桜を、「空知らぬ雪」と呼んだのは誰だったろうか。
今日も、どさどさと雪が降っている。
見た目だけはふわふわと楽しげな、真っ白な雪が、地面を埋めている。
冷え切った、雪かき用のスコップの柄を掴む。
きゅっ、と手袋が鳴る。
白い雪の中で、スコップの先のプラスチックの赤い色が、くっきりと目立っている。
私には探し物がある。
雪は冷たくて、寒くて、重い。
こんな雪の中での探し物には、手袋と雪かきスコップが欠かせないのだ。
桜の下には死体が埋まっているという。
雪の下にも死体は埋まっているのだろうか。
きっと埋まっているのだ。
どちらもハッとするほど美しいのだから。
君に出会ったのは、まだほんの小さい子どもだったころだった。
その日も、雪がどっさりと地面を覆って、まだ雪かきの苦労もスリップの恐ろしさも知らない私は、無邪気に、天から恵まれたこの白いおもちゃに、胸を弾ませていた。
君はそんな雪の中にいた。
白いもふもふの耳当て付きの帽子をかぶって、白いジャンパーを着込んだ君は、雪の中にすっかり溶け込んでいた。
それでも私が君を見つけられたのは、君が、閃くように真っ赤な、暖かそうなマフラーを着けていたからだった。
目が合うと、君は、寒さで赤い頰にえくぼを浮かべた。
その笑顔がとてもかわいく見えて、私は「一緒に遊ぼう」と手を引いたのだった。
それから、君と私は友達になった。
雨の日も晴れの日も、もちろん雪の日も。
私と君は、本当に気が合って、毎日遊んだ。
この地域の中でも一番の仲良し二人組だ、と町中が噂するくらい、私と君は仲良しだった。
関係が変わったのは、君が「きびき」で早退けしたあの日からだった。
あの日、先生に連れられて教室を出て行ってから、私は君になかなか会えなくなった。
君は学校を休みがちになった。
そして、会うたびに君は、なんだかやつれているように見えた。
赤くてまんまるなほっぺたも、ぴかぴかの笑顔も、どんどん目減りした。
いつも顔を上げて、雪になると決まってはしゃいで、子ども特有の無茶を考案するのはいつも君の方だったのに、あの日から、自信なさげに俯くことが増えた。
君の首にいつも巻かれるようになった赤いマフラーはいつのまにか、ボロボロにほつれていた。
それでも、君は、いつも私に向かってえくぼを浮かべてくれたから、私たちは仲良しで、親友だった。
私は知らなかった。
いや、知らないふりをしていた。
大人たちが、世間話でヒソヒソと君の名前を出すようになったこと。
君が学校に来た日には、疲れ切った顔の担任の先生が、保健室の先生と一緒に、帰ろうとしている君を呼び止めること。
君が、汚れた、袖の長い服ばかりを着るようになったこと。
君が「もう帰らなきゃ!」と言わなくなったこと。
君がいなくなったのも雪の日だった。
その日は休みの日で、君と私は久しぶりに一日中遊ぶ予定だった。
君はいつまで待っても、待ち合わせの公園に来なかった。
君の家に行こうと思っても、早退けしたあの後に君は引っ越していて、私は新しい家の場所は教えてもらえていなかった。
その日の暮、私は君が行方不明になったことを知った。
君を、君の両親の代わりに育てていた親戚が、警察と児童相談所の職員に連行されたことを、知った。
私はまだ知らない。
君が家でどんな顔をしていたか。
君のあの時の暮らしはどんなものだったのか。
君はどういう思いで、私に笑いかけてくれたのか。
私はまだ知らない。
君が来なかったあの日、君に何があったのか。
あの日、君はどんな顔をしていたのか。
私は知らない。
雪がどっさり降った日は、私は雪かきスコップを担いで家を出る。
