あの頃は、立ちはだかる壁に対して出した自分の選択は、いつだって青信号に思えた。
そば粉のガレット、なんて洒落た名前のついた生地の欠片を、ホットコーヒーで飲み込む。
その頃なら、値段の割にカロリー不足、という理由で、絶対に頼まなかったメニューだ。
春の霞む空気の中で、信号機はちょっと間抜けな音で自分の存在を主張しながら、青く蛍光している。
その様子を眺めながら、ガレットを一口サイズに切り分けて、また、コーヒーと共に飲み込む。
駅前のカフェの前の交差点は、今日もそれなりに人通りがある。
散歩の犬、少し早い出勤のためにスーツを着こなしたビジネスマン、どこかへ観光に行くだろう老人たちのグループ…。
たくさんの人が、思い思いに通り過ぎて行く。
あの人たちと同じように、あくせくと駅へ向かう日々が懐かしかった。
身の丈に合わない夢も努力をすればきっと叶う、と大真面目に信じていたあの日々が、懐かしかった。
朝の春の空は、ぼんやりと、しかしくっきりと青い。
時間が経って、昼になればもっと青い青い空になって、夕方には赤くなるだろう。
私も、あの空のように、青い青い時があったのだ。
青い青い空の青さに気づかないほど、何かに夢中だった時が。
コーヒーを飲む。
青い青い日々に想いを馳せる。
あの頃は、私は青だった。
5人のグループの中で、青色担当だった私は、毎日、青い青い衣装に身を包んで、歳よりもずっと青い青いセリフを吐いて。
あの時は、青い青い衣装を着た自分は無敵だと、無邪気に信じていた。
私も青かった。
心と足に、再起不能なほど大きな怪我を負ったのは、ひとえに、私の青さからだった。
自分は無敵だと、無闇に信じ込んでいたその慢心からだった。
あの日、観客に囲まれて怪人と戦っていた私は、本当に油断したのだった。
目を離したあの時に、怪人の攻撃が、私たちの戦いを見にきていた、小さな子どもへ向かって、それで…
あの日、私はきっと、赤信号を青だと誤認したのだ。
自分が無敵だと信じきっていた、青い青い油断で。
戦えなくなった私は、青い青い衣装を脱いだ。
金輪際、着ないことを誓った。
給料は他の仕事と比べものにならないくらい良かったし、使う暇もなかったので、辞めたその頃には、この先生きていけるくらいのお金は十分にあった。
ひとりぼっちにはなったけれど。
ひとりぼっちで、もう青くない私は、毎朝、駅前のカフェのこの席に座る。
青い青い日々を、私が青かった日々を思い出しながら、コーヒーを飲む。
やることなすこと全て青信号に見えた、あの日を思い出しながら。
いつの間にか、間抜けな音が鳴り止んでいた。
青信号がチカチカと点滅する。
もうすぐ、赤信号に変わるのだ。
ガレットの端を切り分けて、コーヒーと一緒に飲み込む。
青い青い空が、窓の外で、外を歩く人々を見守っていた。
「Roses are red,
Violets are blue.
Sugar is sweet,
So are you. 」
活版印刷がウリのお店で、刷った。
初めて使った型落ちの活版印刷機は、刷ったというより、押印した、みたいな感じだった。
正方形のメッセージカードに、印刷機に並べた文字列を押し付けて、刻んだ。
図書館の分厚い本で長いこと読むには読みづらい書体も、こんなに単純短文な詩だけを印刷するなら、かえってロマンティックで美しく見えた。
このカードを目にすると、頭に浮かぶ思い出は、みんな甘くてまろやかな風味を纏っている。
あなたが淹れるホットチョコレートの、あの優しく甘ったるい、あの味だ。
砂糖よりも、練乳に近い、あの甘さだ。
長いこと、一緒にいた。
恋愛なんて、お互い性に合わなかった。
ただ、二人きりでいる時間が、他のどの時間よりも甘美で、安らいでいた。
甘くて、自然で、優しくて、私たちはずっと繋がっていて一続きなんだ、と、二人で一組なんだって、確信を持ってそう思えた。
私が出かける時は、いつもあなたは眠っている。
あなたが出かける時は、私がいつも眠っている。
でも、私たちはお互いに、唯一無二の存在で、
いつも三時のおやつの時間に揃って、あなたの淹れたホットチョコレートを飲みながら、のんびり考えに耽るのだ。
あなたと考えごとをするのは楽しかった。
本当は昨日も、今日だって、そうするつもりだった。
でも、できないのだ。
あなたが帰ってこないから。
あなたと出会ったのは、空から落ちてくる冷たい雨と、湿った水飛沫を跳ね上げるアスファルトの混じった空間だった。
その日、私はあなたに会った。
二人一緒に、アスファルトの上に、くたびれた雑巾か、何かの部品みたいに、放り出されていた。
