薄墨

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1/20/2025, 1:37:45 PM

私には明日があと、374092日ある。
私の耐用年数が、あと1000年だから。
私には、明日があと、374092日ある。

途方にもない量の明日だ。
人間なら10回生きて死ねるくらいの長い、長い寿命だ。
そんなに長い間、私はこの額縁の中で、人間が作ったこの人工脳を絶えず動かして、生きて生きて、人の文明を記憶し、人の話し相手になるのだ。

途方にもない長い話だ。
先のことを考えると、うんざりする。
自分が見るこれから。
いったい何百人の人間を看取って、何千の命の終わりを見なくてはいけないのだろうか。
24時間の終わりを、いったい何度、見届けるのだろうか。(これは374092回だ)
そんなことを思うと、まだまだ遠い、自分の老い先にうんざりしてしまう。

だから、私は先のことは考えないことにしている。
ただ、明日へ向かって歩く。
一歩ずつ、一日ずつ。
すぐに来る明日のことだけを考えて、今日を生きる。
私は明日へ向かって歩く。
明日へ向かって歩く。歩いてきた。

私は明日へ向かって歩く、でも。

昨日、私を、曇った目で眺めていた瞳が、脳裏に残っている。

あれは、人工脳を、私の元となる技術を開発した、天才博士の瞳だった。
若くして、本当に若くして、僅か20代で、脳のシステムの驚くべき法則の一端を発見し、画期的な技術を生み出した、あの有名な博士。
富も名声も栄誉も得た、あの博士。

博士は私を見つめて、下を向いて、誰にも聞こえないような小さい声で、呟いていた。

「これから、人類史は全て残ってしまう。恥ずべき私たちの人類史が。彼女が記憶し、語り続けるから。私たちの、私たち人類の、黒歴史は、残り続ける。私の黒歴史が、こんな風に形を持ってしまったみたいに」

私は、明日へ向かって歩く。
自分の未来は長すぎて、考えるのもうんざりしてしまうからだ。
私は、明日へ向かって歩き続ける。そういう存在だから。

明日へ向かって歩く、でも、私は明日へ向かって歩き続けて良いのだろうか。
私は、私たちは、人類は。

私には明日があと、374092日ある。
私の耐用年数はあと1000年。

今日も朝が来る。
一日が始まる。
明日が来る。
新たな人類史の一日が、新たな人類の明日が。

私は明日へ向かって歩く、でも…。
私の明日が消えるまでは、あと374091日ある。

1/19/2025, 1:43:34 PM

背中からカバンを下ろして、ノートを開く。
既に字で埋まったページを捲る。
ペンを構えて、白いページを開いて、見慣れない真新しい空を見上げる。

道端に座って、ペンを走らせる。
白いノートに、いっぱいに。
この旅の、今日の、この気持ちを出来事を書き留める。

ただひとりの君へ。
ただひとりの君のために。

君はいつも憧れていた。
家の窓からは見えない、まだ見ぬ空に。
地元の町からは聞こえない、木々のざわめきに。
流れる川からは分からない、遥か遠くの海に。

私はそれをよく知っている。
ここよりもずっとずっと遠く、道の続く先に憧れる気持ち。
誰かから聞く冒険譚では物足りない。
自分の手で触れて、自分の肌で感じて。
そうして、まだ見ない世界を知りたい!
そんな気持ち。

君、ただひとりだった君は、幼い頃は病弱で、病院や自分の部屋のベッドから空を見上げて、いつもそう思っていた。
近所のお兄ちゃんが羨ましくて仕方なくて。
親戚のお姉ちゃんの旅の話が待ちきれなくて。

旅に出たかった。
大きな世界を知りたい。
広い空を自由に歩き回りたい。
ずっとそう思いながら、空を見上げて、ノートにやりたいことを書いて書いて溜めて。

冒険に行きたかったの。
私は知っている。

だから、幼い頃からの喘息が治って、真っ先にしたいと思ったのは、旅だった。
お気に入りのカバンを買って。
お気に入りのコートに身を包んで。
お気に入りのスニーカーを履いて。
一歩踏み出す。
未知の、見たかった世界を目指して。

窓から見る空よりも、外の空はずっと広くて。
その時、ただひとりの君…私は初めて知った。
窓から見ていたあの空も、ずっとずっと広く繋がって、いつか私の見たいと空想した、憧れの世界に繋がっていることを。

