花びらが 酒をひとひら 舐めるのも
待てずにあおる 桜風の宵
海を泳いで、泳いで、ようやく辿り着いた岸。
ざらざらの砂の上で、振り返った。
身体中に纏わりつく潮の匂いと一緒に見た風景は、キラキラ光っていて、美しい海だった。
家から逃げ出して、必死に泳いだあの大きな波間も、風景として見てみれば、ただのキラキラ輝く、海の波でしかなかった。
弟の、冷たい手を握って、海の風景を眺めた。
波がキラキラと揺れている。
遠く、遠くに、私たちの家があった陸が見えた。
逃げ出したのは、大人たちが危険になったからだった。
数ヶ月前からおかしかったのだ。
私たちの周りは。
大人たちが、ピリピリし始めて、
大人同士で喧嘩を始めて、
銃や爆弾が飛び交い始めて、
お母さんやお父さんや大人たちが、暴力を振い始めた。
だから、私たちは逃げ出すことにした。
弟を守るために。
地獄みたいな、家の周りの風景から逃れるために。
遠くから見ると、家の周りは綺麗な風景だった。
潮水と風に煽られ、手足が動かなくなるほど、喉を裂かれるほどに恐ろしかった大波と海も。
今、ここから見れば、青い波に現れた新緑の鮮やかな陸地でしかなかった。
背後には崖が立っていた。
これを登れば、別の国、別の地域に入れるはずだ。
家から見えた、あの美しい風景の国の中に、入れるはずなのだ。
弟の手を引いて、一歩踏み出す。
あの、遠くから輝く、美しい風景の中に、私たちも行くのだ。
私たちは一歩を踏み出した。
どこかで、家の近くでうんざりするほど聞いた、銃声みたいな音が聞こえた気がした。
聞こえた…気がした。
コンクリートが崩れ去った
赤黒い液体の染み込んだ黒茶けた土の上で
腐り落ちた君と僕は
抱き合うのだ。
白けた目を向けるものなど誰もいない
ふんわりとしたきめ細やかな死の灰に守られて
つきん、と、関節を刺す異常な肌寒さも
意味もなく鮮やかな熱い太陽も
全てに祝福されて
君と僕は肩を寄せ合って、見つめるのだ
遠い遠い終焉を。
焦げついた最後の地で、君と僕は。
まだ未熟な身体を寄せ合って
打ちのめされた幸せな記憶と自分らしい精神の
僅かに残ったボロ切れのような希望を掻き抱いて
空を見るのだ。
待つのだ。
あの太陽が、世界を焦がすのを。
あの怪物が、地上を更地にするのを。
君と僕は。
肩を寄せ合って。
空には今にも目に赤く灼きつきそうな赤い太陽。
君と僕は、全部燃え尽きてしまわないように寄り添って
もう崩れ、溶け、腐りかけている肩と肩を寄せ合って
腕と腕とを混ぜ合って
世界の終わりを、正面から見つめる。
君と僕。
君と僕、ただ二人しかいない世界だと信じ込めそうなほどに静まったこの世界で。
君と僕、最期の生き残りだと言い張れそうなこの世界で。
世界の終わりを、見つめる。
君と僕で。
抱き合って。
「誰も恋人にならないから、好きだったのにな」
『さあ、夢へ!』
原作の漫画のタイトルをそのままつけた二次創作冊子の、抱き合う二人のコマを見て、あなたは呟いた。
「恋なんて、普遍的な一言で片付けられない、分かりにくい関係性をきちんと書いた作品のつもりだったのに」
「そういう微妙なのって、分かりにくいか」
寂しそうにあなたはボソボソ呟いて、
残念そうな顔で、手に持った冊子を閉じた。
「…なんで伝わらないんだろう」
『さあ、夢へ!』次回作のネームを読み返しながら、あなたは呟いた。
私は、ただ黙って、その原稿の上に横たわっていた。
あなたがいつ、私を使わなくなるんだろう、とハラハラしながら。
「…やっぱり、伝わらないのかな。……分かりやすい方が、みんな好きなんだろうな」
側のスマホには、あなたの書いた原作の『さあ、夢へ!』の公式サイトのフォロー数と二次創作同人誌の『さあ、夢へ!』の特設アカウントのフォロー数が並べられている。
公式サイト…つまり、あなたのアカウントのフォロー数もかなりの数だ。
どんどん増え続けている。
しかし、二次創作同人誌の『さあ、夢へ!』アカウントには、倍近いフォロー数が表示されている。
アカウントの説明欄には、最新号を頒布してからこの同人誌についてのアクセスがあまりに多かったため、個人ながら特別措置で、アカウントを特設したのだ、と説明されている。
「…夢だったのにな、漫画家になるの。なって、恋以外の関係性を描いた漫画をヒットさせるの」
「でも、何も伝わってなかったんだな」
あなたは、作成中の原稿を見、それから、原稿の上に放り出された私を見て、ため息と共に呟いた。
その間も、SNSは動き続けていた。
夢へ辿り着いたあなたのもとに、数々のファンレターが、ひっきりなしに届く。
フォロワーも増える。
二次創作の『さあ、夢へ!』界隈から。
「元気かな」 きっとあなたの 元までも
繋がっている 空に放って