お隣で、肘をついて、食事をつまむ。
口にゆったりお酒を含む。
ふと目があって、笑い合う。
そんなあなたが
好きになれない、嫌いになれない。
休日も、あと2、3時間で終わる。
そんな一抹の憂鬱を含んだ貴重な時間に、
特に恋人でもなんでもない友達のあなたと、
何をするでもなく、飲み食いする。
そんな無駄な時間が
好きになれない、嫌いになれない。
少し味の濃い、カロリーも高い食べ物をつまんで、
人体には毒であるはずの飲み物を口に含む。
本音というわけでもないとりとめのないことを、ふわふわとだだ漏れにして。
話すつもりはなかった、合理性のかけらもない言葉を、お互いに溢しながら、
ただ二人で外を見る。
そんなひとときが、
好きになれない、嫌いになれない。
ニワトリが 鳴いて砧の 音がして
明けた夜を知る 後朝の空
また目があった。
ふとした瞬間に、視線がぶつかる。
これで相手が、いつも気怠げなダボっと服を着崩したバイト君や、疲労と責任の負の部分を全て肌に染み込ませたような店長や、パサパサに髪を染めた見た目よりずっと繊細そうなギャルちゃん、とかなら、ドラマチックな何かが始まっていたのかもしれない。
しかし残念、相手は人ではない。
バックヤード。
人けのない休憩室の、無機質な灰色の壁にへばりついた、色の変わったセロテープに汚されたポスター。
「スタッフ募集」のゴシック体と一緒に、二重の大きな目をした女性が、カメラを構えて、採用用のショートフィルムの提出を促している。
その二重の、ぱっちりとした目と、なぜだか目が合うのだ。
よく見れば見るほど、ハッとする美人だ。
くりっとした形の良い二重。
程よく高く、穏やかな鼻。
ゆるく釣り上がった赤い唇。
チャーミングに凹むえくぼ。
浅葱色の瞳と柔らかそうな髪。
特にはじけたところはないのに、見れば見るほど、そのシックな美しさから目が離せなくなる。
ポスターとデカデカと貼り付けられたゴシック体が色褪せてさえいなければ、まだまだたくさんの人の目を引いていただろう。
そんな顔だ。
そんな顔と目が合うようになったのは、あの日からだ。
なんてことはない日だった。
深夜シフト、バイト君の急なシフト変更に、休憩中、回っていない頭を抱えてシフト表を見つめていた、あの日。
ふと視線を感じて目を上げると、そこにポスターが貼り付けてあって。
あの、シックに微笑む、二重の、アーモンド型の目があった。
ふとした瞬間に、視線を感じるようになったのは、その時からだ。
強めのブラックコーヒーを淹れに、休憩室へ寄った時。
お客様へ預かっている荷物をひっぱりだしに来た時。
商品を補充しに来た時。
シフト表と勤務表にチェックを入れる時。
在庫を確認する時。
一人きりで休憩に入る時。
ふとしたそんな瞬間に視線を感じて、目を上げるとあの目がある。
美しい、くりっとしたあの二重の目が。
いつも、いつも。
ふとした瞬間に目が合うのだ。
ある日、ポスターの中のあの子に向かって呟いたことがある。
正確に数字が思い出せなくなるくらい、何連勤も働いて本当に疲れ切った日のことだった。
こんなくたびれたパートの主婦を見たって、何の肥やしにもならないわよ
煩わしくなって、バカみたいだけれど、ポスターに向かってそう呟いた。
けれども今も彼女と目が合う。
ふとした瞬間に。
あの、印象的な美しい二重の目と。
もうすっかり慣れてしまった。
ポスターのあの子からの視線を感じながら、コーヒーを啜る。
休憩室は、沈黙に満ちている。
あの子の視線だけが、くたびれた私を見ている。
後ろ姿が見えない。
声も聞こえない。
残っているのは、足跡だけ。
足跡を消さないように、慎重に追いかける。
早く追いつきたいけど、足跡は消してしまいたくない。
あなたがここにいた、という痕跡を消すことはできない。
だから、必死に、けれど慎重に、一つ一つ、あなたの実績を追いかける。
あなたが今、どこを走っているか。
どれだけ前を走っているか、分からないけど。
それでも諦めたくはなかった。
どんなに離れていても、追いかけるのだけは、やめたくなかった。
あなたは優しかった。
もっと速く、もっと美しく、もっとぐんぐん走れるのに。
あなたは後輩の足並みに揃えてくれた。
丁寧に教えてくれ、助けてくれた。
だから、あなたが大きな世界に行けることになって、
私たちという枷から解き放たれて、
自由に走れるようになって、
あなたはあっという間に遠くへ行ってしまった。
けれど私は知っている。
あなたを。
周りの人々に気を使って、足を休めていたあなたの、疲れ切った顔を。
僻みや妬みに心を砕いて、一時的に走れなくなったあなたが流した涙を。
あなたは私の憧れで、そして私が最も理解したい人だったから。
だから、私はあなたを追いかける。
必ずあなたに追いついてみせる。
どんなに離れていても。
あなたが、泣いたり、疲れ切ったりした時に、隣であなたに肩を貸せるように。
「ほう ほう ほーたるこい」
「こっちの水はあーまいぞ」
陽気な声が響く。
あちらこちらで小さな光が浮かんでは消えを繰り返している。
「こっちにこーい」
無邪気な命令口調が、静かな闇夜に飛び交う。
蒸し暑い夏の川の夜。
蛍も、恋のまたたきを繰り返して、飛び交っている。
ほのかな光が、弱々しく近づいてくる。
腕に止まるほど近くにいる蛍は、結構虫だ。
黒い滑らかな羽の下に、うだうだの脚を覗かせて、うぞうぞと動いている。
子どもたちに言われた通りにこっちに来た蛍は、力なく尻を光らせて、動いている。
「こっちに恋」なんて、脳内お花畑な誤変換で、舞い上がっていたあの日が懐かしい。
「愛に来て」なんて、バカみたいな返信を打ち込んで、浸っていたあの日が懐かしい。
失恋をしたのは、あの人が子どもを愛せる人ではなかったから。
人の子どもに余すことなく愛を注ぎたい、私の気持ちを疑ったから。
引率で連れてきた子どもたちは、無邪気に蛍を呼んでいる。
その蛍が近づいたらこんなに醜いなんて。
蛍たちが光っているのは、自分の遺伝子を残したいだけの、下心満載の、ごちゃごちゃした生存競争であるなんて。
蛍を眺める、彼らにはまだ分からないことだろう。
「ほう ほう ほーたるこい」
「こっちの水はあーまいぞ」
陽気な声があちこちで飛び交っている。
「こっちにこーい」
無邪気な命令口調が響く。