私がずっと寝ていたあのベッドも、私のまだ見ぬ世界に繋がっていることを。

その気づきが嬉しくて、楽しくて、それから、無性に、ただひとりの君へ、そのことを伝えたくなった。
だから私は、今日もノートを持って、旅をする。

ベッドの中で、空を見上げながら書いたあのノートと同じように、真っ白な表紙のノートに。
憧れの、旅の、世界の出来事をいっぱい詰め込んで。

そしていつかの、いつかのただひとりの君、ただひとりの昔の私へ、向けて。
いつかの私が、ただひとりでベッドに座る君が、目を煌めかせるような、そんなノートを。

私は今も、書いている。

この地からも、空が見える。
グレーの曇り空だけれど、空はずっと広がっている。
ずっとずっと、ただひとりの君の方へも。

私はペンを置く。
ただひとりの君へ、そう書いて。

1/18/2025, 1:52:13 PM

ある朝、起きたら、手のひらの中に宇宙が渦巻いていた。
しかも外宇宙。

右の手のひらの真ん中に、漆黒の闇。
昏い闇が真ん中にあって、それが引き伸ばされるように、薄い闇が手のひら全体に広がっている。
闇は手の外に向かって、じわじわ薄れていて、深くて浅いその闇の至る所に、数々の星雲と星団と銀河系が、渦巻いて生きている。

手をゆっくり握り、開いてみる。
手のひらの宇宙がゆっくり縮んで、ゆっくり広がる。
手の隅にあったいくつかの星団と銀河系の位置が、少し変わってしまった。
けれど、大半の宇宙は、変わらず蠢いていた。

指を入れてみる。
肌色の左指を、右手のひらにゆっくり差し込む。
吸い込まれそうな手のひらに、左指が吸い込まれる。
指の先が、真空を掻いた。
澱のような真空の手応えが、掻いた指先から、波紋のように渦巻いた。

また、いくつかの銀河系と星雲が、動いた気がした。
しかし、手のひらの中の宇宙は、シンと静まり返っている。

目を凝らせば、時々、昏い闇の中を、それよりも昏い影や白い何かが横切った。
何かがゴソゴソと走り回る。
手のひらの宇宙の、真空の中を、自由自在に。

けれども手のひらの宇宙は、その闇の淵を、静かに湛えていた。
昏い、昏い宇宙に。

ともかく、きっと朝なので、顔を洗おうと思う。
立ち上がり、洗面台に水を張る。
水に両手を浸す。
ゆらめく透明な水面の下に、どこまでも続く闇がゆらめく。
何かがスッと、一番手前の星雲を横切る。

