スマホの電源を入れる。午前一時半。
通知はない。静かだ。
深夜独特の重たく澄んだ雰囲気が、静かに部屋を包んでいる。
LINEを開く。
一件のLINE。
一番上に表示されたトークの右に、控えめに緑の印が点灯している。
いつもだ。
いつものこと。
あの子は不安でいっぱいで眠れないから、毎日この時間に連絡が来る。
あの子は自責観念が強くてとても気にしいだから、いつもLINEのミュートメッセージで連絡が来る。
LINEのトークを開く。
いつもと大体変わらない、不安と苦しみと諦めが滲む文面。
私はそれに、出来るだけ気軽に見える、でも出来るだけ寄り添えるようなスタンプを慎重に選び、送信する。
スタンプにするのは、あの子のためだ。
文章にすればあの子は、私の労力を勝手に想像して、勝手に自分を責めるだろうから。
もう何年になるだろうか。
あの子がうつ病になってから。
私とあの子は親友だった。
小さい頃から仲が良くて、LINEも真っ先に交換した。
お揃いの着せ替えを買った。
スタンプを送り合った。もちろん、夕方に。
一度目に均衡が崩れたのは、受験で私たちが別々の道を歩み始めた頃だった。
あの子は新しい親友を作って、お揃いの着せ替えはお揃いでなくなった。
話す機会は年々少なくなり、私とあの子は別の世界を生き始めた。
それからしばらく、遠巻きながら細々と関係は続いた。
二度目に均衡が崩れたのが、あの子が忙しい毎日に疲れて、その中で新しい親友に裏切られて疲れ切って、眠れなくなったあの時だった。
長い長い連絡があったあの時。
それから毎日、あの子から連絡が来るようになった。
最初は長く堂々と、だんだんと短く申し訳なさそうに。
毎日午前一時半に来る、一件のLINE。
私はあの子が嫌いじゃない。
どんなに疎遠になっても、勉強ができて、綺麗で、強いのにどこか脆くて、自分に厳しくて、弱音が吐けないあの子が、私は好きだったから。
だから私はこれからも、一件のLINEを待つ。
あの子からのSOSを。
ブルーライトが目に染みる。
東の空が、微かに白んできたような気がした。
目が覚める。
寝台の上に寝ている。
身体を起こす。
寝台に腰掛ける。
足元で、もうだいぶ昔に見送ったはずの平面展開図の飼い犬が、こちらを見上げている。
寝台の横の机に、輪切りにされた、白い滑らかな食べ物が一切れ、皿の上に置かれている。
丸みのあるフォークが、皿に添えられている。
ベッドランプの白い傘の中で、灯りが仄かに光っている。
あらゆる角度を貼り付けた、ペラペラとした展開図みたいなモノが、部屋へ入ってくる。
キュイーン、と脳に音が響く。
私の妻だ。知っている。
平面の妻は、私に縋りつき、何かを叫んで、嘆く。
足元で、飼い犬が平面の尻尾を振り回す。
いつのまにか、平面展開図の医者がいる。
平面展開図の妻が、医者に食ってかかる。
医者は、ペラペラと妻に何かを説明して、後ろから入ってきた平面展開図の看護婦が、妻の肩と思しきところを支えて、医者から引き剥がす。
キュイーン、と脳に音が響く。
視界には靄が立ち込めている。
この部屋がどこまで広がっているか、どこにドアがあるのかは分からない。
靄だけが立体的で、私の現実に存在するものは、この靄だけではないのかとさえ思う。
医者がこちらに近づいて、私に触れる。
何やら見聞をして、何やらを呟き、何やらを指示し、説明する。
キュイーン、と脳に音が響く。
何も分からない私は、ぼんやりと窓の方を眺める。
窓の外には、塗り込めたような真っ黒が広がっている。
平面の飼い犬が、こちらを見上げて口を開く。
「目を瞑ろう」
「眠ってしまおう」
「眠ってしまえ」
「眠ってしまえば楽になる」
私はゆっくりと目を瞑る。
眠気がゆっくりと私を包み込む。
