薄墨

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9/10/2024, 1:32:52 PM

「Who killed Cock Robin? I, said the Sparrow,
with my bow and arrow, I killed Cock Robin.」

制服で、車に揺られている。
車窓の外は、嘘のようにカラッと晴れ渡っている。

制服の、折り目正しいスカートの上に載せられた詩集が、車の振動に合わせてカタカタと揺れる。
「Who killed Cock Robin?」
分厚いマザーグースは、車の揺れに合わせて、繰り返し駒鳥殺しの犯人を問うていた。

今日は、本当に蒸し暑い。
ようやく効き始めたクーラーの冷気が、埃の匂いと一緒に、私のいる後部座席へと流れてくる。
「Who killed Cock Robin?」
マザーグースは、冷気でページをはためかせながら、そう主張していた。

車内では誰も喋らない。
クーラーの冷たい風の鳴き声と、車のエンジンの唸り声と、マザーグースのページの捲れる音だけが、響いている。
青くて、騒がしくて、鬱陶しいほど暑くて、陽炎すらもゆらめいている外。
黒くて、冷たくて、静かで、霜が降りそうなほど沈痛なこの車内とはまったく正反対だ。

こんな良い天気に死ななくてもよかっただろうに。
私は、罰当たりにもそう思う。
ぼんやりと車窓の外の空を眺めて。

今日の午前に、叔母が死んだ。
父さんの妹だった叔母は持病で、ずっと病院暮らしだった。
昨日と今日の間の深夜に、その容態が急変して、今朝息を引き取ったらしい。

起き抜けに電話をとった父に告げられて、私たちは、黒い服に身を包んで、車に乗った。

叔母は、病気のせいで派手に動けないというだけで、話してみれば、陽気で楽しげで、とても素敵な良いおばさんだった。
膝の上のマザーグースをくれたのも、「Who killed Cock Robin?」がもともと哀悼の詩だけども、英米のミステリーの常套スラングとして有名なんだと教えてくれたのも、叔母さんだった。

私たちは叔母さんの病院へ向かっている。
これから、叔母さんの持ち物や私物を整理して、叔母さんと最期のお別れをするんだと、父さんが震える声で、そう説明した。

もう叔母さんとは喋れないらしい。
もう叔母さんとは遊べないらしい。
お別れが終わったら、もう叔母さんの手も握れないらしい。

…そう何度も自分に言い聞かせても、なんだか遠くの地の、他人のことのような気がする。
悲しさも寂しさも、どっか遠いどこかを漂っている。
足元がふわふわしている。

喪失感。
突然、頭の中にそんな言葉が浮かんだ。
このふわふわ感は、どこか他人事のような無気力感は、喪失感というのだろうか。

喪失感。喪失感なのかもしれない。
膝の上に目を落とす。
「Who killed Cock Robin?」マザーグースは相変わらず、犯人を探している。

ぼうっと、ページを繰っていった。
「Who’ll dig his grave? I, said the Owl,
with my pick and shovel, I’ll dig his grave.」
「Who’ll be the parson? I, said the Rook,
with my little book, I’ll be the parson.」
「Who’ll be the clerk? I, said the Lark,
if it’s not in the dark, I’ll be the clerk.…」
鳥や動物たちが、駒鳥の死を悼んで、お葬式の準備をしていた。

制服のネクタイの色が、明るすぎる気がした。
相応しくない気がして、ネクタイを乱暴に外す。
窓から空を見上げた。
青い空を、カラスが一羽、横切っていった。

9/9/2024, 2:05:21 PM

100円玉を握りしめている。
平成12年の100円玉。銀色のありふれた100円玉。
銀の桜の凸凹が、手の皺に馴染んでいる。

汗の滲むての内側で、硬貨を握りしめて、一歩を踏み出す。
駅を出ると、初秋の蒸し暑い空気が、ムワッと吹きつけてくる。
今日から、新しい生活が始まるのだ。

背中に背負ったリュックの重みが、ずしっと肩にのしかかる。
昼過ぎの日差しが頭上から、強く強く射している。

手の中の100円玉は、確かにありふれた、なんの変哲もない100円玉だ。
だけど、これは使うために握っているわけではないのだ。
これは俺にとって、世界で一つだけの、一番のお守りだった。

