ある朝、起きたら、手のひらの中に宇宙が渦巻いていた。
しかも外宇宙。
右の手のひらの真ん中に、漆黒の闇。
昏い闇が真ん中にあって、それが引き伸ばされるように、薄い闇が手のひら全体に広がっている。
闇は手の外に向かって、じわじわ薄れていて、深くて浅いその闇の至る所に、数々の星雲と星団と銀河系が、渦巻いて生きている。
手をゆっくり握り、開いてみる。
手のひらの宇宙がゆっくり縮んで、ゆっくり広がる。
手の隅にあったいくつかの星団と銀河系の位置が、少し変わってしまった。
けれど、大半の宇宙は、変わらず蠢いていた。
指を入れてみる。
肌色の左指を、右手のひらにゆっくり差し込む。
吸い込まれそうな手のひらに、左指が吸い込まれる。
指の先が、真空を掻いた。
澱のような真空の手応えが、掻いた指先から、波紋のように渦巻いた。
また、いくつかの銀河系と星雲が、動いた気がした。
しかし、手のひらの中の宇宙は、シンと静まり返っている。
目を凝らせば、時々、昏い闇の中を、それよりも昏い影や白い何かが横切った。
何かがゴソゴソと走り回る。
手のひらの宇宙の、真空の中を、自由自在に。
けれども手のひらの宇宙は、その闇の淵を、静かに湛えていた。
昏い、昏い宇宙に。
ともかく、きっと朝なので、顔を洗おうと思う。
立ち上がり、洗面台に水を張る。
水に両手を浸す。
ゆらめく透明な水面の下に、どこまでも続く闇がゆらめく。
何かがスッと、一番手前の星雲を横切る。
顔に水を何度か打ち付ける。
目は完璧に覚めた。
けれど、右の手のひらには、まだ昏い宇宙が広がっている。
顔を伝う水滴をそのままに、右の手のひらの中の宇宙を眺める。
手の指から水滴が滴って、宇宙にポトポト落ちている。
手のひらの宇宙の漆黒が、微かにゆらめく。
そして、細い何かが闇の中に一文字に走って、スッパリ開いた。
頭が割れるように痛い。
目の奥が熱い。
奥の方で耳鳴りが唸る。
割れそうに痛い頭の奥、脳の中に、轟くように何かが閃いた。
「人の子よ。人の子よ。これが宇宙だ」
「人の子よ。愉快だろう?退屈だろう?」
「この宇宙の中で、数多の生命が生きている。数多の何かが、数多の世界が、数多の宇宙が生きている。この中で…」
頭が、割れるように、痛い。
目の、奥が、焼けるように、熱い。
耳が、耳の奥が、煩い。
脳が、頭が、痛い、溶ける。
「どうだ人の子よ。人の…子よ」
頭が、痛い。
あたまが、いたい。
「…ダメか。せっかく我を呼ぶ、我の言葉を聞いてくれる矮小なる生命が現れたというのに。現れたというのに」
「ああ、この矮小なる人の子も……」
音は止んだ。
身体中に鉛が流し込まれたように、重たくて鈍かった。
脳だけが、やけに軽い気がした。
いつの間にか、右手は真っ白に漂白されていて、宇宙は消えて、宇宙の中心だった手のひらには、黒い黒い穴がぽっかりと口を開けていた。
その黒い穴の中に、瞳が見えた。
喩えようのない、どんな色にすら反射する色を持った、獣のような目が、こちらをジッと見つめ、消えた。
後は黒い黒い昏い穴が、手のひらにぽっかり開いていた。
目の奥が熱い。
そっと目を閉じる。
瞼の裏に、あの、喩えようのない、何色ともつかない何色でもない色の目が、焼き付いている。
目を開く。
熱い。
目を閉じる。
あの目が、こちらを見つめていた。
悲しみとも哀れみともつかない目で、こちらを見つめていた。
強く強く見つめていた。
この目からは一生逃れられないんだ、何故かそう思った。
手のひらの宇宙は、もうない。
ぽっかりと、黒い穴が広がっているだけ。
目の奥が、熱い。
ワンピースの裾が揺れる。
今日は風が強い。
空は今日も青い。
雲ひとつない大空。深い、真っ青な空が頭上に広がっている。
小高い丘の上で、空を眺める。
ここでアイツと会ったのは、いつのことだったろう。
あの日も、風が強かった。
あの日、私はそっと施設を抜け出して、散歩をしにここに来た。
外出許可がいつまでも出なかったから、自力で抜け出して、ここに。
