秋の虫の声が聞こえる。
星が静かに瞬いている。
秋分を過ぎてから、静かな夜の闇には、秋の音が漂うようになった。
一人の部屋で、絵を描き、並べる。
関節が滑らかな球体になった絵が、丹念にお気に入りに登録されている。
「心の健康を取り戻しましょう」
私のお気に入りのイラストを見た友人も家族も同僚もAIも検索エンジンも、みんなこぞってそう言った。
夜更かしをして、絵を描き続けた。
一般向けの漫画にもポルノにも、琴線に触れるような絵はなかったから。
異常性癖。
そんな言葉を知ったのはいつのことだったろうか。
自分の嗜好がそのカテゴリに含まれると気付いたのは、いつのことだったろうか。
心の健康。
その言葉が、正義の皮を被ったまま、自分の嗜好を踏み躙り、普通を強要すると気付いたのは、いつだったろうか。
涼しげな虫の鳴き声が、窓の外から聞こえる。
暑い風が、風鈴を微かに揺らす。
手足の欠けた少女と、絵の向こうから目が合う。
現実のそういう人を、性的な目で眺めているわけではない。
誰でも良いわけではない。
法に抵触することを行なったわけでもない。
思春期にトラウマになるようなことがあったわけでもない。
ただ、好きな嗜好がそれだっただけ。
心の健康が害されたわけでも、辛い子供時代を過ごしたわけでもない。
ただ、気付いたら、そういう嗜好だった。
そんな言葉を、いったい誰が信じてくれただろう。
自分の嗜好への説明は、今でも喉の奥で腐り果てている。
虫がなく。
コロコロ、リーリー。
日中の蝉よりは遥かにか弱く、でも確かに鳴いている。
風鈴が揺れる。
私は、一人机の上のイラストを片付ける。
時計が12時を打つ。
虫の声が背景をゆっくりと流れていく。
空には星が輝いている。
風がゆっくりと短冊を揺する。
風鈴の音が、闇に吸い込まれて、いつまでも響いていた。
透明な水が、木の葉の間を静かに流れている。
木の葉から漏れる陽の光が、水面に反射して煌めいている。
水に指を浸す。
刺すような冷たさと柔らかさが指の間を触って、去っていく。
君の奏でる音楽は、私の鼓膜に焼き付いている。
黒い鞄を剥ぐ。
トランペットを取り出す。
滑らかな金色の曲線が、木漏れ日に照らされて、涼やかに刺々しく輝く。
そっと唇にトランペットを当てる。
さらさらと流れる川のせせらぎの最中に、パーーーー、と張り詰めた金属の音が閃く。
私が少年だった時、お墓参りのために訪れたこの片田舎で、暇を持て余した私はよくこの山へ冒険に来た。
私に音楽を教えてくれたのは、君だった。
君と私が言葉を交わすことはなかった。
私たちの間に入るものは、音楽だけで十分だった。
川のせせらぎの横で、水に浸った葉をもぎ取り、折りたたんで唇に当てて、私たちは走り回った。
草笛の音楽で、私たちは会話をし、山柘榴を齧り、川に足首を浸し、虫を捕え、草の茎で相撲をとった。
お盆休みの日中だけの、出鱈目で輝かしくて瑞々しい遊びの毎日。
私の奏でる音楽も、君の奏でる音楽も、出鱈目で輝かしく、瑞々しい、生きた音楽だった。
君の奏でる音楽を今でも覚えている。
歳を重ねるうちに、私はこの山と疎遠になっていった。
君の奏でる音楽を聴いて、音楽をやろうと幼心に決め、向こうの世界で音楽に躍起になった私の、お盆にここに来る機会は、だんだん減っていった。
やがて、慌ただしく腰掛けで地方に訪れては、気もそぞろなまま、形式だけでも墓前で手を合わせて、都会へ帰る…そんな風情のない帰省をする、つまらない大人になった。
そしてとうとう、そんな生活も終わりが来た。
父が死に、私の父が育ったこの土地の家主はついに尽きた。父の遺言に従って、家はこの山と共に売りに出された。
そして、つい最近、買い手がついたのだ。
君はいつも山の中にいた。