遠い昔に、俺から離れてしまった母さんの。

俺の母さんは、どうしようもない人だった。
母親としては失格の、どうしようもない…。
俺が生まれた時、既に母さんは、人生において致命的な失敗を何回か重ねていて、俺が生まれた後も、さらに致命的な行動を何回も重ねていた。

母さんは、悪い人じゃなかった。
ただ、頭が致命的に悪かった。
鈍くて、やることなすこと短絡的で、楽観的で、まったく計画性がなかった。

母さんは俺を愛してくれていたけれど、そんなどうしようもない人だったから、俺に渡せる愛も行動も物も、ほとんどなかった。
だから、お小遣いだ、今日の食費だ、と母さんが俺の手に握らせてくれるのは、いつも一枚の100円玉だけだった。

母さんは、母さんなりに一生懸命に俺を育てようとしていたけど、実態は、ネグレクトに近かった。

そんな母さんを、俺は内心軽蔑していた。
大したことも出来ないくせに母親ヅラして、油断していてもしていなくても、しょっちゅう厄介事を運んでくる。
鬱陶しく思った。早く離れたいと思っていた。

だから、俺は母さんから離れることに決めた。
俺は生まれた頃から、冷徹で、計算高くて、捻くれた悪い子だった。
もしかしたら、母さんが気づいていないだけで、俺は母さんの子ではなかったのかもしれない。

…俺は、母さんが出掛けている間に、警察へ行った。
それが俺の最初の裏切りだった。
母さんの罪の証拠を持って、俺は警察へ行った。
結果、母さんは捕まって、然るべき施設へ送られ、俺はまた別の施設に保護された。

最愛の息子に裏切られたというのに、母さんは変わらなかった。
俺が面会に行くたび、母さんはすごく喜んで、俺の生活の心配をして、最後にはいつも俺の手に、100円玉を一枚だけ、握らせた。
お小遣いよ、と、笑って。

この平成12年の100円玉は、母さんから貰った最後のお小遣いだった。
俺が成人して、他県での就職が決まったあの日。
それは、俺の自立と同時に、母さんとの別れを意味していた。

母さんは、今すぐ使える資金源があれば、後先も先方の事情も考えずに、すぐに頼って使い潰してしまう。
母さんのためにも、俺の生活のためにも、自立したら、母さんに会わないと決めていた。

最後の面会の日。
俺の近況報告を聞き、俺の決意を聞いた母さんは、意味が飲み込めていないのか、それでも変わらず穏やかに、俺と話してくれた。
そして、別れ際に、この平成12年の100円玉を、俺の手にそっと握らせた。
お小遣いよ、と笑って。

これは世界で一つだけの100円玉だ。
どれだけ、平成12年の100円玉がありふれていようと。
この100円玉よりも高価な経済的価値のある100円玉があろうとも。

俺はこの100円玉だけは使ってはいけないんだ。
俺にとっては、世界に一つだけの価値がある、お守りなのだから。

手のひらをゆっくり開いて、100円玉を見つめる。
母さん、俺、頑張るから。そう呟いて、落とさないように100円玉をしまってから、スマホを取り出す。

スマホの地図アプリを開く。
新居にピンがついている。
俺は、スマホを片手に歩き出す。新しい生活に向かって。
空は、カラッと晴れ渡っていた。
母さんみたいだ。空を見て、そう思った。

9/8/2024, 2:06:07 PM

手の中で、小さなネズミが蠢いている。
どくどくどく…と小さなネズミの小さな胸の鼓動が、ネズミの温かさと一緒に、指を伝わってくる。

哺乳類の心臓は、生きている間に15億回打つらしい。
哺乳類たちの胸の鼓動は、皆、各々のペースで規則正しく打ち続けて、15億回打てば、心臓は長い眠りについて、寿命が尽きる。
…もちろん、心臓が眠りにつく前に、他の内臓が使えなくなったり、食べられたり、殺されたりしても、寿命は尽きるのだが。……哺乳類の本当の、限界の寿命は心臓の耐用性が尽きる、心臓が15億回打った後だ。

…それを天から授けられた寿命、天寿と考えて、危ない目に遭わずに天寿を全うすることを幸せと定義するなら。
間違いなくうちのネズミたちは、天寿を全うする幸せな個体が世界で一番多い、ネズミの天国みたいな場所と言えるだろう。

