真夏の日、記憶の海に飛び込んで、
あの夏の、あの思い出を、必死に探す。
その胞子は、人間に寄生する。
肺に吸い込まれた胞子は、そこで大きくなって、キノコになって、神経や脳に作用する。
そして、このキノコに寄生された人間は、みんなただ一人の人間しか見えなくなる。
依存する。
恋の盲目になる。
彼らは人間がとりわけ、人肌恋しくなる夜になると、ぼんやりと口を開き、口を開くたびに繰り返す。
「ただ君だけ」「ただ君だけ」「ただ君だけ」…
そういうわけで、この冬虫夏草ならぬ、昼人夜茸を、人々はみんな「タダキミダケ」と読んでいる。
ガラス窓には、新月の暗闇が底知れぬ深さで写っている。
私には、同居人がいる。
ただ君だけ、とうなされたように私に向かって縋り付く、同居人が。
胞子を口からぽこぽこ吐きながら、「ただ君だけ」と連呼する同居人を見て、私は防護マスクの下でため息をつく。
最初は嬉しかった執着も、ここまで度が過ぎると虚しいし、迷惑だ。
特に、今みたいに、お手洗いや風呂にまでついてこようとする時は。
「ただ君だけ」と繰り返し発するその口からは、胞子が立ち上っている。
もう、仲の良い友人だった同居人が、この言葉をどういう気持ちで言っているのか、分からない。
しつこく纏わりつく同居人を適当にあしらいながら、洗面所へ行く。
「ただ君だけ」「ただ君だけ」
響きだけはやたら良い、空っぽの言葉が部屋の中に溜まっていく。
私はため息をつく。
虚しさと煩わしさの混じったため息を。
あたし、とある王国の姫!もうすぐ7歳!
お父様は、王国が繁栄するよう、力を尽くして頑張っていらっしゃるのよ。
あたしはお父様が大好き!
お母様は、私が生まれて一年後に、隣国に人質にとられて死んでしまったの。
でも今は、お父様の頑張りのおかげで、隣国となかよしで平和!
隣国の王太子様と私も仲が良いのよ。
王太子様は、穏やかでいい人!
いつも一緒に遊んでいるの!
けれど、昨日、お父様が、あたしの誕生日がすんだら、隣国と戦争を始めると発表したの!
「この国の存続のための、未来を勝ち取る戦争だ。この決定は『未来への王道』。皆、よろしく頼む」って…
大変!王太子様と遊べなくなっちゃう!
それに、遊び相手の侍女やいつも暇をしている配達員のお兄さんは、戦場に行くのは嫌だって言ってるの!
だから、私は戦争反対の侍女やお兄さんや王太子様と一緒に戦争を止めるため、お父様の暗殺計画を立てたの!
実行役はあたしと王太子様!
名付けて、「未来への船」作戦!
二人で力を合わせて、計画をぜったいに成功させて、戦争を止めてみせるんだから!
次回!『未来への船』!
ぜったい見てね!
「姫様、情に絆されず、もう少し冷静になってお考えくださいませ。隣国の今までの仕打ちを。今、この国に突きつけている無理難題な要求を…。このままでは、うちが隣国に吸収されますぞ!
