薄墨

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2/9/2025, 3:46:28 AM

「やまのあなたのそらとおく さいわいあるとひとのいう」
口の中で、いつ覚えたかも知らない言葉の残滓を転がす。

「やまのあなたのそらとおく さいわいあるとひとのいう」
もう意味すらもわからない。
音とリズムだけが、私の体に染み付いている。

「ああわれひとととめゆきて」
続きを口の中で転がしながら、一歩を踏み締める。
踏み込んだ傾斜の表面で、落ち葉がかさり、と音を立てる。

「なみださしぐみ かえりきぬ」
かさり、かさり、と落ち葉ごと傾斜を踏み締める。
結構、急だ。
体の重みが、ぐっと靴底を圧迫する。

「やまのあなたのなおとおく」
さいわいすむとひとのいう
一歩一歩、歩くという動きを感じながら歩く。

言葉はもう死んだ。
言葉を媒介とした奇病が流行って、人の言葉は見る間に駆逐された。
言葉の中身は、奇病によって食い尽くされ、言葉の意味は空虚に転がった。
言葉はもうこの世には、ひとかけらも残っていない。
ただ、鳴き声のような言葉の響きだけが、言葉の残骸だけが、この世には転がっている。

「やまのあなたのそらとおく」
言葉のない世界で、私は遠く…遠くを目指して、歩いている。
意味はない。
目標もない。

ただ、遠く…遠くへ歩きたかった。

「やまのあなたのそらとおく さいわいすむとひとはいう」
言葉の残滓を繰り返しながら、私は歩く。

遠く…遠くへ…

2/8/2025, 8:50:43 AM

それは、公然の秘密だった。
皆が気づいていながら、晒されていながら、知っていながら、“誰も知らない秘密”として振る舞うことで、成り立っていた。

繭の中で、自らの首を絞めることになる真綿に包まれて眠りこける蚕のような、そんな不安定な安寧と秩序だったのだ。

それは誰もが薄々気づいている、“誰も知らない秘密”だった。
だから、時折、そんな空気を読めない旅人が、町はずれの峡谷で、青い毛皮を煌めかせたシカを見ただとか、銀の美しい毛並みを持ったキツネが居ただとか、虹色の不定形が這い回っていたとか、そんな噂がたった時には、見間違いだとか伝説だとかと言って、根も葉もない嘘に作り替えて秘密を守るのが、この町の秘密だった。

その峡谷には、確かに夢のような動物がうろついていた。

昔々、何処からかこの町に現れた虹色の繭が孵ってから、この峡谷には度々、そんな夢のような獣が駆け回るようになったのだ。

繭がこの町に現れたその時代、まことしやかに囁かれていた噂があった。
遠い遠い東の国、強い強い軍帝国が、生物兵器を発明し始めたと。
その研究は隣国には秘匿され、失敗作は、その帝国から遠く遠く西のある地へ捨てられたという、そんな噂だった。

この町の峡谷に、奇妙な獣が居るということは、昔から公然の秘密だった。
公然の、誰も知らない秘密だった。

この地にかの帝国からの戦闘機が、辿り着くまでは。

今はこの町の噂も、あの帝国の生物兵器の噂も、もう誰も知らない秘密になった。
誰も知らない秘密に。

燻った町に、燻った峡谷が今も広がっている。

そしてその峡谷を、美しい青い毛並みのシカが、今も元気いっぱいに駆け回っている。

2/6/2025, 11:04:54 PM

遠くの空が白む。
崩れかかった建物の柱の奥から、まん丸い太陽の頭が見える。

ぐずぐずになった家宅の、床板の上に立っている。
床の上には、まだ赤い血痕がぽつぽつと残っている。

もう誰もいないのだ。
頭の中ではぼんやりと覚悟していたのに、具体的な理解は何一つ追いついていなかった。
でも、本当に終わったのだ。一夜で。

建物も木も地面も、燻っている廃墟で立ち尽くす。
昨日までは、ここに、賑やかな集落があった。
小さな建物の中に、わらわらと人が住み、道の外れでは、家畜が草を食んでいた。
小鳥や野鳥が空を飛び回り、番犬や鼠取りの猫が悔しそうにそれを眺めていた。
美味しそうな食べ物の香りがあちらこちらに満ち、手入れの行き届いた植物たちの葉が朝露に濡れていた。
鮮やかな色が、あちらにもこちらにも溢れ、人の往来と喧騒が、明るい朝に溢れていた。

ここはそういう集落だった。
私が来た時には、鮮やかで賑やかな、人類たちの集落だった。

人類に対して、魔族の侵略を始めるとなった時、真っ先に候補に上がったのがここだった。
遠い昔、かつて人類が、私たち魔族に対して、侵略戦争を行ったその最初の地が、この集落だったからだ。

この地に住む人の集落は、なんとしても全滅させる。
それが、昔から人間に虐げられてきた、魔族たちの宿願だった。

私は、その計画を成就するために、人に化けてこの集落で、ちょっとの間、暮らした。
その間、人間たちはどの人もみな、優しかった。
ようやく集落に辿り着いた旅の人間という“設定”の私に、人間たちは笑いかけ、温かい食事と柔らかな寝床を掻き集めた。

素晴らしい暮らしだった。
しかし、私はこの集落を滅ぼすつもりだった。

集落の人間が親切であるほど、ここを確実に滅ぼさなくてはいけなかった。

その親切が種族問わずに発揮されるものであったなら、そんな優しく甘い気持ちを持った人間たちには、魔族の侵略戦争という未来には、辛い仕打ちしか残っていないであろうし、
この親切が私が人間という種族の形をしているから発揮されるのであれば、そういう人間たちはえてして、親切にしなくていい人でなしには、恐ろしく残酷な仇であるからだ。

だから、私はこの集落を完璧に調べあげ、仕事をやり終えた。
集落への攻撃は、計画通りに達成された。
魔族の総攻撃を、一夜に受けたこの集落は、もはや原型を保たぬ荒野として、今目の前にその姿を晒している。

静かな夜明けだ。
溢れていた子の声も、動物の声もしない。
瑞々しい命と生活の気配は、跡形もなく焼け爛れて、燻っている。

しん、とあたりは静まり返っている。
朝の爽やかな風だけが、廃墟と瓦礫に埋もれた荒野を吹き荒ぶ。

私は、朝の空気を腹いっぱいに吸い込む。
空に朝日がゆっくりと昇っていた。

2/5/2025, 10:52:46 PM

腹なんて到底割れそうにない小さなナイフで、ハツを切り分ける。
一口サイズのそれを口に運ぶ。
まさに今食事をしているというのに、腹が「くぅ」と情けない声を上げる。

心筋の弾力を噛み締めながら、自分の手に目をやる。
白く血色の悪い指が、ナイフとフォークを握りしめている。

心臓を食べるようになった。
心臓が止まって、その心臓があなたのものに変えられてから。
私は、心臓を、食べなくてはならなくなった。

私は友達だと思っていた。
丸い目をきょとんと光らせ、ニコニコと屈託なく話す親友だった。
厚い防弾ガラス越しにいろんな話をした。
施設の中で、唯一、腹を割って話せる親友だった。
先生に怒られたことも、外出制限がかかった愚痴もよく話したし、彼女の、喧嘩の言い分やちょっとした冒険の話を聞くのも好きだった。

「ドナーになったらね、移植者にその人の癖や意識が時々現れることがあるんだって。きっとね、ドナーの内臓はバラバラになっても、その人として生きてるんだね」
「だから私、楽しみなんだ。ドナーになるの!」
彼女はそう言って、笑った。

彼女は臓器移植ドナー用に、ゲノム情報を加工された、特殊な人間だった。
社会的地位としては、家畜となんら変わりのないヒトだった。
彼女は、その和やかで無邪気な笑顔の内側で、普通の人間の倍の臓器を養いながら、楽しそうに生きていた。

彼女たちの寿命は、ガラスの外側で暮らす移植者の成長に依存していた。
彼女たちが、自分の人生を生きることは絶対にない。
でも、彼女はいつも楽しそうに笑った。
「バラバラになって、いろんな人の人生を一度に生きるのも、楽しそうだよね」
そう言って、まだ見ぬ未来に期待していた。

一緒に私と彼女は大人になって、それが彼女の寿命だった。

産まれてからずっと弱々しく不規則にしか脈打たなかった私の心臓は、強靭にリズム良く脈打つ彼女の心臓に置き換わった。

それだけだった。

最後に彼女が残した遺言は、術後のベッドの片隅に置かれていた。
見たことない彼女の字で、「heart to heart」そう書かれていた。

そういや最近、彼女は、英語にかぶれていた。

あの子らしい遺言だった。

きっと彼女は、今も私の心臓で、誰かの肺で、誰かの眼球で、誰かの肝臓で…誰かのどこかで、しぶとく、生き続けているのだろう。
そして、私と彼女は本当に、「heart to heart」、腹を割った親密な関係になったのだ、文字通りに。