山に行けば、いつも君がいて、あの音楽を草笛で奏でた。
君の奏でる音楽は、今でも私の脳裏に焼き付いている。
それでも、私が君の奏でる音楽に応えるのは、これが最後になるだろう。
チューニングはオッケーだ。
あとは君に最後の別れを伝えるだけ。
このトランペットなら、君にもきっと届くだろう。
いや、届かなくとも。私の中に眠るあの頃の私には届くに違いない。きっと。
トランペットに唇を当てる。
木の葉がそよそよと囁く。
木漏れ日が、待ち侘びているかのように優しく揺れていた。
しゅんしゅんしゅん…
薬缶が力の限りに叫んでいる。
モニターは、青々とした海と空と、そして君をくっきりと映し出している。
亜麻色の髪を靡かせ、麦わら帽子を抑えて無邪気に笑う、白いワンピースの華奢な女の子。
日に焼けた肌が眩しい。
君から目を逸らして、立ち上がって、キッチンに向かう。
薬缶を火から下ろして、氷水の桶につける。
しゅう…と薬缶がため息を漏らす。
麦茶が冷めたら、もう少し頑張ろう。
氷の間に薬缶を捩じ込む。
ガランと氷が抗議する。
押し込んだ薬缶の汗が垂れるのを、モニター越しの君と一緒に眺める。
ミーンミンミン…
蝉の鳴き声だけが響く。
今年は、君が居なくなってから何回目の夏だろう。
君の立ち絵を眺めて、独りごちる。
君はインターネットの中のアイドルだった。
白いワンピースに麦わら帽子を被ったモニターの中の君は、いつだって画面の外の世界に、希望を届けようとしていた。
清濁が混ざり合って、濁流と化したインターネットの世界を、君は強く優しく、気丈に、皆の理想として振る舞い、完璧な配信者として生きていた。
現実との乖離に悩みながら。
現実逃避先であったはずのインターネット世界の人間から叩きつけられる現実に悩まされながら。
君は、配信の時間はいつも笑っていた。
ゲームに笑い、理不尽に怒り、コメントに泣いた。
普段は笑わず、怒らず、泣かず…ただただ空気を消費する君が、人間らしく笑う配信の時間が、僕は好きだった。
ある日のこと、君は言った。
自分なんていらないんじゃないかと。
役に立たない現実の私は消えて、画面の向こうのみんなに愛される私だけになればいいんじゃないかと。
僕は、何も説得力のあることを言えなかった。
君はそのまま消えてしまった。
残ったものは、君が現実世界で唯一好きだと言った麦わら帽子と、君のチャンネルと、立ち絵と、更新され続ける配信だけ。
僕が触れた、僕が世話をした、確かに存在した君は、もうどこにもいなかった。
ただ、君が作り上げた理想のインターネット上の君しか残っていなかった。
モニターの向こうで君が笑っている。
薬缶から冷たい水蒸気が伝って落ちた。
カランッ
氷水が音を立てた。
たたん、たたん。
金属の軋む音が、リズミカルに歌う。
黄色い線の内側で、車輪に踏みつけられて撓む線路をぼんやり眺めていた。
通過する電車、停まって人を吐き出す電車、回送電車…
今日は何両の電車を見送っただろうか。
たたん、たたん。
どの電車も、やがて呑気に線路を踏み締めながら、走り続ける。
ベクトルABの終点は点B。
ベクトルは、世界にあまねく力を図にしたものだから、ベクトルの終点は即ち、力が行き着く最後の作用点。
終点は力の終着点。
力は流れる。
終点を経由して、別の終点へ。
終点を経由して、別の終点へ。
終点を経由して、別の終点へ。
下へ、下へ。
だから仕方ない。
お客様が店員や職員の失敗を執拗に責めてしまうのも。
上司が部下を怒鳴りつけて心身を破壊してしまうのも。
同僚同士ですらストレスををぶつけ合って仲良く出来ないのも。
どんな環境の人間関係の中でも、悪口とイジメの影が差しているのも。
仕方ない。
仕方ないのだ。
誰でも終点で、誰でも始点だから。
頭では分かっている。
