薄墨

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5/1/2024, 12:47:14 PM

瓶の中から、ショッキングピンクの丸い風船ガムを一つ取って、口の中に放り込む。
奥歯でがりりと噛み砕けば、色相応のケミカルな味が、口の中いっぱいに広がる。
いつまでも変わらない、ケバケバしくて懐かしい、安定の味だ。落ち着く。ホッとする。

俺はもう一度、カラフルな瓶の中に手を突っ込み、オレンジ鮮やかな風船ガムを取り上げる。

「…ん」
隣に項垂れたままの、青白く細いアイツの手に差し出す。

「え…あ、ああ、ありがとう…」
アイツは戸惑いながら、一応受け取った。

「それ、風船ガム。味がしなくなるまで噛むんだ。…間違っても、呑むんじゃねーぞ」
「…食べ物なんですよね?それ」
アイツは怪訝そうな顔で、ガムを噛み始める。

「…ん、なんかこってり甘い?化学的といいますか、変な味ですね。……何からできてるんだ、これ」
神妙な顔でじっくりとガムを味わうアイツに、俺は笑う

「それ、消化すると毒だぜ。呑んだら終わり」
「ええっ!?」
アイツは慌てて口に手を突っ込もうとする。
「ははっ、冗談だよ。呑んでも別に何も起こんねえよ。糞に混じって出てくる」
「…な、なんだ。脅かさないでくださいよ。ま、まあそんなことだろうと思いましたけど!!…」

しばらくガムを噛み締める。

「なあ」
「…」
「正当防衛だからな。気にすんなよ」
「…き、気にしてませんよ、あんな奴…」
震える声でアイツが答える。

「…そうかよ」

口の中で、ガムがいい塩梅に柔らかくなった。
俺は、ガムを口の中で捏ね回し、舌にガムを巻きつける。
「気にしてないんです、本当に。これで良かったんです。だって、これで、僕は解放されたんです。もう期待に応えなくていいし、打たれることも、食事なしで閉じ込められることも、虫を食わされることもないし、うん。これで良かったんです。これで…」
アイツは喋り続けている。

初めてガムを噛むのに、随分と口が器用なやつだ。
俺はアイツの方に向き直る。
アイツは俯いて、ぶつぶつと呟いている。

「なあ」
アイツが顔を上げる。
俺はガムに息を吹き込む。
ガムはぷくぅと膨らんで、うっすら桃色の風船になる。

「わあ…」
アイツが目を見張る。俺はすかさず、もっと息を吹き込む、吹き込む……

パンッ
「わあっ!?」
破裂した風船ガムにアイツはたじろぐ。
そして…俺の顔を見て大笑いしだした。

…俺は、顔に張り付いたベタベタのガムを引っ張りながら「うえっー…調子乗りすぎちったよ」と顔を顰めて見せる。
アイツは笑いながら、水道へ俺を連れていき、ティッシュを使って、一緒にガムを取りだした。

「なあ」
「なんです?…あ、ガムだいぶ取れましたね」
「ああ、ありがと。…でな」
「はい」
「これ、やるよ」
俺は、風船ガムの入った瓶を差し出した。
丸い、カラフルな、自己主張が激しくてケバケバしくて…本当に色とりどりなガムが入った瓶。

「…いいんですか?」
「ああ」
アイツは微かに口角を上げた。

「…ありがとうございます。……では、さよなら」
「ああ、またな」
アイツは背を向けて歩き出す。

「ヨーゴシセツでも、上手くやれよー!」
俺はその背に声をかける。
アイツは、振り向かなかった。
ただ、右手にカラフルな瓶を掲げて、軽く振った。
から、ころ
カラフルなガムたちがぶつかり合う音が、聞こえた。

4/30/2024, 1:45:01 PM

巨大な蜻蛉が、羽を震わせている。
瑞々しい空気の中で、シダ植物が地面を覆っている。

私は、青々と茂った植物たちが作り出す、一面緑の景色を眺める。
息を吸う。新鮮な酸素がたっぷりと肺に滑り込む。
目の端には、前に落とした10円硬貨が、すっかり錆びついている。

目の前に広がる大森林たちは、いずれ、石炭になり、燃やされ、全てのエネルギーの始祖となる。
ここは古生代石炭期。正確には、時空の歪みで古生代石炭期に繋がっている部屋の中、である。

ここは、植物の楽園であり、昆虫の楽園であり、そして、私の楽園だ。

巨大な昆虫たちが、空を、陸を、葉の上を蠢いている。
植物たちが風に合わせて、一斉にゆらめく。
泉は植物たちの影で、ひっそりと朝露を受け取り、波紋を浮かべる。

熱中症待ったなしの、夏のようにじっとりとしたこの蒸し暑ささえも心地よい。

私は深く息を吸う。
くらり、と視界が揺れる。
心地良い。

私は何度も息を吸う。
その度に、爽やかな酸素は、私の肺に流れ込む。
酸素が見えてくるようにすら感じる。いや、私には見える。

現代では、私を必要としている人は誰一人いない。

兄弟の中でただ一人、受験に負け続けた人間。
人間関係を構築するのも下手で、扱いにくい人間。
好きなことも得意なこともない無味な人間。
とうとう生きるための呼吸すら上手くできなくなった、出来損ない人間。

そんな私を必要とする人は誰もいない。

…最後のチャンスで失敗し、家族からさえ、失望されてから、私は上手く息が出来なくなった。
いや、息はできるのだ。息はできるけど、酸素が入ってきてくれない。

治してくれる人はいなかった。
私を心配してくれる人もいなかった。
だから私はこの時代を見つけた。

私は深く深く息を吸う。
甘い酸素が肺の奥まで入り込む。胸が塞がる。

私の楽園はここだ。
私は永遠にここにいる。

深く深く息を吸う。
10円硬貨が見えなくなる。
深く深く息を吸う。
何かが腹から込み上げる。
深く深く息を吸う。
指先から震えが走る。

深く深く息を吸う。
気が、、、遠くなる、、、
意識、、が、、、遠ざかる、、、、
ああ、ここは私の楽園。だって空があんなにも美しい。

蜻蛉が羽をはためかせ、かもめのように遠ざかっていく。
シダの葉が大きく揺れて、一滴の朝露を落とした。

4/29/2024, 1:00:36 PM

子どもの声が聞こえる。

どんよりと、のしかかる灰色の雲をつんざくように、笑い声が飛び交う。
足元では、溶けかけた飴を運ぶ蟻たちが列をなしている。

俺は、公園のベンチに座り、履いてきた革靴の爪先を、地面に擦り付けている。
手に持ったペットボトルのキャップを捻り、中のスポーツドリンクを流し込む。

スポーツドリンクは酔いが回りやすいので酒とは飲み合わせが悪い、というのはデマ情報らしい。
アルコールによる喉の渇きに、スポーツドリンクのウリである、ミネラルや塩分といったものは不必要らしいが、だからといって、スポーツドリンクがアルコールを吸収させやすくするかといったら、そうでもないらしい。

…スポーツドリンクメーカーが、こぞっていう情報なので信用しきれない、と考えて、そこで自分の捻じ曲がった性根に気づく。
爽やかな口の中に、苦々しいものが混じった気分だ。

祝日。連休。国民の休日。
社会人にとって暇を持て余すような1日に、狙いすまして企画された同窓会を抜け出して、俺は1人、公園の蟻を見つめている。

性根が捻じ曲がっているからだろうか、それとも大人になるということはこういうことなのだろうか。
同窓会は大して楽しくなかった。

近況報告から始まる生活水準の探り合い、“ロマンティックな再会”目当ての現実主義者の睨み合い…
そんなギラギラの野心を剥き出しにした同級生を中心に、過度に美化された“青春”と称される思い出話が始まった時には、もう耐えきれなくなって、出てきてしまった。