君を探すために。
まだ知らぬ君を探すために。
君といた頃には、私が知れなかった、まだ知らぬ君の顔を見るために。
雪の日に出るのは、君の赤いマフラーが雪にくっきり目立つから。
君のお気に入りだったあのマフラーは、もう色褪せ始めていたから、きっと雪の中で唯一、目立つだろう。
空知らぬ雪の、桜の下には死体が埋まっているという。
だから、きっと雪の下にも死体が埋まっている。
私は、今日も、まだ知らぬ、まだ記憶の中に取り残された君を、探す。
「知ってるか?マンリョウってのは日陰でも育つらしい」
喫煙所でスマホをいじりながら、先輩が言った。
「いや、世の中ってのは、意外に上手いこと言うよなあ」
そう言いながら彼の手は、紙タバコに火をつける。
白いタバコの先から、灰色の煙が立ち上る。
「そうですね」
とりあえずの相槌をうちながら、電気タバコを口に咥える。
喫煙所、喫煙場所の減少と制限、それから年々の価格の高騰で、紙タバコはすっかり貴族の娯楽と化している。
タバコ休憩に出て、紙タバコを喫煙所でゆっくり吸うなんて、今のご時世では、金と暮らしに余裕のある者しかできない。
「いや、ヤベー世の中だよなあ。日陰で自分を痛めつけんのさえ、金がいる時代だぜ?日向の奴らは、何を楽しくて生きてんだろぉな」
電子タバコのこちらを気遣ってか、彼はゆっくり煙と共にそんな言葉を吐き出した。
「まあ、日向にはいろいろあるみたいですよ、娯楽は」
こちらの世界に落ち着いてからもう久しいので、詳しい事は言えない。
だから、私も電子タバコの煙と一緒に、軽く返す。
甘い煙の味が口の中に満ちる。
しばらく沈黙が続く。
お互いタバコ休憩のつもりだったのだから、当たり前だ。話すことがなければ、静かにタバコを味わうのみ。
この、粗暴な仕草で紙タバコを味わう仕事の先輩をぼんやり眺めながら、私もゆっくりと煙を吸い込んだ。
彼は、紙タバコを咥えつつ目を落とし、スマホをしきりにいじっている。
「…お?なあ、奴等、タバコ飲まねえくせに、タバコの銘柄に関しては詳しいらしいぞ」
そう言って、彼が見せたスマホの画面には、タバコの銘柄とそのイメージや吸っている人の傾向について、好き勝手まとめてある投稿やサイトが映し出されていた。
「呑気なもんだよなあ。今、日向の世界でタバコなんて人前じゃ、まともに吸えねえだろって。何がこの銘柄、推しに似合うだよ。よくわかんねえけど、日向の人間は今じゃ、紙タバコなんて吸わねえだろうよ、なあ」
「そうですね、吸えないでしょうね。健全なタバコ専門店なんてもう一軒も見当たりませんし」
思ったことをそのまま言って、それから、ふと気になったことを口に出してみる。
「ところで、先輩がライトヴェブ見るの珍しいですね。なんかありましたか?」
「別になんもねえ。ダークヴェブ、飽きんだよ。いつものアカウントで見てると仕事連絡うるせえし」
「なるほど……って、仕事の連絡はちゃんと目を通しといてくださいよ」
「ダルい。どうせお前、チェックしてんだろ」
「…チェックしてますけども。宛先確認もありますし、注意事項だってあるんですから、一応、読んでもらわないと」
私が期待と非難の意を込めて言い返す。
私たちの仕事。それは、日陰…すなわち、違法行為の蔓延る裏社会…そこでの清掃員だ。
依頼を受けたら死体や証拠もろとも、ピカピカに清掃するのが、私たちの仕事だ。
どんな血まみれの惨状だって、丁寧にピカピカに磨き上げる。
証拠品や家具の回収なんてオプションだってある。
この稼業はなかなかリスクがあるが、なかなか、かなり儲かる。
