薄墨

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肩を回して、腕を伸ばす。
足を伸ばして座る。
体を思い切り伸ばす。
体をほぐすのは大事だ。特に関節周りは。

かかりっぱなしの曲を止めて、立ち上がる。
だいぶ汗をかいたから、水を飲んでからシャワーだな。そう思いながら、キッチンへ向かう。
しばらく歩いて、不意に右足の足首に違和感を感じる。
この感じは疲労っぽいか。…今日はちょっと動かしすぎたか。

「踊るように、〇〇を!」
そんなことを言うやつは、大抵、優雅で気楽にのらりくらりとやっていこうぜ!というようなメッセージを込めてこのフレーズを使う。
…まったく、いったい誰がそんなふざけたことを言い出したのだろうか。踊るというのは、かなり大変なことなのに。

どんな種類の踊りも、どの国のダンスも、どれも踊るのは楽じゃない。
考えてみれば当たり前の話だ。
踊るということは、身体全体の動きだけで、表現をするということなのだから。

どんな踊りも、ラジオ体操でさえ、きちんと踊ろうと考えれば、一回踊るだけでかなりクタクタになる。
さらに踊りの基礎を完璧にして、側から優雅に気楽に見えるようにするには、かなりの練習が必要だ。
自分なりに表現を交えて、楽しく個性的に踊ろうと思えば、それから更に込み入った練習が必要になる。
つまり、好き勝手“踊るように”なりたければ、まずは好き勝手踊れるように、努力が必要だ、と、ダンスをしている者としては、そう思う。

しかも、きちんと体重管理と身体のメンテナンスをしておかなくては、すぐに身体がダメになる。
アクロバットとかちょっと派手なことがやりたければ、もっと大変だ。
…と、他の趣味をしている奴に愚痴れば、「分かる分かる!こっちもさ、なんか気力なんてなくてもできる趣味扱いされるけど…」と似たような苦労話をしてくれる。

…そんな話をするたびにつくづく、努力と工夫と苦労が伴わない娯楽なんてないのだな、と思う。

2リットルペットボトルを冷蔵庫から引っ張り出して、キャップを開ける。
氷を入れたコップに水を注いで、一気に飲み下す。
身体を回っていた汗と熱が、すうっと冷める。
美味い。

限界ギリギリを攻めてひとしきり踊った後に飲む水は、恐ろしく美味い。
癖になるほどに。
あと、こうやって目一杯、踊った後の怠さは、スッキリとした気持ちと良い感じの眠気を運んできてくれる。

まあ、趣味の本番は、こういう楽しみをちゃんと楽しめるようになってからだよな。
そう思いながら、もう一度水を飲む。
分かってはいたけど、やっぱり一杯目の水の方が美味しい。

肩を回して、浴室へ向かう。
おっと、水はしまっておかないと。
シャワーあがりの冷たい水も、美味しいのだから。

着替えを掴んで、浴室の扉を開ける。
さっきまでさらっていた曲が、まだ残っている。
頭の中で流れるその曲が、思わず鼻歌で出る。
今日は良い日だ。
自分のしたいことに近づくためにダンスして、そのご褒美に美味い水を飲んで、ゆっくり気ままに汗を流せる。

きっと、奴らが“踊るように”というのは、こういう気持ちのことなんだろうな。
歌いながら、服を洗濯機に投げ入れて、ふと自然とそう思った。
上機嫌の自分の鼻歌が、浴室に細々と響いた。

9/7/2024, 12:58:01 PM