転んだり、嵐が来た日には陥没して、沼みたいになったりしていたあの役立たず道が、変わる。
薮の中から、蛇の逆三角形の頭が出てきて踏んづけたり、滅多に通らない車が通った後にはボコベコになっていたりしたあの道は、もうなくなってしまう。
大雨と大風で道としての役割を果たせなくなるポンコツから生まれ変わる。
らしい。
正直、今の気持ちをなんと言っていいか、私は整理できかねている。
ただ、そんな事実を君に共有したかった。
私よりずっと賢明で、言葉をよく知っていて、この地に収まるような器でなかった君なら、私の気持ちを表してくれそうな気がして。
だから、久しぶりに手紙なんて出してみた。
君と歩いた道の、かつての写真と共に。
自分勝手な迷惑な手紙だと、重々承知している。
だが、君の心を少しでも、動かせたなら嬉しい。
では、また。
今度、帰ってきた時は、またゆっくり飲もう。
最近はこちらにも、夕飯に良い店が増えてきたんだ。
君と行ける日を楽しみにしている。
絵の具を全部絞り出す。
夢見る少女のように
くすんだ色の色紙を破り捨てる。
夢見る少女のように
路上に寝ている誰かを「醜い」と一蹴する。
夢見る少女のように
気に食わない現実には目を瞑る。
夢見る少女のように
ぬいぐるみに顔を埋めて笑う。
夢見る少女のように
風が吹き荒れている。
地面は遠い。
窓の淵に足をかけて、下を眺める。
眼下には、無数の窓とコンクリートの絶壁が、下へ下へと続いている。
枕木に引っ掛けた縄がふらふらと揺れる。
ここでこうすることを決めたのは、つい一週間前のことだ。
私は道を踏み外したのだった。
残っているのは幾らかの莫大な借金と、多少の犯罪歴。
もう戻れないところまで転げ落ちてしまったのだった。
あの子と一緒に。
巻き込むつもりはなかった。
ただ、私もあの子も、冴えない、大したことのない、灰色の人生から抜け出したかったのだ。
純粋すぎるあの子の、灰色の人生に色をつけたかっただけなのだ。
ただ、ただ、一発逆転したいと考えていただけなのだ。
その考えの甘さに気づいたのは、もう後戻りできないところまで来た時だった。
だから、私たちはこうするしかないのだ。
誰にも迷惑をかけないためには。
この碌でもない人生から逃げ切るためには。
向こうの窓が開いた。
窓の淵に、あの子が足をかけている。
枕木に結んだ縄が、ふらふらと揺れている。
「さあ行こう」
私は、あの子の目を見据えて言った。
風が轟々と吹いている。
風のせいで聞こえないかもしれないが、あの子には伝わるはずだ。
縄に手をかける。
さあ行こう。
風が轟々と吹き荒れている。