一面に花が綻んでいた。
風が吹く。
ふわり、と、柔らかい花弁が舞い、甘ったるい香りが広がる。
羽音を震わせて、マルハナバチが花の中を飛び回っている。
涼しい風が吹き抜ける。
花の茎は何の音も立てずに、静かに撓んで、萼が揺れる。
花びらが舞う。
僕のキツネはどこにいるんだろう、と思う。
満開に咲き誇る花は、どれも幸せのように、美しく、華やかで、儚くて。でも、どれも僕の大切な花ではない。
この素晴らしい花たちは、僕ではない誰かが慈しんで咲かせた、満開の花畑だ。
誰かの、誰かによる、誰かのための花畑。
僕を楽しませてくれるけど、僕だけのための花ではない、有象無象たち。
マルハナバチが低く飛んでいる。
湿った空気の匂いが、甘い花の香りの中に、僅かに混じっている。
切ないくらいに真っ青の空が、高く深く広がっている。
風が、肌を刺してゆく。
花びらが、また舞う。
僕は、この花畑の中で、自分だけの花を探していた。
自分だけの一輪に出会いたかった。
石造りの壁はどれも崩壊して、陽の光に当てられている。
ボロボロの石レンガの隙間にも、たくさんの花が顔を出している。
小さな花も。大きな花も。
花畑の真ん中で、僕は独りぼっちだった。
変わらない物はなく、世の中の物は全ていつか壊れるのだ、と僕は知っていたはずだった。
どんな熱烈な愛も、溢れる願いも、爽やかな尊敬も、いつかは変わるのだ、と。
人徳は一番アテにならないものだ、と。
僕は知っていたはずだった。
胸の奥から、切なさが迫り上がってきている。
鼻にツンと染みる。
誰でも良かった。
僕の一番大切なものを悟らせてくれる誰かが欲しかった。
変わってしまった人々に追われ、全てを捨ててしまった僕が、本当は何を大切にしたかったのか、誰かに教えてもらいたかった。
僕は、自分だけの一輪の花を見つけたかった。
でも僕は、独りぼっちだった。
風は振り返らずに、僕の肌を掠めて通り抜けていった。
花は見向きもせず、僕の足元で風を浴びていた。
この花畑にある全てのものは、みんな僕など気にしていなかった。
僕は、独りぼっちだった。
ふわり、と、風が抜けていった。
一歩後ろを、花びらと香りがふわりと通り過ぎた。
マルハナバチの翅が、低くハミングしている。
真っ青な空から何かが落ちて、頬を触った。
湿った空気が、もうすぐそこまでやってきていた。
お社じゃなくて、あっちの山に神様がいるような気がした。
“空”を見上げる。
頭上には、抜けるほどの青がどこまでも美しく広がっている。
コンクリートが灼熱に焼けている。
鳥居の向こう、真っ白な入道雲が、むくむくと肩を広げている。
蒸し暑い空気が、ゆったりと周りを取り巻いている。
飴を舐め溶かす。
こんな炎天下の天気には、とても合わないなと思いながら。
空腹が頭を揺らす。
ここからどこへ行こう。
アテはなかった。たった今、ここに来た理由を失ったところだった。
白い雲はまだまだ大きく育っていた。
あの雲がこの頭上を覆い隠せば、次期にここでも空が泣く。
今日はここで友達と待ち合わせのはずだった。
けれど、彼女はまだ来ない。
空が泣いたから。
私たちの頭上には、大きな瞳がある。
私たちを覗く目。
私たちの太陽の目。
私たちの日常の外側に繋がる目。
空。私たちの空。
きっと目の持ち主の空は幼いのだろう。
この大きな大きな瞳は、視界を隠されると泣くのだ。
駄々っ子のように、大声で、激しく。
私たちは雨の日だけは、あの瞳から解放される。
あの瞳の目線を外れる。
あまりに激しく泣くものだから、瞳の存在自体は忘れられないし、逃げられないのだけれど。
入道雲がむわりと、太る。