ケージにネズミをそっと入れてやりながら、そう思う。

一匹のネズミが入るには、ちょっと広いくらいのケージの中に、先ほど戻してやったネズミが、ぽつんと、おがくずの上で鼻を動かしている。

彼らはラットだ。実験用の。
ただ、ここで行われている実験は、薬品や外科、病原体についてではない。
ここでは、生物や人間の“幸せ”の実験が、行われている。

この研究所を作った所長は、人類のため敵を討伐した英雄の_親友だった。
所長はよくうなされたように言っていた。「名誉は幸せではない。平和な人生こそが、幸せだったんだ」

彼の親友は、人類の英雄だった。
すごく良い人で、性格も何もかも完璧な人間だったと、学校で習った。

だけど、その話を聞くたびに、所長は、寂しそうに笑って、人類の英雄である、親友の話を聞かせてくれた。

完璧だと教わった彼が、失敗したこと。
英雄の彼が、好きだった人。
二人で一緒にイタズラをして怒られたこと。
そして、英雄が、英雄に仕立てられて人類のために犠牲になったという、そんな話。

死ぬ間際、人類の英雄の彼は、親友の所長に向かって言ったらしい。
『俺は人類に、名誉と引き換えに殺される。英雄とは不幸せなものだよな。……お前は、幸せになれよ』
「アイツってバカだよな。お前がいない世界で、幸せになれっかよ、って思うよな」
所長は、遠い何処かを見ながら、そう言っていた。

ある日、所長は死んだ。
所長の心臓は、15億回も打たなかった。
所長は自分で、心臓を止めた。
「研究を続けてくれ。本当の幸せを見つけてくれ」と、私とたくさんのネズミたちに言い残して。

ネズミがチチッと鳴く。
おがくずの上で、ネズミはおがくずを齧っている。

研究を続けて分かったことがある。
平穏と15億回の胸の鼓動の保証だけでは、ネズミは幸せになれない。
確かに彼らの平均寿命は伸びた。だけど、彼らの脳波は、幸せを感じていなかった。

所長は「平穏で、何も起きない15億回の胸の鼓動の人生が、きっと一番幸せなんだ。不幸を感じずに済むんだから」と言っていた。
…でも、その論は今、壁にぶち当たっている。
所長の持論は、生涯をかけた持論は、おそらく…。

自分の胸に手を当ててみた。
どくん、どくん…と胸の鼓動が、手のひらから伝わってくる。

研究室の天井を見上げる。
蛍光灯が、白々しく輝いている。
所長、幸せって、なんなんでしょうね。
その言葉は思わず、まだ幸せではない私の口からついて出た。

幸せってなんなんでしょう。
幸せではない私の胸の鼓動と、あまり幸せではないネズミたちの鳴き声に混じって、その疑問は、延々と部屋を漂っていた。

9/7/2024, 12:58:01 PM

肩を回して、腕を伸ばす。
足を伸ばして座る。
体を思い切り伸ばす。
体をほぐすのは大事だ。特に関節周りは。

かかりっぱなしの曲を止めて、立ち上がる。
だいぶ汗をかいたから、水を飲んでからシャワーだな。そう思いながら、キッチンへ向かう。
しばらく歩いて、不意に右足の足首に違和感を感じる。
この感じは疲労っぽいか。…今日はちょっと動かしすぎたか。

「踊るように、〇〇を!」
そんなことを言うやつは、大抵、優雅で気楽にのらりくらりとやっていこうぜ!というようなメッセージを込めてこのフレーズを使う。
…まったく、いったい誰がそんなふざけたことを言い出したのだろうか。踊るというのは、かなり大変なことなのに。

どんな種類の踊りも、どの国のダンスも、どれも踊るのは楽じゃない。
考えてみれば当たり前の話だ。
踊るということは、身体全体の動きだけで、表現をするということなのだから。

どんな踊りも、ラジオ体操でさえ、きちんと踊ろうと考えれば、一回踊るだけでかなりクタクタになる。
さらに踊りの基礎を完璧にして、側から優雅に気楽に見えるようにするには、かなりの練習が必要だ。
自分なりに表現を交えて、楽しく個性的に踊ろうと思えば、それから更に込み入った練習が必要になる。
つまり、好き勝手“踊るように”なりたければ、まずは好き勝手踊れるように、努力が必要だ、と、ダンスをしている者としては、そう思う。