日向…一般社会…では、日の目を見られないような、親に捨てられた中卒の先輩が、今こうして紙タバコを吸えているのも、この仕事のおかげであった。
だが、仕事に失敗すれば、命に関わることもある仕事。
だからこそ、事前に依頼を知ることやスケジュールを管理することは大切なはずだが…
しかし、先輩はむしろ得意そうに笑って煙を吐いた。
「だってよぉ。…ほら、今日のこれからの予定は?」
つい、反射で真面目に答えてしまう。
「dirty dogのボスからの依頼説明が、19:00からあります。前金受取を忘れずに…ですね」
しまったと思ったがもう遅い。
先輩はニヤニヤと笑みを浮かべながら、肩をすくめる。
「ほらな。俺がわざわざ記憶しとく必要はない」
ため息が漏れた。
ため息にすら、電子タバコの甘い味と匂いが混ざる。
「さ、じゃあ、行くか。dirty dogに」
タバコの火を灰皿で揉み消しながら、先輩が言う。
もうタバコ休憩は終わりのようだ。
「行きますか」
私も電子タバコをしまい込む。
一瞬でタバコをしまい終えた私を見つめて、先輩はポツリと、ニヤニヤと言う。
「お前さあ、そろそろ紙タバコにしろよ。箔がつくぞ」
「ふふ。…生憎、ずっとこれなので」
私は電子タバコを振ってみせる。
「私が生まれた時代は、まだ日向じゃ、電子タバコの規制が緩かったんです」
先輩がわざとらしく顔を顰めて、おどける。
「やれ、大卒は育ちが宜しくて困るねえ」
「はいはい、クライアント対応はこちらでやるんで、他は頼みますよ」
「へいへい」
二人で歩き出す。
日陰へと、闇へと、私たちの居場所へと。
日陰ではステータスであるニコチンの香りが、ほのかに香った。
荘厳の分厚い扉の前で、帽子をかぶった。
この先の部屋に、帽子をかぶったまま入室する事は、一度もなかった。
今までは。ずっと。
この先の部屋の最奥には、王座が堂々と座っている。
この広間には、いつも皇帝がいらっしゃる。
まだ王太子であられた皇帝に近侍として拾われてから、もう20年間も通った、おなじみの部屋。
私は、近侍から、頭の回転と武力を認められて武官となって、正装に帽子を頂いてからも、皇帝がいらっしゃる時は、帽子をかぶる事はしなかった。
名君で、私たちを惜しみなく労わってくださる皇帝には、どんな小さな敬意でも、払いすぎるということはなかったからだ。
この部屋での着帽は許されていたが、現皇帝の前で、そんなことをする者はほとんどいなかった。
みな、皇帝を心の底から敬い、好いていた。
皇帝は、臣民にも臣下にも、深い愛を持っておられた。
皇帝は、稀代の名君であられた。
7つの地域を平らげ、8つの小国を守り、12の山賊の拠点を落とされた。
臣下の言うことに耳を傾けるのはもちろん、どんな卑しい身分の臣民の言うことにも耳を貸し、信頼のおけると思った時には、敵の捕虜の言うことでさえ、取り入れた。
自分の至らなさを知り、他人をよく知る心構えを持っていた皇帝は、我々にとって、まさに理想の君主でおられた。
その皇帝のお気が乱れ始めたのは、3ヶ月前のことだった。
ある日、皇帝と長年連れ添った愛馬が死んだ。
ある人間の、卑劣な裏切りによって、病気となったのだ。
さらに、愛馬が亡くなったしばらく後に、今度は、皇子殿も亡くなられた。
皇帝の長子であり、愛らしい少年であった皇子様も、先日に亡くなった愛馬と同じように、同じ病で亡くなられた。
それから、皇帝は理に叶わぬことばかりやるようになった。
勝ち目のない戦争を始めようとしたり、真面目な臣民を処刑しようとしたり、寝台や王座で刀を抜き放ち、いきなり人や物を斬りつけたり。
最初は、お気を乱された皇帝を宥めすかし、手を焼きながら、我々は、「ああ、この方もやはり人間であったのだ」と安心さえ覚えたものだった。
いつか立ち直るまで、ご一緒しよう。
そう心から思った。
しかし、皇帝のご乱心は酷くなるばかりだった。
ある日、皇帝はとうとう、暴君となられた。
その日、皇帝は、王宮の官僚になろうと試験にやってきた、純朴で賢い子どもを、死刑にしようと言い始めた。
その時、その場に立ち会った近侍は、皇帝をなんとか諌めようと子の前に立ちはだかった。
皇帝なら、ここで臣下の話を聞こうとしたはずであった。
しかし、あの日の皇帝は止まらなかった。
ご乱心を諌めようとした忠臣を、その子諸共酷い処刑にかけ、私たちに宣言した。
「これから朕に楯突こうとするものは、もはや皆こうなると思え」
私たちは沈黙するしかなかった。
もはや人が変わったように思えた。
その時、無力感に俯いた私の脳裏に閃いたのは、皇帝にかけられた言葉であった。
皇帝がまだ名君であられた時に、臣下に口癖のようにしみじみと言われていた、いつもの言葉であった。
「朕がもし間違ったことをしようとしたら、皆必ず止めてくれ。遠慮なく、朕に意見するのだ。…そして、それでも止まらなくなり、朕が暴君となった時には、お前たちが朕を殺してくれ。朕は、この国を貪りたくはない。この国の民たちを苦しめたくはない。そうでなくとも、皇帝というものはもともと国益に寄与すべきなのだ。国を思いやれぬ皇帝など皇帝ではない。…朕を殺したとしても、暴君から国を救った者になら、臣民たちも、惑うことなく、素直に従うだろうて…。…だから、その時は頼むぞ。お前たち」
稀代の名君であられた皇帝のあの、愛の深い、しみじみとした語り口を、私は思い出したのだった。
だから、私たちは帽子をかぶって、ここまで来た。
武官の帽子をかぶって、廊下を歩くのはこれが初めてであった。
帽子をかぶり直す。
扉の向こうには、今も皇帝がおられるはずだ。
私たちの愛すべき、愛しく賢明な皇帝が。
私たちは帽子をかぶって、扉を押し開けた。
錦の絨毯が、きゅっと音を立てた。
小学校と、家から歩いていける、自宅から半径500メートルが世界の全てだった頃の話だ。
大人の言うことをよく聞き、友達もたくさんいて、でもごくごく普通のよく居る影の薄い小学生だった私が、あんなにも先生の耳目を集めたことは、夏休みの宿題の自由作文に、この作文を提出したあの時が、最初で最後だった。
小さな勇気
お父さん、お母さんはぜったいで、二ばん目にえらいのは、ぼくたちの中で一ばん大きいあの子。
ランドセルをげんかんにほうって、自てん車のカギをつかんだ。
今日も、クラスのみんなは、あの子にさそわれたから、当たり前に、公えんにいく。
みんなであそぶから。
公えんについたら、いろんなおもちゃがある。
学校よりも、家のへやよりも、ずっとらくにあそべる。
ぼくたちは、公えんにいったら、虫さんをつかまえる。
一ばん、かっこよくて、たのしいおもちゃだから。
つかまえた虫さんたちをたたかわせたり、バッタさんやちょうちょさんの足や羽をちぎったり、できかけのアリさんのすをつま先でうめたり。
つかまえた虫さんがいなくなったら、ヒーローごっこをする。
みんなで足のふみあいっこをして、一ばんよわい子をわるものにする。(だって、正ぎのヒーローはいつもかつからね。強い子がならなきゃ、お話どおりにならない)
元気のない友だちや、おとなしい女の子がとおりかかったら、みんなでからかう。
わるいとか、すきとか、きらいとか、大人たちはいつもそんなことをいうけど、ぼくたちには分からない。
