薄墨

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野犬の時間は終わりだ。
東の空が、赤く白み始めている。

履き潰した踵がきゅう、と鳴く。
スプレーで汚れたブロック壁を横目に、両手をポケットに突っ込む。
もうじき、ここにも光が射す。
明るくなれば、ここはもう、血統書付きの輩の世界だ。
夜明け前に引き上げてしまわなくては。

奴等に会うことは、できるだけ避けた方がいい。
奴等に会ったら最後、どうなるか分かったものじゃない。
奴等の法律に縛られた奴等の世界は、俺たちには厳しすぎる。

ぐしゃぐしゃのゴミを蹴飛ばした。
カラカラ、と乾いた音を立てて、先へ転がっていく。
道端のゴミ箱には、ゴミが溢れんばかりに詰め込まれ、蓋が斜めに持ち上がって、異臭を垂れ流している。

奴等がのさばりだしたのはいつからだったろう。
少なくとも、俺が生まれた時は、こんな世界ではなかった気がする。

血統の定かでない犬人たちが、人狼に類する劣等種として、“野犬”と呼ばれて、この地に押し込まれるようになってからもう随分が経つ。

俺たち犬人は、遥か昔からずっと人狼に悩まされて来た。
俺たちの近縁種ではあるものの、狩猟を主とし、時には偽って犬人すら食べ、排他的な行動を繰り返す人狼は、養殖や計画狩猟をし、規律を維持して群れを作る犬人とは価値観が合わず、ずっと種族間で対立してきた。

人狼は全犬人共通の敵だった。

それが覆ったのはここ数年。
まず、人狼による犬人喰いの被害が増大した。
加えて、それまでなんだかんだ数と連携で優勢を保っていた犬人の防衛ラインが、人狼の襲撃によって崩壊した。
理由は不明。不明だが、人狼の動きから犬人サイドの内部情報漏洩が疑われた。

それまで平和に暮らしていた一般犬人たちは、不安に襲われた。
人狼に征服され、殺され、喰われるかもしれない。
何か手を打たなくては。たとえ理由が不明確で不明瞭だとしても、なんとかしなくては。
手遅れになったら困る!

そんな中、満を持してとられた政策が、「疑わしきは全体のために処理する」スパイ撲滅作戦だった。

計画狩猟のために、森へ入って食糧を獲ってくる役割の犬たちが、真っ先に槍玉にあげられた。森の中で人狼と内通する可能性を疑われたからだ。
彼らは隔離され、罰として、見張りをつけられて、贅沢と自由を許されない環境で、働かされることになった。

それでも、人狼による被害はなくならなかった。

疑わしきラインはどんどん拡大していった。
人狼と恋仲になるかもしれない、防衛ライン付近に住む犬たち。
どこか秘密の場所で内通するかもしれない、各地を仕事や趣味で回っていた犬たち。
人狼の方へ逃げるかもしれない、群れに疑問や意見を抱く犬たち。

…そして、人狼の親戚がいるかもしれない、人狼の血が混じっているかもしれない、血統が知れない犬たち。

こうして、血統種の犬たちが、それ以外の犬たちを見張る、そんな群ればかりになってしまった。

人狼の被害は減らない。
血統を持つ奴等は、疑念をますます深め、恐怖のストレスからか、さらに隔離している犬たちへの当たりを強くする。

最近では、隔離区の公共施設や公共事業は、休みばかりで機能しなくなり、町はすっかり荒れ果てた。

血統種の犬は、人狼の恐怖に苛まれ、荒む。
そこで、人狼の出ない明るい昼間に虚勢を張って、閉じ込められた畜生のように、自分より立場の弱い奴に威張り散らして、虐め始める。
隔離区の俺たちのような野犬は、血統種からの迫害に苛まれ、荒む。
そこで、血統種の出ない暗い夜に警戒しながら、野に放たれた畜生のように、怯え上がって目だけを座らせて、道徳や同情を投げ捨てて、生き残ろうと躍起になる。

今や、犬人の中で、穏やかで幸せな生活をしているやつは1人もいなかった。
群れの中でも、群れの外に対しても、俺たちは神経を尖らせて、常に警戒をしていた。

東の空から、白い光が広がっていく。
薄汚れたボロっちい町のシルエットが、ゆっくりと浮かび上がってくる。
俺は慌てて歩を進め、自分のねぐらに潜り込み、カーテンを締める。

人狼の遠吠えが遠ざかっていく。
太い人狼の遠吠えの合間に、細々と血統種どもの、夜明けを告げる遠吠えが混じる。
夜明け前の日の光が、締め切ったカーテンの擦り切れた布地に、僅かに色をつける。

人狼の被害は増え続けていた。

9/13/2024, 1:55:43 PM