あの時の友情に泥水をかけられた気分だ。

そう思いながらベンチに腰掛けて、目に入ったピカピカの革靴に、自分も同級生の目を気にして見栄え良くしていったのだ、ということに気づいて、非常に情けなくなった。

まだ大して飲んでいないはずなのに、脳がぼんやりと揺れる。頭を上げる気になれない。

革靴には、どう間違えたのか道を外れたような蟻が、ちょこちょこと登っている。

…と、その靴の先に、一対のスニーカーの爪先が現れた。

顔を上げてみる。
公園に屯しにきた中学生くらいだろうか、口を一文字に結び、負けん気の強そうな、何処か脆そうな顔をした少年が立っていた。

よく見ると、顔に擦りむけた傷が生々しく見られる。
髪は不揃いに伸び、ささくれた指の先に、縦筋の入った頼りなさそうな爪がついていた。

少年は何か言うでもなく、俺に、手に持っていたものの片方を勢いよく突き出した。
綿毛だ。たんぽぽの。

俺が勢いに押されるまま、それを受け取ると、少年は俺の横に腰掛けて、自分の分の綿毛を吹いた。

吐息に、綿毛は舞う。

すぐ落ちてしまうかと思ったが、こんなに凪いだ気候でも、風は吹いているらしい。
白い綿毛は風に乗って、ふわふわと空に漂う。

俺も、綿毛を吹いてみた。
白い綿毛は風に乗って、また違う場所へと、ふわふわ漂う。

…風が吹いている。成程、今日の風は確かに心地良い。
それから、俺と少年は綿毛を吹いた。
風に乗るってどんな気分なのだろう、と考えながら。

話は何もしなかった。
それが果たして正しいことなのか、俺には分からなかった。

綿毛を吹き終わると、どちらともなく立ち上がった。
歩き出そうとした少年に、俺は一言、なんとなく放る。
「ありがとう。…またいつか」

この先は何を言ったらいいか分からなかった。
でも、それを聞いた少年が、強張った頬を、少し緩めた気がした。

4/28/2024, 2:50:13 PM

紅葉の花が咲いている。
そうか、今はもうそんな季節か。

木の根元に寝そべり、梢を眺めて、そう気づく。
新緑の葉がさらさらと揺れている。
薫風が気持ちいい。やはり、初夏は良いものだ。

「…あ、いたいた。おーい、起きてるかー?」
軽く放られた声に、上身を起こす。
にこやかに笑う友人がそこにいる。

「お、起きてた」
友人は、微かに笑みを深めて、横に腰掛ける。
右頬に、片えくぼがふんわりと浮かぶ。

「何してたの?」
「…別に。いい天気だから昼寝でもしようかと思ってただけだよ」
「…そっか。今日は天気良いもんな」
そっけない私の答えに友人は、静かに笑みを深めて、それから私と同じように梢を見上げた。

若葉が風に揺られて、小さくさざめく。
暖かな陽の光が、青紅葉の緑を柔らかく透かす。

「…なあ、明日だよ」
友人がふと、何気ないように口にする。
「…」
「早いよな、三年って」

友人は楓を眺めながら呟く。

そう、もう明日で三年だ。
私たちが、一緒に暮らしていた、兄同然だった、あの子が行方知らずになってから。

ここは孤児院の中庭。教会域だ。
教会の慈善事業として建てられ、親のいない子どもたちが共同生活するこの土地は、神の名の下に保護されている安全な場所だ。

ここで、私たちのような戦災孤児や友人のような捨てられた子は、子ども同士の社会の激しさに晒されながら、でも外界からは守られながら…

「…どこ行っちゃったんだろうな」
「……ね」

三年前、私たちにとって兄代わりだったあの子は、突然姿を消した。善人で潔白で真っ直ぐなあの子は、私たちにとって、眩しい兄さんだった。

「…明日には帰ってくるかな?」
「…帰ってくるといいけどね」

兄さんが消えたのは、ふっと、私たちが目を離した刹那だった。
その日も、私たちと兄さんはずっと一緒に、この楓の木の下で遊んでいた。

あの時、ふいに強い風が僅かな灰塵を巻きあげて吹きつけて、その刹那、私たちは目を瞑った。
そして、目を開けた時には、兄さんはいなかった。

「兄さん…帰ってくるよな?」
「…分からない」

その後、周りの人間たちに、私たちは起こったことを説明した。
でも、みんなは兄さんのことは知らない、と言った。
…みんなはむしろ、血相を変えて、私たちの肩に手を置き、頭がクラクラするくらい、私たちを揺さぶった。
そして。彼らはみんなこう言った。