ずるずる引きずられた私の体と、潰れたあなたの胴の間に、あなたはいた。
ぼんやりと霞んでいた。
あなたの外見の様子や顔を見たのは、それが最初で最後だった。
雨と鉄分が混じり合ったような湿った血の匂いと、冷たい雨の降り頻る音だけが、ハッキリとしていた。
次に目が覚めた時は、真っ白い清潔な病室だった。
白い床と天井の、薬品の匂いがする部屋で、白いシーツに包まれて、私は目を覚ました。
その時にはもう、あなたがいた。
あなたが、私の体にいた。
私のズルズルの身体に、パーツとしてツギハギに縫い付けられたあなたがいて。
私の意識の中にも、ちゃあんと別人のあなたがいた。
それが、私とあなたの始まりだった。
あなたが私に馴染むのに、そして、私があなたに慣れるのに、ずいぶん時間がかかった。
その間は退屈だった。
だって何しろ、私もあなたも、怪我が治り、そしてリメイクした体に慣れるまで、体を動かすことは禁じられていたから。
退屈だったから、私とあなたは話すようになった。
お互いの意識で繋がり合って、お互いの考えを伝え合った。
血液型やパッチテスト以外は全然違う私たちだったけど、本当に気が合って、すぐに誰よりも仲良くなった。
けれどそのうち、周りが気味悪がり始めた。
精神科医を連れてきて、どちらかを消そう、そんな乱暴な話までされるようになった。
だから、私たちは取り決めた。
話し合い、意見や意識を交換し合うのは、三時のお茶の時間。
誰もいない秘密の時間だけ。
あとの時間は、どちらか片方だけがいるようにしよう、って。
それで上手くいっていた。
私たちはこの五年間、いろんなことを一緒にした。
リハビリも、外出許可で出かけた時も、読書も。
疲れたら交代して、他の人にはバレないように、でも、楽しく。
あなたに、ホットチョコレートの分量を、作り方を、教えてもらった。
読書や絵やお菓子の作り方なんかも。
私は、ゲームの仕方や、暗号やなぞなぞの解き方や、公式を、あなたに伝えた。
ところが今日、あなたは行ってしまった。
病院にいる五年の間で、あなたの体が私に馴染んできていた。
ゆるやかに、けれど確実に。
もうすぐ、元から私の体だったみたいに使える気がしていた。
そんな日だった。
昨日の早朝、私の夢の中であなたは言った。
あの日の、ぼんやりと見えたあなたの顔で、あなたは笑って言った。
「私たちもそろそろ一人に戻る時間だね。とても楽しかった。バイバイ」
「ありがとう」とかじゃなくて、「バイバイ」なのが、あなたらしかった。
あなたを見送った。
目が覚めた。
目が覚めて分かった。
あなたはもういない。あなたはもう、私になってしまった、と。
三時のお茶の時間は、今となっては、甘い、一続きの、長い、思い出になってしまった。
より正確にいうならsweet memories。
よくよく考えれば、甘いというより、sweetなのだ。
あなたと私のあの時間は。
私たちの思い出は、甘くて、優しくて、まろやかで、そして何より、私たちはずっと一続きで、二人で一組だったのだから。
そして、私に残ったあなたの記憶は、私だけでなく、あなたの記憶でもあるのだから。
だからsweetでmemoriesなのだ。
甘さだけじゃなく、思い出も一つじゃない。
私たちだけの、sweet memories。
昨日あなたを見送ってからすぐ、私は外出許可をとった。
そして、活版印刷機のある印刷屋に連れて行ってもらった。
あなたとの、sweet memoriesを忘れないようにするために。
読書を覚えてから、マザーグースは知っていた。
あなたもこの詩は知っていた。
だから私はメッセージカードを作った。
あなたの記憶に向けて。
私の意識に向けて。
「Sugar is sweet,
So are you. 」
最後の一文を撫でた。
外は、気持ちよく晴れていた。
生ぬるい麦酒を喉に流し込む。
今日はやけに空気が蒸している。
タバコを咥えて火をつける。
口元すれすれでタバコを触る指先に、生え始めた無精髭がちくりと痛い。
ぬるめに蒸した初夏の空気にうんざりしながら、ヤニ臭い煙を味わう。
この体に、男になってから、まだ三ヶ月。
私とも僕とも俺とも言い難い。
なんとも混じり気のあるはっきりしないような気分だ。
丁度、副流煙だ健康被害だと隔離され、施設の片隅の一隅ほどの狭いスペースに、閉め切られた喫煙所に蔓延する煙のように。
澱んだ、なんとも言い難い気分だ。
一人ぼっちのアパートの、窓際でタバコを吸う。
外を眺めながら、一人で。
かつて、ここにいた親友はもういない。