鳥居の奥で、際限なく広がって、瞳を隠そうとする。
今日、空が泣く。
カバンにつけた鈴が、ちりん、と呟いた。
頭がぐわんぐわんと揺れる。
原因は明らかだ。
普段飲まない酒をたらふく飲んだからだ。
視界が揺れる。
でも僕の心は訴え続けている。
君が悪いんだ。
君が、君からのLINEが悪いんだ、と。
吐き気がする。
頭が揺れる。
視界が揺れる。
飲みすぎたんだ。そんなこと、自分でもわかってる。
でも君からのLINEが悪いんだ。
私は今まで、あなたと一緒に何かするのが好きだった。
毎週待ち合わせて、楽しく遊ぶのが好きだった。
あなたの遅刻や欠席も、黙認し続けた。
私と同じ社会人だったあなたの、休日は少ないと知っていたから。
でも違った。
今わかった。
私とあなたは、同じことをしているようで、実は全く違うことを理想としていたこと。
あなたの目指す未来と、私の目指す未来は違ったこと。
それは、あなたからのLINEを見れば、一目瞭然だった。
頭痛を押し込めるために、無理やりアルコールを喉へ流し込む。
アルコールで消毒しなくては生きていけない。
酒を煽る。
喉がえずく。
無理やり飲み込んで、天井を見上げる。
小さな明るい光が、わずかに揺れている…。
大理石の床に膝をついた。
玉座の上の一城の主が厳かに口を開いた。
「…それで、貴様が我が宮廷に雇い入れてほしい、というのか」
「そのお話に出て来たご助言が、王様の侍長様のご紹介のものでありましたら、私にございますね」
「随分、他人事のような言い草だな」
「私も、その執事様に白羽の矢を立てられて、ご紹介いただいた身ですからね。置かれた立場が不明瞭であれば、まずは客観的な立ち振る舞いをするのが一番です」
王は、鼻で小さなため息を吐かれた。
「余は仕事に困っているわけでも、呆けているわけでもない。余は浮ついた巫山戯た事は苦手だ」
「ええ、この地の者はみな、存じておりますでしょう」
「そんな王の城に宮廷道化師などいるか?…余には奴の考えがわからん」
王が首を振ったのだろう。頭上の空気が僅かに揺れた。
「第一、貴様を雇い入れたとして、貴様が俺を裏切らないとどうして確信できる?信頼に足るかも分からん奴を余の側にも宮廷にも、自由に立ち入らせろなど、どうしてできるというのだ!」
王の声は、静かだが、険しさを増していた。
…侍長が手を焼くはずだ。
疑心暗鬼の権力者ほど、怖いものはない。
それが王の側に近いものほど、その恐怖も大きいだろう。
そんな王には、是非とも鈴のついた首輪をつけたいだろう。…それこそ、聡明な乳母か宮廷道化師のような、身分の差を気にせずに王に助言できる人間が…。
なるほど…
侍長の言う通り、随分と楽で高待遇の仕事ではないか!
雇い入れていただいた暁には、お礼に、この城のありとあらゆるところに、存分に侍長の噂を、あることないこと周りの奴らに吹き込んでやろう。
まあ、まずは雇い入れてもらうところだ。
私は顔を上げ、王のブルーの瞳をしっかりと見つめた。
そして、おもむろに、低い声で語りかける。
「ええ、この城は安泰ですな。なにしろ、主人様がとても聡明でいらっしゃる。王様の憂慮はもっともです。…ですが、それなら尚更、宮廷道化師として私を雇い入れた方が良いでしょう」
「…なんだと」
「この私よりも王様が信頼に足る宮廷道化師が後にも先にも現れるとはとても思えませぬ」
王が豊かな眉を、ぴくりと蠢かせた。
「ほう。貴様は余が信頼するに足る人物だと言うのか。…話は聞いてやろう。命が燃え尽きるまで忠誠を誓う、などと宣うか?」
よしかかった!話を聞いてくれるならこちらのものだ!
