薄墨

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5/26/2025, 10:44:24 PM

努力は環境に合わせてしなければならない。
同じ、“普通”の生活に向けて努力するにしても、
戦争中にしなくてはならない“生き延びるための努力”と
今のように平和な世の中でしなくてはいけない“生き延びるための努力”は全く違う。

努力するにも、周りの様子を正しく理解して、正しく努力をするのは大切だ。
何も分からないのにとりあえずで脳死の努力をしても、それが正しく結果を出すのは難しい。

だから、私は君が嫌いだった。
何も考えず、ただただ周りの言いなりに努力をして、結果的に周りにいいように扱われている、そんな君が嫌いだった。

努力を食われている、無駄な努力ばかりで努力しない人を食わせている、そんなお人好しで能天気な君が嫌いだった。
自分で自分のことについて顧みたりしない、自分の頭を使わない君のことが嫌いだった。

私は君の名前を呼ぶことを避けていた。
君も、君の周りにいる人も、私にとっては軽蔑の対象だったからだ。
君は私の反面教師だった。ある意味では。

ある日のこと。
ある日のことだった。
私は、全くの偶然で君と顔を合わせた。
私が私なりに考え抜いた努力で、勝ち取った場に、君もいた。

その時の気持ちは、どう言い表したらいいのか。
内心軽蔑していた君に追いつかれたという焦燥。
自分が考え、効率よくしていたはずの努力はこんなものだったのかという絶望。
頭を使わないそのがむしゃらな努力でここまで辿り着けるほど、君がした途方にもない努力への尊敬。
自分の努力不足を痛感した、何とも言えない敗北感。
自分がした渾身の努力が、君に追いつかれる程度のものだったという劣等感。

ぐちゃぐちゃの、何もかも入り混じったその頭の中に飛び交う感情たちが、私の口を動かした。

私が君の名前を呼んだ日。
思わず、君の名前を呼んだ、あの日。

君は、私の気持ちなんてまるで知らないように、朗らかに、私に笑いかけた。
「あ、はあい。…あれ、なんだかんだ初めて話すかもね。私たち」

初めて話すかもね、
そうだ、初めて話すのだ。
私が勝手に君を避けて、君を軽蔑して、話そうとしなかったのだから。
“かも”じゃない。初めて話すのだ。

これが、私が初めて君の名前を呼んだ日。
今となっては懐かしい、そして恥ずかしいあの日だ。

「ねえ、明日は休みが取れそうなんだ。久しぶりにご飯行かない?」
通知音に目を落とせば、君からの誘いの連絡が入っている。
君は相変わらずお人好しで、能天気だけれど、私はもうそれに、それほど劣等感も軽蔑も、感じないほど大人になっていた。

あの日、君の名前を呼んだ日から、君と話し関わったあの日々のおかげで。

思わず微笑んでいた。
通知をタップする。
あの日呼んだ君の名前が表示される。

私は君の名前を呟く。
私を意固地で斜に構えた若者から、人の頑張りを素直に認められる大人にしてくれた、君の名前を。

5/25/2025, 3:38:34 PM

ぶちまけられた内臓が転がっている。
生から切り離されて、ただの物体に成り下がった皮膚の内側の粘膜が、ぬらぬらと光っている。

血の匂いはしていなかった。
生き物が、あるいは生モノがある、という気配もしなかった。

なぜなら、雨が降っていた。
灰色の空から灰色の地面に降り注ぐ雨が、生臭くて、目を背けたくなるような不快なものを、さらさらと流し去っていた。

ただ、生から切り離された物体が、それ特有の、少しばかりの不気味さを残して、雨に濡れていた。
灰の塊と炭化した骨が混じり合って、緩やかに崩れて、ぼろぼろと、雨と共に地面に染み込んでいく。

物音は雨音だけだった。
霧雨のような、細く、淡い、そして全てを洗い流すその雨音だけだった。
しとしとと、もう寝息すら立てない物体に平等に降り注ぐ、やさしい雨音だけだった。

雨が降っていた。
慌ただしく騒々しい破壊と逃亡のの末に、沈黙した施設に。
残骸と物体だけが無造作に転がった世界に。
灰色の地上に。

雨音だけが響いていた。
やさしい雨音だった。

誰にでも。
どんな物体にでも。

平等に降り続いていた。
やさしい雨音が、やさしい雨音だけが。

5/25/2025, 5:42:21 AM

梅雨どきの 灰色染まる 空模様
 やるせないこと 全て歌にして

紫陽花が 土で色を 変えるよに
 軽い移ろい 嘆くも歌にして

梅雨時の 重たい雲より 重苦しい
 やるせないこと 今は歌にして

5/23/2025, 8:51:09 PM

ふんわりと薄く卵を焼き上げて、
チキンごろごろのケチャップライスをそっと包む。

ハンバーグと野菜たちを、
こぼれないようにアルミホイルにそっと包む。

バナナをたっぷり使ったパウンドケーキの生地を、
型の中に流し入れ、そっとアルミホイルで包む。

揚げたてのドーナツを
溶かしたチョコレートでそっと包む。

陽気なごちそうたちの、
甘くて、穏やかで、浮ついた香り
陽気で、明るくて、騒がしい雰囲気
それにそっと包み込んで欲しかった。

夢中で手を動かす。
料理たちをそっと包んで。
料理たちに仕上げを施して。

ふと目線を上げてしまった。
しまった、と思った。
名前も、遺影すら撮れなかった位牌が、
私を悲しみでそっと包み込む。

私は手を動かす。
浮ついた、ごちそうの雰囲気に呑まれるために。
あったはずの幸せにそっと包み込んでもらうために。

5/22/2025, 10:32:34 PM

私たちを形作る細胞は、一ヶ月で入れ替わるらしい。

つまり、あの日の私はもういないのだ。
こっぴどく打ちのめされて、トボトボと帰ってきた、あの惨めな私はもういない。

あの、泣き疲れて寝落ちたあの忌まわしい夜から今日で一ヶ月。
今日の私はもう昨日までとは違う。
昨日までの私とは違うのだ。
私はもう変わったのだ。

いきなりドアが開いて、私の家族が連行されてから、今日で一ヶ月になる。

あの日、私は知ったのだ。
私の生活が法を犯した方法で成り立っていたこと。
あの家族は私の本当の家族ではないこと。
私の信用していたあの家族は、私たちの国の安全を脅かしていたということ。

私の家族は、私以外はみんな、私を裏切っていたということ。

あの日のあの夜から、何度泣いたか、もう覚えていない。
家族が連行されて、長い手続きと保護からの再教育、それから事情聴取。
諸々の長い長い手続きを終え、疲れ切ったあの夜から、私は何度も泣いた。

家族との別れが悲しくて。
家族に裏切られていたことがショックで。
私だけ何も知らせてもらえなかった不甲斐なさで。
自分の身近で起こっていた裏切りに気づけなかった無力感で。
プライベートな空間に突如何者かが乱入して、それからの生活が全部崩れ落ちてしまう、そんなことの恐怖に気づいて。

どうしようもなくて、泣く以外に出来ることなんてなかった。
何にも気づけなかった、鈍感で、無力で、子どもでしかなかった私。
それが昨日までの私。

でも、今日の私は、昨日とは違う私。
あの日から一ヶ月が経ったのだ。
細胞は入れ替わって、私は新しい私になった。

朝日がカーテンの隙間から、細く差し込んでいる。
あの日から、ずっと開けられなくてしまったままのカーテンの隙間から。

私はカーテンに手をかける。
一ヶ月後の朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいる。

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