「眠ってしまえばいい。夢の中も現実も変わらない。眠って終えば楽になる」
歌うような飼い犬の声が、脳に響く。
眠気が私を包み込む……
目が覚める。
寝台の上に寝ている。
身体を起こす。
寝台に腰掛ける……
嫁ぐなら聡い人のところへ嫁ぎたい。
傾く日差しを尻目に、琴を爪弾く。
御簾の内にぞんざいに腰を下ろし、恋愛譚に花を咲かせる女房たちを眺めながら、そう思う。
私の家柄を鑑みるに、実際はそんなに色好みできるような立場ではないことは分かっている。
それでも、こう浮ついた話が出た時には、理想の相手というものがちらと脳裏を掠めるものである。
まったく、当たり前の生活というのは、窮屈なものだ。
だが、それほど捨てたものでもない。
知恵と教養とちょっとした演出で、零を一にも千にもできるのが、この社会の良いところだ。
私を取り巻く当たり前は、政の表舞台に女性が立つことは異例で、滅多にない。
だが、その政に立つ男を支えるのは女で、男の演出を企て取り計らうのも女。裏方の仕事をこなすのも、家を守り、細やかないろいろを取り計らうのも、子を産むのも女。
それはすなわち、裏を返せば、私たちは大人物の心を動かせれば、責任のない立場からひっそりと世を動かす事ができるのだ。
聡い者ほど、女はぞんざいに扱わないし扱えない。
それこそが私たちの当たり前なのだ。
琴を爪弾く。
わずかに素っ頓狂な、高い音が響く。
どうも琴は苦手だ。
物心ついた時から、私はこの当たり前の中にいた。
家のために自分を磨く使命があり、教養を身につける義務があり、この窮屈な当たり前に準じて生きていく普通の日常がある。
それが私の当たり前だ。
だが、一生付き合っていく“私の当たり前”を窮屈でつまらぬもののままにしておけば、その後に待ち受けるのは窮屈なつまらぬ毎日だ。
だから私は、私だけの当たり前を作ることにした。
取り巻く当たり前を武器に、譲れない当たり前を、私の当たり前に変えていけば良い。
私はむざむざ当たり前に喰い殺されるつもりはない。
おかれた当たり前に、時代が悪かったなどと遠吠えをあげながら犬死にするのは性に合わぬ。
それが、散々気が強いだの勝気だの言われ続けた、真の私の当たり前なのだ。
そうやって当たり前を変えるのを手伝ってもらう伴侶としては、当たり前を正しく理解し、強かに生きていける聡い者が望ましい。
だから聡い者が欲しいのだ。
それにそういう者と話すのは、楽しいし、飽きない。
やはり、家柄や容姿や性格よりも聡い者が良い。
私の結論は、結局そこへ帰結するのだ。
軽く琴をかき鳴らしてみる。
まあ、姫様、お上手になりましたわね。
そう語りかける女房に、ありがとう、と返し、私は空を仰ぐ。
御簾越しに美しい月が見えている。
もっと腕を磨かなくては、切実にそう思う。
夜はゆっくりと更けていく。
車が流れていく音がする。
エンジン音は絶え間なく続き、みんな忙しそうに国道を走り回っていることが、音だけでわかる。
歩道橋は暗い。
上と下に広がる街の明かりが眩しい。
ブルーライトが目に痛い。
日はとっぷりと暮れている。
まだ夏の初めだというのに、濃い夜の帳が下りている。
いつもこんな感じだ。
他の人よりちょっと長い、人生のモラトリアムを卒業してからというもの、帰路につく時間はもっぱら暗闇に包まれた夜になってしまった。
ぼんやりと考え込むことだけが趣味で、なるがままに流されてきた僕の今までを考えれば、今のこの生活は当たり前の帰結で、逃れようのない自業自得なのだが。
ふと足を止める。
くたびれた革靴と、ぞんざいに折られたジャケットの袖からほつれだした糸が目に入る。
そういえば僕は小さい頃、高いところから下の景色を覗き込むのが好きだった。