たっぷりと間をとって、口を開く。
受け答えの内容だけでなく、間の取り方も腕の…いや、口の見せ所だ。
「王様、もうお聞きかも知れませんが、私は刀の覚えがございます」
「おお、知っておる。…そこがちょうど怪しいと思うたところじゃ」
「刀を取る私たちは“武士”でございます。
あまねくこの世にはたくさんの剣がありまして、レイピアを操る騎士、剣を操る剣士、それから刀を使う武士がございますね?…どれも剣の使い手ですが、彼らはそれぞれの文化を持ち、それぞれ、その界隈独特の、伝統の習慣と稽古法を持っております」
「そうじゃの。内容までは知らぬが、各文化があるとは知っておる。…それが何の関係があるのだ」
「それが関係あるのです。…実は、どの稽古法と文化ででも、戦いや剣の稽古をする前、本当に剣を握る前に、身につけねばならぬ教え、心積り…習慣がございます。幼い頃から習慣化する決まりとなっているものが…」
「…ふむ」
「武士がその時に身につけなくてはならない習慣というものが、その理由です」
王は背にもたれ軽く目を閉じて、続きを促した。
「その武士の習慣というのは?」
「はい、『受けた恩は必ず返すこと』と『自分に誠実に生きること』です」
「…ほう。続けよ」
「今、私は仕事をなくして困っております。王様が雇ってくだされば、私は王に命を救われた御恩を受けたことになります。その御恩を返すまで、私は王様を裏切れません。恩を仇で返すことは習慣上、できませんから」
「なるほど」
「そして、私は自身に誠実です。自分に嘘のつけない習慣を持ちます。私には、王様や側用人や使いの者や…あらゆる人間の顔色を例え知ったとしても、自分の誠実に則って話すのですから、誰に都合の良い嘘もつけません。…それで、前の仕事を失ったくらいですからね」
「…」
「習慣が変わらないかお疑いになりますでしょう?ですが、…これも王様はご存知でしょうが、私は武士の子でございます。
王様ならば、たくさんのお人をご覧になっているでしょうからお分かりでしょう。三つ子の魂百までと申しますように、小さい頃から躾けられた習慣を無くすことは至難の業です」
王が片頬を上げた。
「私は、自分に誠実な習慣が染み付いていますから、残念ながら王様に、命を燃やし尽くすまで忠誠を誓う、とはとても申し上げられません。
ですが、受けた御恩を果たすまでは、ずっと御奉公いたします。もちろん、自分に誠実に」
しっかりと王の瞳を見つめて、話し終える。
王は眉を顰め…私の目を覗きこむ…。
しばらくの後、王は眉を緩め、微笑を見せた。
「ふふ、自分に誠実に、か。余は気に入った。よろしい、雇おう。貴様は今日から余の宮廷道化師だ」
「ありがとうございます。お受け致した御恩は、必ず」
「では、下がれ。侍長に部屋の世話をしてもらえ」
「はい。では王様、また明日。…何か面白そうな話を仕入れておきますね」
「よいよい、初日だろう。大人しくとっとと休め」
「そういうわけにもいきません」
私は自分に誠実にしか生きられない。
「…碌に情報もよこさず、ここに連れて来た侍長を、噂の人に仕立ててやらないと、私の気が済みませんので」
失礼します、と頭を下げて、部屋を出る。
王室の分厚い扉を閉める。
王の恰幅の良い笑い声が、廊下に聞こえて来た。
野犬の時間は終わりだ。
東の空が、赤く白み始めている。
履き潰した踵がきゅう、と鳴く。
スプレーで汚れたブロック壁を横目に、両手をポケットに突っ込む。
もうじき、ここにも光が射す。
明るくなれば、ここはもう、血統書付きの輩の世界だ。
夜明け前に引き上げてしまわなくては。
奴等に会うことは、できるだけ避けた方がいい。
奴等に会ったら最後、どうなるか分かったものじゃない。
奴等の法律に縛られた奴等の世界は、俺たちには厳しすぎる。
ぐしゃぐしゃのゴミを蹴飛ばした。
カラカラ、と乾いた音を立てて、先へ転がっていく。
道端のゴミ箱には、ゴミが溢れんばかりに詰め込まれ、蓋が斜めに持ち上がって、異臭を垂れ流している。
奴等がのさばりだしたのはいつからだったろう。
少なくとも、俺が生まれた時は、こんな世界ではなかった気がする。
血統の定かでない犬人たちが、人狼に類する劣等種として、“野犬”と呼ばれて、この地に押し込まれるようになってからもう随分が経つ。
俺たち犬人は、遥か昔からずっと人狼に悩まされて来た。
俺たちの近縁種ではあるものの、狩猟を主とし、時には偽って犬人すら食べ、排他的な行動を繰り返す人狼は、養殖や計画狩猟をし、規律を維持して群れを作る犬人とは価値観が合わず、ずっと種族間で対立してきた。
人狼は全犬人共通の敵だった。
それが覆ったのはここ数年。
まず、人狼による犬人喰いの被害が増大した。
加えて、それまでなんだかんだ数と連携で優勢を保っていた犬人の防衛ラインが、人狼の襲撃によって崩壊した。
理由は不明。不明だが、人狼の動きから犬人サイドの内部情報漏洩が疑われた。
それまで平和に暮らしていた一般犬人たちは、不安に襲われた。
人狼に征服され、殺され、喰われるかもしれない。
何か手を打たなくては。たとえ理由が不明確で不明瞭だとしても、なんとかしなくては。
手遅れになったら困る!
そんな中、満を持してとられた政策が、「疑わしきは全体のために処理する」スパイ撲滅作戦だった。
計画狩猟のために、森へ入って食糧を獲ってくる役割の犬たちが、真っ先に槍玉にあげられた。森の中で人狼と内通する可能性を疑われたからだ。
彼らは隔離され、罰として、見張りをつけられて、贅沢と自由を許されない環境で、働かされることになった。
それでも、人狼による被害はなくならなかった。
疑わしきラインはどんどん拡大していった。
人狼と恋仲になるかもしれない、防衛ライン付近に住む犬たち。
どこか秘密の場所で内通するかもしれない、各地を仕事や趣味で回っていた犬たち。
人狼の方へ逃げるかもしれない、群れに疑問や意見を抱く犬たち。
…そして、人狼の親戚がいるかもしれない、人狼の血が混じっているかもしれない、血統が知れない犬たち。
こうして、血統種の犬たちが、それ以外の犬たちを見張る、そんな群ればかりになってしまった。
人狼の被害は減らない。
血統を持つ奴等は、疑念をますます深め、恐怖のストレスからか、さらに隔離している犬たちへの当たりを強くする。
最近では、隔離区の公共施設や公共事業は、休みばかりで機能しなくなり、町はすっかり荒れ果てた。
血統種の犬は、人狼の恐怖に苛まれ、荒む。
そこで、人狼の出ない明るい昼間に虚勢を張って、閉じ込められた畜生のように、自分より立場の弱い奴に威張り散らして、虐め始める。
隔離区の俺たちのような野犬は、血統種からの迫害に苛まれ、荒む。
そこで、血統種の出ない暗い夜に警戒しながら、野に放たれた畜生のように、怯え上がって目だけを座らせて、道徳や同情を投げ捨てて、生き残ろうと躍起になる。
今や、犬人の中で、穏やかで幸せな生活をしているやつは1人もいなかった。
群れの中でも、群れの外に対しても、俺たちは神経を尖らせて、常に警戒をしていた。
東の空から、白い光が広がっていく。
薄汚れたボロっちい町のシルエットが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
俺は慌てて歩を進め、自分のねぐらに潜り込み、カーテンを締める。
人狼の遠吠えが遠ざかっていく。
太い人狼の遠吠えの合間に、細々と血統種どもの、夜明けを告げる遠吠えが混じる。
夜明け前の日の光が、締め切ったカーテンの擦り切れた布地に、僅かに色をつける。
人狼の被害は増え続けていた。