変なことをしていないで、歴史の勉強をしてくださいませ…」
小鳥の鳴きかわす声が聞こえる。
草木がさわさわと身じろぎをする。
がさっ、っと茂みが動く。
天井のある建物の中で寝るよりも、晴れ渡ったまっさおな青空の下で寝るほうがずっと気持ちがいい。
人工的な建物の、蛍光灯に睨まれて眠るよりも、明るく暖かい太陽の光を、これでもかと吸収して阻む、木の葉たちに睨まれて眠るほうが、ずっと気持ちがいい。
だから、外へ出たのだ。
静かなる森へ、こっそり、堂々と。
丈夫な縄と遺書の準備は出来ている。
したいことリストを書いた手帳も忘れていない。
覚悟もできた。
準備は万端だ。
永遠の眠りにつく準備は。
種類の分からない鳥が、ぎゃあぎゃあと騒いでいる。
青空が、木々の隙間から、水色の顔をのぞかせる。
姿すら見えない動物が、ガサゴソと動く音が聞こえる。
木の葉の隙間から、太陽の光が細く伸びている。
静かな、静かなる森だ。
ここで、私は死ぬ。
無機質な病室や、帰れてないばかりに雑多で静かな自宅より、ここで眠るほうがずっと気持ちがいい。
だから。
太い枝をほこる、丈夫そうな木を探して歩く。
陽の光を一身に受けて、明るくどっしりとした木を探して。
私は、最期の眠りにつくための場所を探して、静かなる森へ進む。
鳥が鳴き交わしている。
気配を潜めているはずの、動物の気配さえも感じられる。
木々がザワザワと噂話をしている。
今日は、晴天だ。
青い青い空が、木々の向こうにきっとある。
夢を描けない人間も、とりあえず言われた通りにレールに乗っていれば、平凡に立派な大人になれるらしい。
それを証明したのは僕の従兄だった。
別にこれといって好きなものもなく、得意なものもなかった従兄は、大人の意見に時に反発しながら、でも最後には折り合いをつけて、ずるずる受験を終えて、ずるずる大学を卒業して、ずるずるそこそこ良い会社に就職して、ずるずるそこそこの生活を営んで、今年の一月には僕にもきちんとお年玉をくれた。
そんな従兄を見てきたから、僕は夢を描くことにした。
みんなと同じレールに乗るのは嫌だったから。
僕にも、好きなものや得意なことはなかったけど。
夢は、見るだけじゃダメらしい。
夢を目標にする過程がくっきりと見えるくらい、詳細に微細に描かなくては、夢は実現しないし、周りもマジにはなってくれないのだ、と。
近所でいつもフラフラしていて、公園で小学生たちとよく遊んでいた、くたびれたスウェットを着た大きいお兄ちゃんが言っていた。
「夢を描け!」
無数のテレビや動画や動画に差し込まれるCMや何も知らない大人たちは、無責任にそう煽った。
僕は知っている。
夢は見るだけじゃダメだということ。
夢は詳細までしっかり描くのが大切だということ。
夢がない人にこそ、レールに乗った人生が救いだということ。
僕のパパは死んだ。
夢を描け!と言う、今どき僕でも引っかからない無責任な煽りに、ホイホイ乗っかって、中途半端に夢を描いて、現実に押し潰されて、夢でふわふわに描いていた残りの人生を、現実まみれの現金に変えるために、遺書を書いて、椅子を蹴って、
死んだ。
僕のママは嘆いた。
物体に成り果てたパパをどうにか処理して、パパの遺したものをなんとか整理して、黒い喪服にやつれて疲れ切った頭を貼り付けて、
嘆いた。
だから僕は夢を描くことにした。
夢を描け、という無責任な言葉に踊るいい歳をしたパパに先立たれ、夢を追いかけた敗戦処理という現実に追い詰められて、疲れ切ってやつれて恨み言しか吐かないママに育てられた僕は、少なくとも普通ではないし、従兄のような平凡な幸せでは、満たされないと思う。
だから、僕は夢を描くことにした。
夢を描いて、完遂すれば、無責任に無邪気に、「夢を描け」なんて言う大人たちを冷笑できるし、
夢を追う人を執拗にこき下ろすママの恨み言もきっと止められるし、
大人ではなかった馬鹿なパパを嘲笑えるし、
僕よりずっと幸福で平凡な従兄にも優しくできると思うからだ。
だから、僕は夢を探している。
とびきり上等で、僕でも細かく描ける夢を。
高校までには決めたいところだ。
僕は今、小学五年生だから、あと四年ある。
夢はまだ見つかっていない。
僕の周りの大人はみんな、「夢を描け」と言う。
まだこれから長いんだから、でっかい夢を描け、と。
僕は夢を探している。
細かく描ける、実現のビジョンがきっと立ち上がってくる、僕のための夢を。
僕の描くべき夢は、まだ見つかっていない。