分かっているのだ。
…分かって、受け入れていたはずだったのだ。
たたん、たたん。
去っていく電車の足音が聞こえる。
電車は走るのが楽しくて仕方なさそうだ。
その胃の中に抱えている人間たちとは裏腹に。
電車は終点に向かって、その後に折り返して、終点を始点に変えて、終点へ向かう。
たたん、たたん、と鼻歌を歌いながら。
何度も、何度も、永遠に。
終点は終わりじゃない。
誰かが終点を迎えたとして、それはちょっとの間だけ、誰かに迷惑をかけて、誰かのストレスの始点となって、迷惑をかけながら永遠に続く。
本当の終点なんてない。
それも分かっていた。
分かっていたのに。
それでも、それでも。
今日が私の終点。
心がもたなくなってしまった。
今日が私の終点。
黄色い線からはみ出る。
線路を覗き込む。
電車に踏みつけられて、擦り切れた線路。
尖った小石が敷き詰められた棺の中に横たわっている。
たたん、たたん。
たたん、たたん。
鼓膜に電車の鼻歌が焼き付いていた。
「この世にあまねく真理や理論や思想たちは、みな双子で生まれるのですよ」
「従順で正しくて都合の良い優等生と、神秘的で悪辣で融通の効かない問題児との双子で、生まれるのです。」
ぱちぱちと、爆ぜて踊る焚き火の前で、“先生”は言った。
赤い火が舐めるように、僕たちの横顔を照らしていた。
先生の顔は、いつも通りに穏やかな微笑を湛えていた。
「ですから、完璧な理論や思想や真理など存在し得ないわけです。どんな発見もどんな技術も、全て問題なく上手くいくとは限らない。どの子もみな、双子ですからね。私たちに都合の良い優等生がこちらに笑ってくれることもあれば、私たちを嫌う方の子がこちらを睨むこともある。」
そういうのを…そう付け足しながら、先生はこちらをぐるりと見回した。
先生の目線は、僕たちの目をまっすぐ捉えていた。
プロメテウスの火、というのです。
先生は言った。
ぎゃっぎゃっぎゃ
何かが茂みの奥で鳴いた。
先生は焚き火に枝を焚べた。
「だから、上手くいかなくたっていいのです。それは双子のうちの、私たちにとって都合の悪い方が、こちらを向いていたということにすぎないのですから」
あの夜、僕たちはみな火を囲んで、先生の静かな声に、耳を傾けていた。
戦争と兵器と様々な科学実験でボロボロになった地域の、奪還作戦及び治安確保作戦が開始される前の夜だった。
僕たちが最期に経験した、思案に耽る、静かな夜だった。
僕たちは地獄に向かっている。
僕たちは捨て駒の部隊である。
僕たちは成功を掴めないだろう。
生きて帰れないだろう。
この作戦を命じられてから、そんな現実は僕たちの共通意識にうっすらと染みついていた。
だからこそ、この部隊の中核を成していた、皆が頼る人間は“先生”だった。
強靭で戦闘に長けた歴戦の上官でも。
喧嘩に強く情に篤い同期でもなく。
穏やかに達観し、死にも不条理にも悲劇にも動じない、彼こそが、僕たちの心の救いで、だからこそ、彼は“先生”であった。
「上手くいかなくたっていいのです。」
先生は枝を折りながら、繰り返し呟いた。
「何事も。上手くいかなくたって…上手くいかない時は如何なることにもあるのです」
それは、非常な現実とその現実に抱いた僕たちの悲観的共通意識が、僕たちの心の、使命感やプライドや愛や…そんな部分についた傷に優しく、ゆっくりと染み込んでいた。
「上手くいかなくたっていいのです。上手くいかなくたって仕方がないこともある」
熱病に犯されたような無茶苦茶な現実の中で、ただ一つ先生の言葉だけは、僕たちの悲観と諦観を肯定してくれていた。
上手くいかなくたっていいのです。
先生が繰り返し、ぽつんと呟く。
ひっきりなしに、焚き火が、ぱちぱちと踊っていた。
穏やかな夜だった。
…静かな夜だった。