努力は環境に合わせてしなければならない。
同じ、“普通”の生活に向けて努力するにしても、
戦争中にしなくてはならない“生き延びるための努力”と
今のように平和な世の中でしなくてはいけない“生き延びるための努力”は全く違う。
努力するにも、周りの様子を正しく理解して、正しく努力をするのは大切だ。
何も分からないのにとりあえずで脳死の努力をしても、それが正しく結果を出すのは難しい。
だから、私は君が嫌いだった。
何も考えず、ただただ周りの言いなりに努力をして、結果的に周りにいいように扱われている、そんな君が嫌いだった。
努力を食われている、無駄な努力ばかりで努力しない人を食わせている、そんなお人好しで能天気な君が嫌いだった。
自分で自分のことについて顧みたりしない、自分の頭を使わない君のことが嫌いだった。
私は君の名前を呼ぶことを避けていた。
君も、君の周りにいる人も、私にとっては軽蔑の対象だったからだ。
君は私の反面教師だった。ある意味では。
ある日のこと。
ある日のことだった。
私は、全くの偶然で君と顔を合わせた。
私が私なりに考え抜いた努力で、勝ち取った場に、君もいた。
その時の気持ちは、どう言い表したらいいのか。
内心軽蔑していた君に追いつかれたという焦燥。
自分が考え、効率よくしていたはずの努力はこんなものだったのかという絶望。
頭を使わないそのがむしゃらな努力でここまで辿り着けるほど、君がした途方にもない努力への尊敬。
自分の努力不足を痛感した、何とも言えない敗北感。
自分がした渾身の努力が、君に追いつかれる程度のものだったという劣等感。
ぐちゃぐちゃの、何もかも入り混じったその頭の中に飛び交う感情たちが、私の口を動かした。
私が君の名前を呼んだ日。
思わず、君の名前を呼んだ、あの日。
君は、私の気持ちなんてまるで知らないように、朗らかに、私に笑いかけた。
「あ、はあい。…あれ、なんだかんだ初めて話すかもね。私たち」
初めて話すかもね、
そうだ、初めて話すのだ。
私が勝手に君を避けて、君を軽蔑して、話そうとしなかったのだから。
“かも”じゃない。初めて話すのだ。
これが、私が初めて君の名前を呼んだ日。
今となっては懐かしい、そして恥ずかしいあの日だ。
「ねえ、明日は休みが取れそうなんだ。久しぶりにご飯行かない?」
通知音に目を落とせば、君からの誘いの連絡が入っている。
君は相変わらずお人好しで、能天気だけれど、私はもうそれに、それほど劣等感も軽蔑も、感じないほど大人になっていた。
あの日、君の名前を呼んだ日から、君と話し関わったあの日々のおかげで。
思わず微笑んでいた。
通知をタップする。
あの日呼んだ君の名前が表示される。
私は君の名前を呟く。
私を意固地で斜に構えた若者から、人の頑張りを素直に認められる大人にしてくれた、君の名前を。
ぶちまけられた内臓が転がっている。
生から切り離されて、ただの物体に成り下がった皮膚の内側の粘膜が、ぬらぬらと光っている。
血の匂いはしていなかった。
生き物が、あるいは生モノがある、という気配もしなかった。
なぜなら、雨が降っていた。
灰色の空から灰色の地面に降り注ぐ雨が、生臭くて、目を背けたくなるような不快なものを、さらさらと流し去っていた。
ただ、生から切り離された物体が、それ特有の、少しばかりの不気味さを残して、雨に濡れていた。
灰の塊と炭化した骨が混じり合って、緩やかに崩れて、ぼろぼろと、雨と共に地面に染み込んでいく。
物音は雨音だけだった。
霧雨のような、細く、淡い、そして全てを洗い流すその雨音だけだった。
しとしとと、もう寝息すら立てない物体に平等に降り注ぐ、やさしい雨音だけだった。
雨が降っていた。
慌ただしく騒々しい破壊と逃亡のの末に、沈黙した施設に。
残骸と物体だけが無造作に転がった世界に。
灰色の地上に。
雨音だけが響いていた。
やさしい雨音だった。
誰にでも。
どんな物体にでも。
平等に降り続いていた。
やさしい雨音が、やさしい雨音だけが。
梅雨どきの 灰色染まる 空模様
やるせないこと 全て歌にして
紫陽花が 土で色を 変えるよに
軽い移ろい 嘆くも歌にして
梅雨時の 重たい雲より 重苦しい
やるせないこと 今は歌にして
ふんわりと薄く卵を焼き上げて、
チキンごろごろのケチャップライスをそっと包む。
ハンバーグと野菜たちを、
こぼれないようにアルミホイルにそっと包む。
バナナをたっぷり使ったパウンドケーキの生地を、
型の中に流し入れ、そっとアルミホイルで包む。
揚げたてのドーナツを
溶かしたチョコレートでそっと包む。
陽気なごちそうたちの、
甘くて、穏やかで、浮ついた香り
陽気で、明るくて、騒がしい雰囲気
それにそっと包み込んで欲しかった。
夢中で手を動かす。
料理たちをそっと包んで。
料理たちに仕上げを施して。
ふと目線を上げてしまった。
しまった、と思った。
名前も、遺影すら撮れなかった位牌が、
私を悲しみでそっと包み込む。
私は手を動かす。
浮ついた、ごちそうの雰囲気に呑まれるために。
あったはずの幸せにそっと包み込んでもらうために。
私たちを形作る細胞は、一ヶ月で入れ替わるらしい。
つまり、あの日の私はもういないのだ。
こっぴどく打ちのめされて、トボトボと帰ってきた、あの惨めな私はもういない。
あの、泣き疲れて寝落ちたあの忌まわしい夜から今日で一ヶ月。
今日の私はもう昨日までとは違う。
昨日までの私とは違うのだ。
私はもう変わったのだ。
いきなりドアが開いて、私の家族が連行されてから、今日で一ヶ月になる。
あの日、私は知ったのだ。
私の生活が法を犯した方法で成り立っていたこと。
あの家族は私の本当の家族ではないこと。
私の信用していたあの家族は、私たちの国の安全を脅かしていたということ。
私の家族は、私以外はみんな、私を裏切っていたということ。
あの日のあの夜から、何度泣いたか、もう覚えていない。
家族が連行されて、長い手続きと保護からの再教育、それから事情聴取。
諸々の長い長い手続きを終え、疲れ切ったあの夜から、私は何度も泣いた。
家族との別れが悲しくて。
家族に裏切られていたことがショックで。
私だけ何も知らせてもらえなかった不甲斐なさで。
自分の身近で起こっていた裏切りに気づけなかった無力感で。
プライベートな空間に突如何者かが乱入して、それからの生活が全部崩れ落ちてしまう、そんなことの恐怖に気づいて。
どうしようもなくて、泣く以外に出来ることなんてなかった。
何にも気づけなかった、鈍感で、無力で、子どもでしかなかった私。
それが昨日までの私。
でも、今日の私は、昨日とは違う私。
あの日から一ヶ月が経ったのだ。
細胞は入れ替わって、私は新しい私になった。
朝日がカーテンの隙間から、細く差し込んでいる。
あの日から、ずっと開けられなくてしまったままのカーテンの隙間から。
私はカーテンに手をかける。
一ヶ月後の朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいる。