水色の背景に、白い綿雲。
空模様のイルカのキーホルダーが、目の前で揺れている。
つまみ上げたイルカのキーホルダーは、ふらふらと揺れる。
金具の繋ぎ目についた、錆びついた鈴がしゃらしゃらと鳴る。
窓からは、一面、ぐずついた空模様が見える。
鳩が、ゲージの中でくるっぽー、と鳴く。
この家は、空と湖との真ん中を貫くように建っていた。
尤も、その湖というのは枯れてしまっていて、今はただひび割れた地面を、僅かばかりの湧き出した水が湿らす程度だった。
この空模様のイルカは、ここの象徴だった。
ここは長い間、水上都市だった。
積み木のような家が、水面が上がるたびにぽこぽこと建って、人も物も、小舟で空の下を自由に動き回った。
舟から見上げると、遮るもののない空が一面に見えた。
ここは美しい街だった。
今はもう、私しかいない。
イルカのお腹の綿雲は、くっきりと真っ白だ。
ここは美しい街だった。
と、同時に、ここは戦略的に重要な都市でもあった。
山中の窪みの中に、湧き水や地下水によって奇跡的に作られたこの孤立した土地は、争いを好まず、知らなかった。
だから、破壊するのは簡単だった。
水を枯らすのも、不安定に高い家を崩すのも、舟を動かなくさせるのも。
ここは、山中を行軍する者には、都合の良い中継地であり、補給地だった。
だからこそ。
だから尚更、敵の手に落とす訳にはいかなかった。
湖を枯らし、住民たちを追い出した。
主要施設を取り壊し、街の人々に立ち退くよう懇願した。
人々は、瞳の奥に戸惑いや悲しみを過らせながらも、私の手を握って、昔のように笑いかけ、街を去って行った。
私に、頑張れ、と言い置いて。
私はこの街の出身だった。
長い時間をかけて、国際情勢は徐々に落ち着きを取り戻していった。
この街の跡地も、戦場となったり、廃墟となったりと変遷を繰り返し、国境に敵が覗めなくなった時期に、静寂を取り戻した。
今は、私一人が、ありとあらゆる通信機器や連絡手段と最低限の武装と共に、見張り兵としてこの家に住み続けている。
窓の外は雨が降り始めた。
雷の音がどこか遠くで聞こえた。
ここから都市へ出るときから、ずっと肌身離さず持っているイルカのキーホルダーを揺らす。
激しい雨音の中、晴天を孕んだイルカのキーホルダーが、しゃらしゃらと鳴った。
「これが…私?!」
我ながら月並みで、捻りのない言葉が漏れた。
これで鏡を覗く場所が、学校の同級生の持つ手鏡か、おしゃれな三面鏡か、美容室の一角だったなら、素敵なワンシーンであったろう。
だが、私が居るのは水垢の香りが漂う、狭い洗面所の、曇った鏡の前である。
ところどころがひび割れた鏡は、それでも、ここの所の生活では、貴重な道具だ。
数週間前に、この建物は崩壊した。
私の職場であったこのエネルギー生成施設は、たった一つのヒューマンエラーによって、冷却機能を失い、一夜にして崩壊し、閉鎖された。
原料を覆う炉の金属は溶け、生物はじわじわと焼け腐り、植物は吸い上げた土から枯れていった…らしい。
この数日間で、施設の至る所を調査しまわった結果、そういう推測ができた。
そう、実は私はこの一部始終を全く知らなかったのだ。
もう何日目かも分からない連勤の果て、疲れを癒すためにちょっと睡眠をとったら、いつの間にか施設が変わり果てていたのだ。
…どうやら、自分が思った以上に、この身体と脳には疲れが溜まっていたらしい。
途方に暮れた私は、とりあえず自身の好奇心に則り、辺りを調査して把握し、この施設が清潔で安全な地獄から、汚染された危険な地獄へと変貌したということを理解した…ところで、ようやく自分の健康状態の異常に気づいた。
といっても、何か問題があるわけではない。
健康すぎるのだ。
私の記憶と計算が正しければ、こんな所に取り残されたなら、生きながらに細胞が死滅して、今頃死んだ方がマシなほどの苦痛を味わっているはずなのに。
気づけば、数日間水も食料も取らずに歩き回っておきながら、身体の汚染や不調はおろか、空腹や喉の渇きすら感じない。
遅ればせながら、私の身体は一体どうしてしまったのだろう、と鏡を探し当てて覗き込んだ結果が、あのベタベタな独り言である。
だが、この見た目は…
我が身体ながら見れたものではない。
鏡の中の私は、四肢の先ばかりが肥大化し、痩せばった腕脚に関節ばかりが球体のように目立つ。
おまけに、ボコボコと水膨れた腫瘍のような突起がズラリと並んでいた。
顔はもっと見られない。
落ち窪んだ目に鳥類のソレに似た、瞬膜のような厚ぼったい膜が張られており。
口や鼻は見当たらなかった。
耳だけが異様に大きく目立つ。
一体どうしたことだろう。
この施設の研究者一の美人(自称)と謳われたこの私の美貌が見る影もないではないか!