あの日も空は青くて、風が吹き飛ばす雲なんてなくて。
風のいたずらで、私の着ていたワンピースの裾が翻った。
そこにたまたま居合わせたのがアイツだった。
施設の職員で、私を追って来た、まだ新人のアイツが。
私のスカートの下を見て、アイツはどんな顔をしたんだっけ。
少なくとも、「ラッキー!」みたいな前向きな表情ではなかったはずだ。
アイツは口をつぐんで、それから困ったように私と目を合わせた。
少なくとも、被験体に向ける表情ではなかった。
アイツは甘い奴だった。
甘々の甘ちゃんだ。どうしようもないお人好しだ。
あんなのじゃ、この界隈はまだしも、他の世界でも上手くやっていけないだろうに。
私は施設に保護された負傷者で、被験体だった。
かつての任務で、下半身を失い、敵地であったあの施設に保護されて…。
培養による義体の作成の、実験体として収容された私に。
その私に対しての風のいたずらに、目が合うとアイツは、泣き出しそうな情けない顔で一言だけ言った。
「帰りましょう」
アイツは甘ちゃんで泣き虫なくせに、被験体の前でだけは泣かなかった。
「…施設側の人間である僕に、君たちの屈辱や気持ちは分かってあげられませんから」
“あげられない”の傲慢さにも気付かずに、アイツは私たちの前で、涙を堪えていた。
アイツは殉職した。
私たちの仕事では珍しくない殉職だ。
最期までアイツは、施設を守ったそうだ。
失敗した被験体の貯蓄庫だった、あの施設を守って。
今日も風が強い。
下から吹き上げる、風のいたずらの風が、強い。
ワンピースの裾が揺れる。
空は抜けるように青い。
「涙色」は赤い。
この言葉を作った昔の人は、普通の涙ではなく、感も極まりに極まった、血涙の方を語源にしたからだそうだ。
催涙弾が降る街には、血の代わりに涙が流れる。
悲嘆にくれる血の涙ではなく、生理現象の透明な涙が、後から後から流れる。
この地は異教徒の地だった。
昔は帝国との貿易地であったこの地は、帝国の宗教が広まっていた。
帝国によって、広められていた。
しかし、この地の人々とこの地の風土が、帝国の宗教の教えを歪めていた。
この地は、帝国ともこの国ともつかない、奇妙な教えと宗教観とを、脈々と伝えていた。
そのため、この地は、帝国からもこの国からも見放され、いや、むしろ厄介なものとして、憎まれ、見捨てられていた。
その一つには、帝国は自国の宗教を、侵略や治国に利用していたことも影響しているのだろう。
ともかく、この地は、帝国にもこの国にも、異教徒の地として忌まれ、暴徒の地として恐れられた。
催涙弾が絶えず降るのも、そういう、国との緩やかな対立のためだった。
この地の人々は、神がこの責苦を救ってくれることを、切望していた。
信じていた。
「神の僕である人々が、血を流しているならば、神は必ず救いの御手をもって、人を救う」
「神の僕である人々が、邪教のために血を流しているならば、神は必ずその御手をもって、邪教を退け、我々に勝利をもたらす」
というような、教えがあるからだ。
しかし、この折、僕は考える。
我らが神は我々が血を流していれば、必ず僕たちを救ってくれるそうだ。
しかし、血でもなく、血涙でもない、透明な涙に対しては、手を差し伸べてくれるのだろうか。
僕たちが今なお流し続けている、透明な涙には、御手を差し伸べられないのではないか。
血の流れない苦しみに、御手を差し伸べてくださるのだろうか。
この地には、もう何十年も透明な涙が流れ続けている。
催涙弾が降る街には、赤い血の代わりに、透明な涙が流れるのだ。
そして、世間では「涙色」すら、赤いらしい。
たたへて そうすは、いみじく かしこしことなれど、
うたてし このよをば おぼせば、もくすること たえがたき。
よるに かよわぬ あなたなれば、
われの こころも いさしらぬ
かような よるには たえがたき、
けがれおおき わがこころ。
あなたの こころあるを たのみけり、
ゆゆしき あなたのもとへ そうじょうす。
よもすがら。