しかも、きちんと体重管理と身体のメンテナンスをしておかなくては、すぐに身体がダメになる。
アクロバットとかちょっと派手なことがやりたければ、もっと大変だ。
…と、他の趣味をしている奴に愚痴れば、「分かる分かる!こっちもさ、なんか気力なんてなくてもできる趣味扱いされるけど…」と似たような苦労話をしてくれる。

…そんな話をするたびにつくづく、努力と工夫と苦労が伴わない娯楽なんてないのだな、と思う。

2リットルペットボトルを冷蔵庫から引っ張り出して、キャップを開ける。
氷を入れたコップに水を注いで、一気に飲み下す。
身体を回っていた汗と熱が、すうっと冷める。
美味い。

限界ギリギリを攻めてひとしきり踊った後に飲む水は、恐ろしく美味い。
癖になるほどに。
あと、こうやって目一杯、踊った後の怠さは、スッキリとした気持ちと良い感じの眠気を運んできてくれる。

まあ、趣味の本番は、こういう楽しみをちゃんと楽しめるようになってからだよな。
そう思いながら、もう一度水を飲む。
分かってはいたけど、やっぱり一杯目の水の方が美味しい。

肩を回して、浴室へ向かう。
おっと、水はしまっておかないと。
シャワーあがりの冷たい水も、美味しいのだから。

着替えを掴んで、浴室の扉を開ける。
さっきまでさらっていた曲が、まだ残っている。
頭の中で流れるその曲が、思わず鼻歌で出る。
今日は良い日だ。
自分のしたいことに近づくためにダンスして、そのご褒美に美味い水を飲んで、ゆっくり気ままに汗を流せる。

きっと、奴らが“踊るように”というのは、こういう気持ちのことなんだろうな。
歌いながら、服を洗濯機に投げ入れて、ふと自然とそう思った。
上機嫌の自分の鼻歌が、浴室に細々と響いた。

9/6/2024, 2:58:16 PM

日付が変わる。

もうあと数分もすれば、明日がやってくるはずだった。
時計の針がゆっくりと着実に歩みを進めていた。

『時を告げるのではなく、時計を作る!』
分かるようで分からない、意識だけが高そうなスローガンが、壁にセロハンテープでベタベタに貼り付けられている。

あんな言葉が流行ったのも、もうずいぶん昔の話だ。
時が決壊する前の、だいぶ昔の話。

世界中の全てのもの、全ての概念に、小川のように例外なく絶えず流れていた時間は、ある日急に、その流れを澱ませた。

そして、ある日を境に、時間はしっちゃかめっちゃか。
あちらでは逆流し、こちらでは溢れ出し、向こうでは干上がり。
もはや公平で正しい時間などなく、何もかも、自分勝手に時間を刻み始めた。

歳を取る早さも、種ごとの寿命も、昔開発された時計さえ、使いものにならなくなった。
…ただ、たった一人。
たった一つの時計。たった一頭の象。たった一匹のネズミの時間だけは、かつて平等に流れていた時間の、こんこんとした水の流れを、忠実に刻んでいた。

それに気づいたのが、僕の父の父の父の父。
以来、僕たちの一族は、この狂いきった世界で、たった一つの正確な時を、告げ続けている。
誰に告げるでもなく。
ただ一人きりで。

もうすぐ、日付が変わる。
あの特殊な永遠を授ける部屋の中で、正しい時間を永遠に刻み続ける象も時計もネズミも、皆例外なく、一日という時間を迎える。

僕はそれを告げる。
時を告げる。

だが、時々思うことがある。
永遠の時を与えられた、彼らの時間は、本当に自然で平等で正しい、かつての時間なのだろうか、と。
劣化も死も終わりもない彼らの時間は、あのかつて、寿命という制限を設けながら流れていた、あの時間とはまた別物になっているんじゃないか、と。

だが、それを分かってくれる仲間はいない。
僕もまた、その永遠の時間を甘受し観測することだけが役目の、孤独な一人の人間でしかないのだから。

時計の針がカチリ、と動く。
ハツカネズミが鼻を鳴らす。
象があくびをする。

日付が変わった。
僕は時を告げる。
誰にとでも構わず、0時を告げる。
時はこちらのことなど構いもせずに、のんびりと一秒、流れていった。

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