しかし、この変化は興味深い。
失った代償は大きいものの、この変異が私の命を守り、超耐性を授けてくれた秘訣であろうから。
これは研究課題ができた。
救助はもはや期待できまい。
この施設に人間や機械や生き物が侵入するのはもはや行きすぎた自殺行為だし、何よりヒトに会えたとて、この見た目では駆除されるのがオチだ。
つまり時間はたっぷりある。
ならば、やる事は決まりだ。
実験と研究を繰り返す!この変異を必ずや解き明かす!
肥大化した爪で床にメモを取る。
高音で表面が柔らかく変異したコンクリートは、難なく数式と文字を刻印してみせた。
素晴らしい!あとで推敲してから冷やし固めよう。
冷却システムを修正し、冷却水を供給すれば、書いた文字の保存も可能だ。
私は這いつくばって、メモを書き始めた。
鏡だけが、怪物となった私を映し出していた。
頭が重い。
捨てそびれたゴミ袋が、真っ先に目につく。
布団の中からスマホを引き寄せて、SNSを起動する。
テキトーにリテラシーの範囲内で、コメントを投稿してから、布団の中で寝返りを打つ。
今日の配信予定時間はあと二時間後だ。
まだ眠れる。
赤らんだ日を遮光するカーテンを眺めながら、そう思う。
積み重なったプラスチックの空容器と、丸めて捨てられたティッシュ。
ぐちゃぐちゃに重ねた雑誌の雪崩と、乱立する空っぽのペットボトルの間に、錠剤のゴミがぐしゃぐしゃに握りつぶされて落ちている。
足の踏み場もない狭い部屋に、すっきりと片付いた一角がある。
配信器具とカメラとマイク、それから編集用のパソコン。配信用のものを固めた、配信テーブルだ。
手元カメラの画角に入るそこだけは、きちんと片付けている。
手元のスマホの画面を見やる。
さっきのコメントに対して、さっそく返信が流れている。
取るに足らない喧嘩、誰でも書けそうな薄っぺらい一文、面倒で自己中な絡み、本人以外には全く面白さが分からない怪文書…
見るだけですえた匂いが漂いそうなコメントが、今日もネットの中を漂っている。
足首が痒い気がする。
そういえば、この布団を最後に洗ったのはいつだっただろうか。
最後に布団をあげたのはいつだったろうか。
エゴと欲でゴミ屋敷のようなSNSを閉じて、飲食店の配達アプリを立ち上げる。
閉店までに夕食を注文しておかなくては。
最近は、あんなに好きで、頼りになる存在だったはずの実家の両親からの連絡ですら、鬱陶しい。
まだかろうじて細々と縁が続いている彼氏や、学生時代あんなに一緒にいた同級生も鬱陶しい。
自分の今の生活がどうしようもなくダメな事は分かってる。
昼夜逆転、人間不信、不健康な生活、ネットびたりで区切りなしの虚の毎日…
それでも。
それでも私は、この世界を捨てられなかった。
同級生の半数が子持ちになったとSNSで気づいたあの夜も。
両親が連絡を取るたびに私を怒鳴るようになったあの夜も。
私は捨てられなかった。
布団から這い出して、パソコンの前に座る。
動画サイトを立ち上げる。
たくさんのコメント。たくさんの登録者。たくさんのいいね。
SNSを立ち上げる。
たくさんのコメント。たくさんのフォロワー。たくさんのファンアート。
だるい絡みがほとんどだけど、体にも心にも毒だけど、それでも。
それでも私はこの生活を、この世界を捨てられなかった。
スマホを横に置いて、夕飯を注文しながら、パソコンに届いているメールとコメントに目を通す。
薄暗く閉め切った部屋に、画面の光が目に眩しい。
ブルーライトを体に浴びる。
日光浴より毒々しく、でも私が一番欲している光。
これが私のいつまでも捨てられないもの。
今までもこれからも、いつまでも捨てられないもの。