高いところから低いところを見下ろすと、下のアスファルトの地面が遠いような近いような、目の眩む感じがして、不思議で引き込まるようにいつも自然と覗いてしまう。
特に柵の向こうに見える下の景色は、近いようでずっと遠くて、でもすぐ手の届くところにありそうで…。
毎回下を覗き込むたびに、エレベーターやエスカレーターで降りるよりずっと、落下した方が早いのではないか、とぼんやり考えた。
そんなことを思い出して、僕は歩道橋の下を覗き込んだ。
歩道橋のど真ん中は、ちょうど車道のど真ん中。
大小様々なヘッドライトが、街の明かりを舐めながら、轟音を立てて通り過ぎていく。
歩道橋など見えていないかのように、みんなが街の明かりを照り返すアスファルトの上を通り過ぎる。
真っ暗な歩道橋は街の明かりにすっぽりと包まれた別世界だった。
昼とは遠近感がまるで違う。
街の明かりに照らされた下の光景は、小さい頃、大人の横で眺めていた時よりずっと、幻想的で、不思議で、近かった。
僕はゆっくりと身を乗り出した。
スマホが、からんっと滑り落ちた。
あの街の明かりの中に行きたいと思った。
僕はさらに身体を乗り出した。
ふわっと僅かに体が浮いて、それから重力が僕の背を一思いに押した。
僕の脳は、空を切りながらのんびりと思い出した。
遠い遠い、僕がまだ子どもだった時、下を覗き込む僕の手を無理やり引いて、歩くひっつめ髪の母を。
身を乗り出そうとする僕に声をかけ、こちらに引き戻すことを頑張っていた幼い姉を。
母も姉ももういない。
だからかな?
この後に及んでも、僕の脳はやはりぼんやりとそんなことを思った。
鈍い脳とは反対に、僕の体は、街の明かりを鋭く縦に切り裂いた。
頭に響く鈍い衝撃で閉じた瞼の裏には、街の明かりが逆さまに焼き付いていた。
幻想的に。遠くに。近くに。
やけに現実くさい喧騒が、遠くから聞こえていた。
夜露を織り交ぜる。
数日ぶりの朝日は、いつもよりずっと眩しい。
私は糸を繰り出して、機を織る。
つややかな夜露は、白い布の織り目にきらきらと輝いている。
カタカタと梶製の機が鳴る。
この衣は特別だ。
今日の夜までに織り上げてしまわなくてはならない。
さらさらと近くの川が流れている。
川の水は止まらない。
だから私は、川の歌うせせらぎに合わせて、糸を繰り出し、夜露を通し、機を動かす。
カタカタカタと機が鳴る。
棚機女は年々減っている。
今年の七夕も、過去最少を記録した。
生きとし生けるものはみな向上心豊かで、強欲だ。
生きる営みには、願いや不満は尽きない。
だからこそ棚機女は減っていくのだ。
神への感謝を伝えるはずの棚機は、いつの間にか、神に願いを託す七夕と姿を変えていった。
今やみな、七夕の星に、神に、短冊に…ありとあらゆる何かに祈りを捧げ、星空を見上げる。
もはや、この日に神のために機を織るのは、ちっぽけな2つの種族のみになってしまった。
蜘蛛と蚕。
遥か昔に糸を編むために足を裂いた八本足の種族と、糸を紡ぐために沈黙を貫いた口無しの種族。
私たち蜘蛛は、夜露を織り込んだ“夜霧の衣”を。
寡黙な蚕たちは、清らかで柔らかい“白雲の衣”を。
それぞれが神様に捧げるために、糸を紡ぎ、機を織る。
それにしても。
今年の七夕は良い天気だ。
今年のこの明るい太陽の下では、出来上がった衣がさそがし美しく映えるだろう。
きっと神様もお喜びになるはずだ。
川のせせらぎが聞こえる。
朝日がきらきらと、水面に反射して、星のように輝く。
きっと今頃、蚕族たちもこぞって絹の衣を織っていることだろう。
今日の天気なら、あちらが作った衣も真っ白に光り輝いて見えるに違いない。
今年も素敵な七夕を迎えられそうだ。
身を焦がすほどに輝く空を見上げる。
暖かな朝日が、織り上げられていく夜露を優しく輝かせていた。