ぼくたちの中では、それが当たり前で、いつものあそびだから、そうする。
だから、今日も、そうやってあそぶつもりだった。
みんなと、虫さんとあそぶんだって思った。
公園についた。
もう、なん人かの友だちは来ていて、みんな、虫さんとあそんでいた。
それはカマキリさんだった。
カマキリさんの羽はむしられていて、カマキリさんは、青みどりのかまを、うんどうかいでおどるみたいに、むちゃむちゃにうごかしていた。
みんながわらってみてた。
そのとき、ぼくは、カマキリさんと目が合った。
きゅうに、カマキリさんがかわいそうに思えた。
カマキリさんは、くるしそうに、なにもない空気をひっかいていた。
むちゃむちゃだった。
かなしそうだった。
ぼくは、つばをのみこんだ。
止めなきゃって思った。
やめて!って思った。
でも、ぼくのこえは出なかった。
だって、みんなはたのしそうだったから。
そのとき、ぼくのあたまの中で、きゅうに、道とくの時間のはなしがうかんだ。
「小さな勇気がだいじ」って、先生がいってたこと。
ぼくは、かすれた、ふるえるこえでいった。
「やめようよ。ぼくはもうやらない」
みんなはつまらなそうに、ふふくそうに、カマキリさんをにがした。
きっと、これからぼくはみんなとあそべなくなるだろう。
みんなは、まだ、カマキリさんとあそぶのがたのしそうだったから。
ぼくは、みんなとちがってしまったから。
これから、みんなは、ぼくをちょっときらいになる。
だって、ぼくたちは、そういうものだから。
でも、大人はきっとそれに気づかない。
大人はみんな、小さいころにしたいいことは、ぜんぶおぼえているのに、小さいころにしたわるいことは、みんなわすれてしまっているから。
だから、大人はみんな、赤ちゃんも、ぼくたち子どもも、かわいいっていう。
ぼくたちが虫さんとあそんでいることには、気づかない。
だから、ぼくは、ちょっとこうかいした。
でも、なんか、カマキリさんがさっていくのがうれしいのが、大人になった気分だった。
先生が読んでくれた道とくのきょうかしょの、カエルをいじめたくないのにけったあの主人公の気もちが、はじめてわかった気がした。
こんな作文を読んで、さぞ当時の担任の先生は、困惑したことだろうと思う。
あの時振り絞った“小さな勇気”は今も覚えている。
そして、その小さな勇気の果ての顛末さえも、大筋は覚えている。
あの作文を提出した次の日、昆虫採集の遊びは禁止になり、道徳の時間が増えた。
その対応は、当時の私にとっては随分と意外で、見当外れに思えたことを記憶している。
大人は、小学生の私の予想よりはずっと子どもを気にかけていて、行動的で、でも結局、当時の私が予想した通りに、子どものことを覚えていなかったのだ。
だから、私は、自分が大人になった今も、こういう自論を持ち続けている。
「大人は、自分が子どもの頃にした良い事は、はっきりと覚えているが、自分が子どもの頃にした悪い事、犯した罪は、すっかり忘れてしまうのだ」と。
濃霧の中に、青い影が見える。
高く、大きく聳え立っている。
唾を飲み込み、踏み出す。
一歩一歩、湿った白い水蒸気の中を進む。
青い影が、ゆっくりと輪郭を定め、近づいてくる。
やがて、影ははっきりと形を保つ。
白い霧の中に、青銅の色をした石畳の塔が、細く高く、ぽつりと独立している。
「わぁ…!」
思わず感嘆の声が漏れた。
塔は、静まり返った白銀の霧の中に、冴え冴えと鈍重の色を湛え、静かに佇んでいる。
荘厳に。ぴくりとも動かずに。