正しさも、真っ当さも、幸せも、人間性すらも捨て去った私の人生の中で、ただ一つ捨てられないもの。
無機質な白い光が、顔を照らす。
カーテンの向こう側には、夜の帳が下りていた。
美しい派手な尻尾を引き摺りながらゆく。
砂埃は、尾羽の間に積もっていく。
重くて長い矜持と自分への期待を引き摺って今日も行く
嗚呼、孔雀としてではなく、翡翠のように生きられたら
いつか本で読んだ一節が、頭にリフレインする。
何一つ守れなかったヒーローが行くべき先はどこなのだろうか。
尻尾を引き摺りながら、考える。
砂埃が舞い上がる。
痩せこけた体にまとわりついている緋色の尾羽_もとい不死身のマント。
これを授けられた時、心は甘美な誇らしさと鎮重な責任感で満ちていた。
士官学校を主席で卒業し、次期ヒーローとして認められたあの日。
あの日が、この緋色の尾羽が最も美しかった時かもしれなかった。
ヒーローとして行った事は、すべて空回りした。
じわじわと事態は悪化した。
そして、戦いは終結した。どちらも不戦敗という形で、平和が訪れた。
不死身のマントを授けられ、矜持と栄誉の不死身能力を授けられたヒーローたちの掌に残ったのは、砂埃と死の灰だけだった。
何もできなかった私たちヒーローは、擦り切れた心身に、過去の色褪せた誇らしさを纏って、当て所もなく歩いていた。
火緋色の尾羽はただ重いだけだった。
あの時感じた誇らしさも、重たさも、緋色の鮮やかさも。
今となっては重たすぎるだけだ。
全てが砂と化した世界は。
守るものがなくなった世界は。
喉の渇きがひりつくように痛かった。
視界は眩暈がするほど広かった。
耳鳴りがするほど辺りは沈黙に満ちていた。
一歩毎に膝が折れるほど、緋色の尾羽は重たかった。
私たちの他には何もない。
何も持っていなかった。
過去の誇らしさ以外には。
孔雀としてではなく、翡翠のように生きれたら
長すぎる尾羽を引き摺って行く。
砂がただ、緋色の尾羽を汚していた。
白く泡立つ波だけが見える。
寄せて返す、白い波は、くるぶしに触れてからそっと真っ暗な海の水面に消えていく。
砂浜を裸足で歩く。
ひんやりとした砂が指先を埋めてゆく。
月の明かりだけが、優しくこちらを見つめている。
クラゲは死の象徴であるというのは本当だろうか。
確かに、海水を凝固させただけのような、骨なしの不思議なあの生き物は、幽霊のように見えるだろう。
私は、クラゲが死の象徴であることを信じて、海岸でクラゲを探し続けている。
あの子が、白い白波とうねる水面の中に吸い込まれていったあの日が、海馬に焼き付いている。
私の幼馴染で、一番の友人だったあの子は、気づいたら海水に足を取られて、私たちが憧れていた人魚の世界に旅立ってしまった。
私に残ったのは、水脹れでむくれたあの子の抜け殻と、夜の海よりも冷たくて重い、悲しみと罪悪感だけだった。
海は波を運んでいる。
規則正しい波の音が、静かな砂浜にただただ響いている。
あの時、いっそ私も人魚になってしまいたかった。
目につく世界に弾かれて、信頼のおける家族も友人もいなかった私たちは、お互いがお互いの、唯一の友人だった。
あの日だって、海に遊びにいくということは、私とあの子だけの、秘密の約束だった。
あの日の事故は、あの子の家族の監督不行き届きとされた。
約束をしていたこと、一緒に遊んだことを私は言わなかったから。
私は、あの子のいない人生なんてどうでも良いと思っていたから。
あの日、あの夏から、私はずっと、死の象徴のクラゲを探し続けている。
あの子に再開するために。
波の音がはっきりと聞こえる。
白く泡立つ波だけが、砂浜に寄せては返している。
月の光だけが、夜の海を照らしていた。