一緒に暮らしていた、同居人で同志でもあった、あの戦友は。
似たもの同士だった。
抱えている悩みも。
漠然とした絶望の未来を抱えているのも。
どうにかして、いっそ別の人間になってしまいたいと願っているのも。
異性であることに憧れているのも。
似たもの同士だったのだ、本当に。
目の前が澱み、霞んできた。
紫煙が、部屋に溜まり始めていた。
窓を開けていなかった。
麦酒を呷った。
腕を伸ばして、窓を開けた。
やたら粘着質の、ぬるい風が吹いていた。
ヤニと有害物質を纏った紫煙は、口元から、窓の外へと流れた。
風と。
風と共に。
同居人がいなくなったのも、風と共にだった。
似たもの同士で、いつも以心伝心だと思っていた。
それが間違いだった。
親友は、ずっとずっと繊細だったのだ。
ずっとずっと悩んできたのだ。
いつしか、親友の心は知らぬうちに、換気がされていない狭苦しい路上の喫煙所のように、モヤモヤと澱んでいたのだ。
悩みや不安や術後の苦悩や、その他の大なり小なりのなんやかや。
煙のように形のないそれが、親友の心には溜まっていたのだ。
きっと。
ある日、親友は、高い高い窓に手をかけて、笑った。
屈託のない、やけっぱちないつもの顔で。
そして、親友は目の前から消えた。
片手で自然に窓を開けて、
身を乗り出して、
窓の奥の外から吹き抜けた、今日とは比べ物にはならない涼しげな風と共に。
親友は、風と共に出て行った。
窓から、外へ。
生ぬるい麦酒を呷る。
うまくない。
苦くて、気が抜けていて、えぐくて、まずい。
窓から、外の空気が吹き込む。
今日は、やけに蒸している。
タバコの煙が、風と共に窓を出る。
臭くて、有害で、公害になるらしい煙が。
じくじくぬるい風と。
今日の空気は、やけに蒸している。
ぬかるんだ轍の窪みに、薄く泥水が溜まっている。
とっくに通り過ぎた車の、車輪の、僅かに凹んだ軌跡に、ぬらぬらと雨蛙の背が光る。
うんざりするような田舎道。
未だに舗装されていない道の泥を跳ね上げて、時速60キロも出せないトラクターが、のろのろと、道のぬかるみに軌跡を刻みながら遠ざかっていく。
あのトラクターはおんぼろだ。
バンパーからガタピシガタピシ音を立てている。
濡れた油の匂いがする。
あのトラクターは、何度ここの道に軌跡を刻んできたのだろう。
ガタピシガタピシ揺れながら、どこか手慣れた様子で走ってゆく、あのトラクターは。
雨の匂いがする。
あのトラクターは、近所のおじさんのトラクターだった。
今となっては、もう、呆けてしまって、一人暮らしもままならなくなってしまった、おじさんのだった。
おじさんは、この辺りでは一番大きい田圃を持っていた。
お米を育てるということを、誰よりも詳しく知っていた。
ここの土地と地域のこと、天候を、誰よりよく知っていた。
そして、ここの空き地を田圃にしよう、と呼びかけたのは、若い日のおじさんだったという。
おじさんはここの長で、リーダーで、
この辺り一帯こそが、おじさんの軌跡だった。
おじさんはよくあのトラクターで、この道を走っていた。
未だに舗装されていない、この道に、轍を、軌跡を刻みながら、おじさんとあのトラクターは、いつも仲良く、田圃を回っていた。
遠い遠いかつての日、ガタピシ鳴るトラクターと、節くれだったおじさんが、楽しそうに轍を、軌跡を刻みながら、走っていた。
その道を、今、トラクターが走っていく。
最期の道をゆっくりと。
うんざりするような田舎道。
未だに舗装されていない道の泥を跳ね上げて、時速60キロも出せないおんぼろトラクターが、のろのろ、軌跡を踏み締めていく。
雨の匂いがする。
ぬかるんだ道の轍に、薄く泥水が溜まっている。
トラクターとおじさんが、何度も刻み直した軌跡の窪みに、雨蛙の背がぬらぬらと光る。
雨と、泥の匂いがする。
お隣で、肘をついて、食事をつまむ。
口にゆったりお酒を含む。
ふと目があって、笑い合う。
そんなあなたが
好きになれない、嫌いになれない。
休日も、あと2、3時間で終わる。
そんな一抹の憂鬱を含んだ貴重な時間に、
特に恋人でもなんでもない友達のあなたと、
何をするでもなく、飲み食いする。
そんな無駄な時間が
好きになれない、嫌いになれない。
少し味の濃い、カロリーも高い食べ物をつまんで、
人体には毒であるはずの飲み物を口に含む。
本音というわけでもないとりとめのないことを、ふわふわとだだ漏れにして。
話すつもりはなかった、合理性のかけらもない言葉を、お互いに溢しながら、
ただ二人で外を見る。
そんなひとときが、
好きになれない、嫌いになれない。