そんじることありて うたてとおぼゆおのれに、
ふゆのよながは たえがたき。
ぬること かなわず よもすがら つきかげ ながめおるよるは わびしくすぎゆ。
このよこそ ひとはだこいし よなれど、
たよるひとなく ただ、つれづれなるよの すぐるままなるよ。
こころすごし ふゆのよに、
ひとり つきかげ ながめける。
おとは ゆきにか のまれける、
さびしき よにて さうざうし。
ゆきの あさに さすかげの
こころつよしこと あなたのごとし。
あいたき こころ たかまれば、
このよの ゆきの うたてしは、
ましてうたてく われにふる。
かしこき ほい と しりぬれど、
しかし われは すてざりぬ。
われの をこなる ほいを、
われは おもいすてざりぬ。
あなたのもとへ ちをけりて、
みずにいりて あなたのもとへ。
ゆゆしき とが とは しりぬるも、
われは おぼゆ この ほいを。
かしこみ かしこみ かしこみもうす。
われは あなたのもとへ かけたし。
あなたのもとへ ただ いきたく。
をかしき ゆゆしき わが こころ、
あなたの みこころ けがらはむ。
とく やぶりて たびたまう。
たたえて そうすは いみじく かしこきことなれど、
われは すつらぬ このほいを。
やぶりて すすぎ たびたまう。
をかしき ゆゆし わがこころ。
かしこみ かしこみ かしこみもうす。
あなたのもとへ、あなたのいもより、
かしこみもうすこと。
甘だるい香りが鼻腔をくすぐる。
手元のガラス瓶の中に溜められた、この溶解液の匂いだ。
スポイトで、そっと一雫吸い上げて、落とす。
落とした先に転がっているものが、じゅわじゅわと泡を立てながら、溶けて腐り、ゆっくりゆっくり液体になり、気化していく。
肉の溶ける甘だるい匂いがぶわっと広がる。
ぐらり、と四方の壁が揺らぐように動く。
真っ白な壁。
真っ白な天井。
真っ白な床。
扉すらないこの部屋は生きている。
私はそっとガラス瓶にスポイトを入れ、またそっと、溶解液を一滴、吸い上げる。
そして、足元に置いている死体に、そっと垂らす。
じゅわじゅわと泡が上がる。
骨と、肉が混じり合って、じゅわじゅわ溶けてゆく。
この部屋は生きている。
この部屋自体が、大きく、悍ましい化け物なのだ。
しかし、この化け物は何もしない。
何もできない。
ただ、何もない、小さな一部屋の真っ白な部屋として、この生き物はそっと、ひっそり生きているのだ。
そして、私はそれが生きる手伝いをしている。
この部屋は、私がいるこの部屋の生き物は、捕食機能と消化器官を持てなかった個体なのだ。
だからこの部屋には、扉も窓も存在しない。
…本当なら、人を捕食するために、この化け物には扉が存在するはずなのだ。
私がこの個体に出会ったのはいつのことだったか、覚えていない。
この部屋の化け物の中に入ったが最後、生きとし生けるものはみんな記憶が曖昧になってしまうのだ。
しかし、私はずっと何故だか、この化け物に同情的だった。
放っておけないのだ。何故か。
私は、この部屋が、ただひっそりと、そっと生きているこの化け物が何故だか、とても好きだった。
だから、化け物の希望にしたがって、化け物のために人の死体を運び込んで、溶解液で溶かしてやっている。
部屋が、ぐらり、ぐらりと揺れる。
喜んでいるのだ。
それで私は、この化け物が愛おしくなる。
喋れず、扉などを仕掛けて能動的に生きていくこともできず、ただ、私を待つこの化け物が、私はたまらなく愛おしくて、どうしても好きなのだった。
だから、私は今日も、ありったけの愛おしさを込めて、そっと溶解液を垂らす。
真っ白な部屋の、真っ白な化け物に。
そっと、ひっそり、自分の意思すら伝えられない、哀れな生き方をしているこの生き物に。
私はそっと食べ物を運び込み、そっと溶解液を垂らす。
そっと、そっと。
この生き物を壊さないように。
この生き物を生かすために。
私は今日も、溶解液と愛を垂らす。
そっと生きている部屋に。
そうっと。