温かみも生命の動きも音もなく、死のようにただひっそりと、不気味に塔は聳えている。
塔をゆっくりと見上げる。
濃い霧と荘厳な空気が、重たく頭上に立ち込めていた。
その重さを押し上げるように、ゆっくりと顔を上げる。
青い塔が、高く、高く続いている。
塔の遥か上の方には、青金色の重たそうな鐘が鈍く輝いている。
恐ろしいほどの静寂の濃霧の中に、恐ろしいほど脆弱で美しい塔が聳えている。
ここだ。
目指していたのはまさにこの地だった。
そう確信した。
出し抜けに、鐘がゆっくりと空気を震わせる。
ごぉん、ごぉん
低い音が、霧を掻き分けるように、響き渡る。
白い霧が一層深さを増して、冷たい空気が、ゆっくりと広がる。
「…わぁ!」
身震いするような冷たく重苦しい霧たちに、嘆息のような声が出た。
神々しさと荘厳さに、足がすくみ、かちりかちりと歯が鳴る。
とうとう辿り着いたのだ。
畏れと共に込み上げたのは、そんな達成感と、ワクワクした得体の知れない喜びだった。
私は、神を探していた。
自分をこの絶望から救ってくれるなら、なんでも良かった。
誰も守れない、大切な人も仲間もだれ一人守れなかった、この不甲斐ない自分の実力不足を忘れさせてくれるのなら。
たとえそれが怪物でも、悪魔でも、魔物でも、人間の子悪党だったとしても。
忘却の塔。
その塔の話を耳にしたのは、今から三年も前のことだった。
人生の恐るべき転換期、信じられないほどの大事件に巻き込まれて、そして、その作戦に完膚なきまでに大失敗して、庇われて、独、生きながらえてしまった命を持て余していたあの時に、私はこの塔の噂を聞いた。
曰く、「濃霧の深い森の最奥にある、“忘却の塔”は、入ったら最期、絶望も希望も過去も名前も、何もかも記憶から消されてしまう」そういう話だった。
その噂を聞いてから、私は件の“忘却の塔”をずっと探し求めていた。
存在ごと消えてしまいたかった。
私は逝きそびれた。
そして、私は仲間の元にいく資格なんてない。
忘却の塔が見つかれば、すぐにでも頂上に登り詰めて、存在ごとなくなってしまいたかった。
何者でもないただの人間になりたかった。
だから、私はここに来た。
目の前の景色は、陰気で荘厳で、無機質で、美しかった。
鐘の音も。壁の色も。濃い霧も。
心に不安と畏れと、それから妙な希望が胸に迫ってくる。
「わぁ!」
思わず、声が漏れる。
それだけに、小さい時に拾い集めた宝物のように、美しく見えた。
ずっと眺めていたいくらいだった。
触れてはいけない気さえした。
しかし、私は、消えてしまいたい。
その気持ちは、今も私の理性を支配していた。
だから、私は一歩踏み出した。
陰気で、畏ろしいその塔に。
本能は、強く後ろ髪を引いた。
感動は、強く袖を引いた。
感情は、強く足を止めた。
しかし、私の理性は、それらを許容することはできなかった。
私は足を引き摺り、体を引きずって、歩き始めた。
霧はみるみる深くなり、進むたびに、辺りの空気は冷え始めた。
でも、自分と記憶以外の全てを失った私の足は止められなかった。
冷たくなった白い霧の中で、白い息を吐いた。
「わぁ!わぁ…」
白い息はまだ感嘆を含んでいた。
子どものような無邪気な憧憬と畏れを含んでいた。
しかし、灰色の大人の私は、足を止めなかった。
私は一歩、一歩、足早に進む。
霧はどんどん濃くなる。
青い塔の輪郭も、自分の輪郭さえも曖昧になる。
「わぁ!」
口から息が漏れる。
寒さが身に染みる。
死の、消去の冷たい気配がじわじわと迫ってくる。
青い塔の、頑丈な青銅の扉が、ゆっくり、ゆっくりと近づく。
白い霧が、また増した。