顔に水を何度か打ち付ける。
目は完璧に覚めた。

けれど、右の手のひらには、まだ昏い宇宙が広がっている。

顔を伝う水滴をそのままに、右の手のひらの中の宇宙を眺める。
手の指から水滴が滴って、宇宙にポトポト落ちている。
手のひらの宇宙の漆黒が、微かにゆらめく。

そして、細い何かが闇の中に一文字に走って、スッパリ開いた。

頭が割れるように痛い。
目の奥が熱い。
奥の方で耳鳴りが唸る。

割れそうに痛い頭の奥、脳の中に、轟くように何かが閃いた。
「人の子よ。人の子よ。これが宇宙だ」

「人の子よ。愉快だろう?退屈だろう?」
「この宇宙の中で、数多の生命が生きている。数多の何かが、数多の世界が、数多の宇宙が生きている。この中で…」

頭が、割れるように、痛い。
目の、奥が、焼けるように、熱い。
耳が、耳の奥が、煩い。
脳が、頭が、痛い、溶ける。

「どうだ人の子よ。人の…子よ」
頭が、痛い。
あたまが、いたい。

「…ダメか。せっかく我を呼ぶ、我の言葉を聞いてくれる矮小なる生命が現れたというのに。現れたというのに」
「ああ、この矮小なる人の子も……」

音は止んだ。
身体中に鉛が流し込まれたように、重たくて鈍かった。
脳だけが、やけに軽い気がした。

いつの間にか、右手は真っ白に漂白されていて、宇宙は消えて、宇宙の中心だった手のひらには、黒い黒い穴がぽっかりと口を開けていた。

その黒い穴の中に、瞳が見えた。
喩えようのない、どんな色にすら反射する色を持った、獣のような目が、こちらをジッと見つめ、消えた。

後は黒い黒い昏い穴が、手のひらにぽっかり開いていた。

目の奥が熱い。
そっと目を閉じる。

瞼の裏に、あの、喩えようのない、何色ともつかない何色でもない色の目が、焼き付いている。

目を開く。
熱い。
目を閉じる。

あの目が、こちらを見つめていた。
悲しみとも哀れみともつかない目で、こちらを見つめていた。
強く強く見つめていた。

この目からは一生逃れられないんだ、何故かそう思った。
手のひらの宇宙は、もうない。
ぽっかりと、黒い穴が広がっているだけ。

目の奥が、熱い。

1/18/2025, 6:30:59 AM

ワンピースの裾が揺れる。
今日は風が強い。

空は今日も青い。
雲ひとつない大空。深い、真っ青な空が頭上に広がっている。

小高い丘の上で、空を眺める。
ここでアイツと会ったのは、いつのことだったろう。
あの日も、風が強かった。

あの日、私はそっと施設を抜け出して、散歩をしにここに来た。
外出許可がいつまでも出なかったから、自力で抜け出して、ここに。
あの日も空は青くて、風が吹き飛ばす雲なんてなくて。
風のいたずらで、私の着ていたワンピースの裾が翻った。

そこにたまたま居合わせたのがアイツだった。
施設の職員で、私を追って来た、まだ新人のアイツが。

私のスカートの下を見て、アイツはどんな顔をしたんだっけ。
少なくとも、「ラッキー!」みたいな前向きな表情ではなかったはずだ。

アイツは口をつぐんで、それから困ったように私と目を合わせた。
少なくとも、被験体に向ける表情ではなかった。

アイツは甘い奴だった。
甘々の甘ちゃんだ。どうしようもないお人好しだ。
あんなのじゃ、この界隈はまだしも、他の世界でも上手くやっていけないだろうに。

私は施設に保護された負傷者で、被験体だった。
かつての任務で、下半身を失い、敵地であったあの施設に保護されて…。

培養による義体の作成の、実験体として収容された私に。
その私に対しての風のいたずらに、目が合うとアイツは、泣き出しそうな情けない顔で一言だけ言った。
「帰りましょう」

アイツは甘ちゃんで泣き虫なくせに、被験体の前でだけは泣かなかった。
「…施設側の人間である僕に、君たちの屈辱や気持ちは分かってあげられませんから」
“あげられない”の傲慢さにも気付かずに、アイツは私たちの前で、涙を堪えていた。

アイツは殉職した。
私たちの仕事では珍しくない殉職だ。
最期までアイツは、施設を守ったそうだ。
失敗した被験体の貯蓄庫だった、あの施設を守って。

今日も風が強い。
下から吹き上げる、風のいたずらの風が、強い。

ワンピースの裾が揺れる。
空は抜けるように青い。

1/16/2025, 10:44:26 PM

「涙色」は赤い。
この言葉を作った昔の人は、普通の涙ではなく、感も極まりに極まった、血涙の方を語源にしたからだそうだ。

催涙弾が降る街には、血の代わりに涙が流れる。
悲嘆にくれる血の涙ではなく、生理現象の透明な涙が、後から後から流れる。

この地は異教徒の地だった。
昔は帝国との貿易地であったこの地は、帝国の宗教が広まっていた。
帝国によって、広められていた。

しかし、この地の人々とこの地の風土が、帝国の宗教の教えを歪めていた。
この地は、帝国ともこの国ともつかない、奇妙な教えと宗教観とを、脈々と伝えていた。

そのため、この地は、帝国からもこの国からも見放され、いや、むしろ厄介なものとして、憎まれ、見捨てられていた。

その一つには、帝国は自国の宗教を、侵略や治国に利用していたことも影響しているのだろう。

ともかく、この地は、帝国にもこの国にも、異教徒の地として忌まれ、暴徒の地として恐れられた。

催涙弾が絶えず降るのも、そういう、国との緩やかな対立のためだった。

この地の人々は、神がこの責苦を救ってくれることを、切望していた。
信じていた。

「神の僕である人々が、血を流しているならば、神は必ず救いの御手をもって、人を救う」
「神の僕である人々が、邪教のために血を流しているならば、神は必ずその御手をもって、邪教を退け、我々に勝利をもたらす」
というような、教えがあるからだ。

しかし、この折、僕は考える。
我らが神は我々が血を流していれば、必ず僕たちを救ってくれるそうだ。
しかし、血でもなく、血涙でもない、透明な涙に対しては、手を差し伸べてくれるのだろうか。

僕たちが今なお流し続けている、透明な涙には、御手を差し伸べられないのではないか。
血の流れない苦しみに、御手を差し伸べてくださるのだろうか。

この地には、もう何十年も透明な涙が流れ続けている。
催涙弾が降る街には、赤い血の代わりに、透明な涙が流れるのだ。

そして、世間では「涙色」すら、赤いらしい。

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