薄墨

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手の中で、小さなネズミが蠢いている。
どくどくどく…と小さなネズミの小さな胸の鼓動が、ネズミの温かさと一緒に、指を伝わってくる。

哺乳類の心臓は、生きている間に15億回打つらしい。
哺乳類たちの胸の鼓動は、皆、各々のペースで規則正しく打ち続けて、15億回打てば、心臓は長い眠りについて、寿命が尽きる。
…もちろん、心臓が眠りにつく前に、他の内臓が使えなくなったり、食べられたり、殺されたりしても、寿命は尽きるのだが。……哺乳類の本当の、限界の寿命は心臓の耐用性が尽きる、心臓が15億回打った後だ。

…それを天から授けられた寿命、天寿と考えて、危ない目に遭わずに天寿を全うすることを幸せと定義するなら。
間違いなくうちのネズミたちは、天寿を全うする幸せな個体が世界で一番多い、ネズミの天国みたいな場所と言えるだろう。

ケージにネズミをそっと入れてやりながら、そう思う。

一匹のネズミが入るには、ちょっと広いくらいのケージの中に、先ほど戻してやったネズミが、ぽつんと、おがくずの上で鼻を動かしている。

彼らはラットだ。実験用の。
ただ、ここで行われている実験は、薬品や外科、病原体についてではない。
ここでは、生物や人間の“幸せ”の実験が、行われている。

この研究所を作った所長は、人類のため敵を討伐した英雄の_親友だった。
所長はよくうなされたように言っていた。「名誉は幸せではない。平和な人生こそが、幸せだったんだ」

彼の親友は、人類の英雄だった。
すごく良い人で、性格も何もかも完璧な人間だったと、学校で習った。

だけど、その話を聞くたびに、所長は、寂しそうに笑って、人類の英雄である、親友の話を聞かせてくれた。

完璧だと教わった彼が、失敗したこと。
英雄の彼が、好きだった人。
二人で一緒にイタズラをして怒られたこと。
そして、英雄が、英雄に仕立てられて人類のために犠牲になったという、そんな話。

死ぬ間際、人類の英雄の彼は、親友の所長に向かって言ったらしい。
『俺は人類に、名誉と引き換えに殺される。英雄とは不幸せなものだよな。……お前は、幸せになれよ』
「アイツってバカだよな。お前がいない世界で、幸せになれっかよ、って思うよな」
所長は、遠い何処かを見ながら、そう言っていた。

ある日、所長は死んだ。
所長の心臓は、15億回も打たなかった。
所長は自分で、心臓を止めた。
「研究を続けてくれ。本当の幸せを見つけてくれ」と、私とたくさんのネズミたちに言い残して。

ネズミがチチッと鳴く。
おがくずの上で、ネズミはおがくずを齧っている。

研究を続けて分かったことがある。
平穏と15億回の胸の鼓動の保証だけでは、ネズミは幸せになれない。
確かに彼らの平均寿命は伸びた。だけど、彼らの脳波は、幸せを感じていなかった。

所長は「平穏で、何も起きない15億回の胸の鼓動の人生が、きっと一番幸せなんだ。不幸を感じずに済むんだから」と言っていた。
…でも、その論は今、壁にぶち当たっている。
所長の持論は、生涯をかけた持論は、おそらく…。

自分の胸に手を当ててみた。
どくん、どくん…と胸の鼓動が、手のひらから伝わってくる。

研究室の天井を見上げる。
蛍光灯が、白々しく輝いている。
所長、幸せって、なんなんでしょうね。
その言葉は思わず、まだ幸せではない私の口からついて出た。

幸せってなんなんでしょう。
幸せではない私の胸の鼓動と、あまり幸せではないネズミたちの鳴き声に混じって、その疑問は、延々と部屋を漂っていた。

9/8/2024, 2:06:07 PM