術後の食事制限明け、パパは私に何が食べたいか、聞いた。
「心臓。」私は答えた。
彼女が、「いつか内臓を食べてみたい。そうしたら私の内臓はもっと強靭になりそうだし」みたいなことを言っていたことを思い出したからだ。遺言を見て。

初めて食べたハツは、鉄臭くて、弾力があって、私にとっては、良さのわからない珍味だった。

しかし、それからも私は、定期的にハツを食べている。
あまり美味しくなかったはずなのに、どうもクセになってしまった。
彼女を感じるのは、そういう時だ。

ハツを切り、口の中に入れる。
相変わらず鉄臭くて、硬い。
心臓が力強く、どくん、と脈を打つ。
私は、ハツの心筋を噛み締める。

私の、彼女の心臓は、元気に生きている。

2/4/2025, 11:01:05 PM

ドライフラワーでいつまでもつだろう。
花束から一本一本花を抜いて、吊り下げながら、そんなことを考える。

幸せというのは、日常の何気ない会話にこそ、出てくるのだと、この5年間で学んだ。
実際、今までが本当に幸せな毎日だったのだ。
お互いに思いっきり話せて、思いっきり寄りかかる相手がいるというのは、本当に幸せなのだ。

だから、この結婚も、これからの生活も、全く疑ってはいなかった。
永遠とも思えるこの未来は、全く先が見えなかったが、あなたとならなんとかなる、そういう確証があるのが、私たちの関係であり、絆だから。

軽口や言い合いを、遠慮なくできるようになろう。
でも、言い過ぎたと思ったら潔く謝る。
情熱的で綺麗で執着を伴うような愛じゃなくていい。
ただ、相手を尊敬できて、一緒にいることで安心できる二人組でいよう。

それが私たちの不文律で、だから、私たちはコメディのようなやり取りを何度も重ねて、恋人となり、夫婦となった。

尊敬する人が、大切な人になり、大切な人が、守るべき人になり、愛する人になる。
そんな体験ができたのも、私とあなたが会えたから、だった。

それだから、昨日の結婚式も、ドタバタで落ち着かないのに、満ち足りていた式だった。
来賓の気のいい職場の方たちの愛ある悪ふざけを嗜め、友人のスピーチに涙し、そして何より、私たちのドタバタとした馴れ初めを笑い飛ばされながら、私たちは披露宴を終えた。

小さい頃、絵本や物語を読んで想像した結婚式とずいぶん違ったけど、満ち足りた良い式だった。
そして、私の“永遠”という幸せは、堅苦しさやドラマチックよりも、こんなコメディの中にあるのだ、とそう思った。

式の花束は、あなたが貰ってきた。
ブーケは、恋人ができたという友人に渡してきたから、式場の飾り付けなどに使われていたものだろう。
例によって、友人や同僚に散々揶揄われながら、ぶっきらぼうに、「記念だ。もってかえろう」と渡されたこの花束が、私は何よりも嬉しかった。

この花束が、なんだか私たちの“永遠”を証明してくれたような、そんな気がした。

だから、私は花束を長持ちさせるために、ドライフラワーにすることにしたのだ。
憧れには程遠いけど、満ち足りて幸せな、この気持ちの記念が欲しかった。

あなたもそう思ったからこそ、この花束を持ってきてくれたのだろうし。
あなたのそういう想いを、大切にしたかった。

ドライフラワーはいつまでもつだろう。
永遠の花束とはいかないかもしれない。
鮮やかではないかもしれない。
でも、鮮やかに美しくなくても、形が整っていなくても、私たちは幸せだ。

私たちはきっと、何十年も先の今日、色の抜けた、ドライフラワーの花束を見て、永遠だったと、笑い合うのだろう。
完璧じゃない私たちだけど、幸せだね、と。
ドキドキもロマンチックさもなかったけど、本当にいい式だったね、と。

そう振り返るためだけに、私は花束を再構成する。
永遠の花束にするために。

穏やかな時間が流れている。
窓から入ってきた風に揺られて、花たちが優しく揺れる。

未来が、永遠が、待ち遠しい。

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