「目を閉じた刹那に、あなたたちが何処からともなく現れた」と。

「…兄さんはいたんだ。確かに」
「そうだ。兄さんはいた。きっと明日こそは帰ってくる」

兄さんは誰かに消されたのだろうか。
兄さんは自分から消えたのだろうか。

あの刹那に何があったのだろうか。

何も分からない。
でも、あれが刹那の出来事だったから、私たちは永遠に信じていられるし、待っていられる。

次の刹那で、兄さんが帰って来るかもしれない、と。

梢で、楓の葉たちがさざめいている。
耳は不思議だ。耳による音の記憶は、三年前の“刹那”すら思い出せるらしい。
そして、耳の記憶というものは、鼻とも繋がっているらしい。

さざめきを聴くと、三年前の刹那が鼻腔をくすぐる。
香るはずのない、甘い煙の香りが、刹那に掠める。

嗅いだことのない匂い。咳き込みそうなほど、煙たくて甘ったるい匂い。

風が梢を揺らす。
さわさわと、楓の葉と花が、柔らかい声でさざめく。
暖かい陽が、僕らを包んでいた。

4/27/2024, 2:47:09 PM

小さな手を握る。
雨はまだ降っている。

霧のような雨は、こんな細路地にも平等に降るらしい。
ゴミ袋や段ボールが汗のように、雨粒を滴り落としている。

小さな手が、僕の手を強く握り返す。
レインコートのフードの縁から、水滴がぽたぽたと落ちるのが見える。

「寒くないかい?」
僕は、傍にいる小さなレインコートに向かって声をかける。
黄色いフードがこくり、と動く。

「そうか、僕には少し寒いかな。」
僕は、自分の体温の高揚を感じながら、口を開く。
「このままだと、風邪をひいてしまいそうだ。…移動してもいいかな?」

頷いたのを確認して、僕は手を引いて、歩き始める。
暖かい家へ帰ろう。

ここは無法地帯。政府に捨て置かれた都市の一角。
他の地域から隔絶され、さまざまな種族や民族を抱えるこの街は、彼らには手に負えないものらしい。

隔絶されたこの街は、法律とは違った独自の文化を形成し、社会構造も善悪も貨幣さえも、この街にしか見られないものだ。

この街に、絶対父権的な存在はない。
子どもから老人に至るまで、誰の行動もみな、自由であり、無制限。
犯罪も自由。復讐も自由。命を絶つのも奪うのも自由。

誰かに自分の人生を決められることはないが、誰かに自分の人生を任せることもできない。
全てが自己責任。
時折、冷たくも感じるほどに、それは浸透している。

僕は、小さな手を引きながら、自宅へと向かう。
彼に出会ったのは一昨日だ。
家族を探していた僕の前で、彼は、青ざめた顔で路地を彷徨いていた。
それを見て、僕は、彼を連れて帰ることにした。

実のところ、僕はずっと一人でいるのが寂しかったのだ。
なにしろ、過干渉のないこの街に、“冷たすぎる”という考えを抱く人間だ。
僕には、誰かのぬくもりが必要だった。

普通の街では、“誘拐”という犯罪行為に当たるかもしれない、“子どもを連れ帰る”という行動も、この街では自由だ。親は取り戻すも自由、放っておくのも自由。

何より、彼も、僕について来ることを選んだ。

それから僕たちは、一緒に暮らし始めた。

僕は、彼の、冷たい手を握る。
過去の彼は、生きる意味を見いだせなかったのかもしれないし、生まれた時から彼は、生きる意味とは無縁だったのかもしれない。

何せ、ここにはいろんな人がいて、いろんな種族がいる。

僕は、生きる意味とかはよく分からない。
僕って昔から、自分の意志が希薄なんだ。だから、1人になるまで、自分が1人に向いていないなんて、思いもしなかった。
意志が白湯より薄い僕は、きっとこの街には向いていない。

でも、と僕は思う。
でも、僕と彼が一緒に生きていくことが、数少ない僕の大事なことなのではないか、と思っている。
生きる意味が無い同士の僕たちが、一緒にいることは大事なんじゃないか、と。

だから、僕たちは生きていく。
この冷たい街で、温かさを分け合いながら。

僕たちの家が見えて来る。
ふいに顔を上げた彼が、僕の方を見て、温かく微笑んだ。

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