「たとえ間違いだったとしても…」か。
随分甘ったれた言い草じゃないか。
私は、革張りの背もたれに背を預けながら、目の前の男たちを見つめる。
対面させられた時から、彼らは、犬のように大きな声でぎゃんぎゃんと喚いているのだが、まだまだ吠え足りないようで、やたらと何度も_彼にとっては、だが_“高尚な理論”とやらをこねくり回している。
「…つまり、俺のすることは、正義だ!この事件自体、正義の名の下に!俺たちのような弱者を救うためのもので!たとえ間違いだったとしても、俺は同じことをやった!」
…何度も何度も、ご熱心なことだ。
どうやら彼の言い分では、自分で計画を立て、自らの正義に従って、暴徒たちを扇動したいと言いたいようだ。
…だが、そんな筈はない。私には確信があった。
「なるほど。お前の妄想は分かった。で?実際のところはどうなんだ?…正直に話せ」
「何度もしつこい女だな!だから俺がやったんだよ!この状況を何年もかけて計画し、作り上げた!!たとえ間違いだとお前らが言おうと、俺が壊したんだよ、この街を…」
彼はどら声を張り上げる。
まだ同じことを吠える気のようだ。威勢が良い。
自信のない、所謂“小物”の犬程よく吠えるが、それは人間でも変わらないようだ。
「それはもう聞いた。…分かった、聞き方を変えよう」
私は一拍あけて、二の句を注ぐ。
「主犯はお前なのは充分わかった。私たちが知りたいのは計画犯の情報だ。話せ」
「だから、それはおr」
「お前なわけがないのは分かっているんだ」
再び吠えようとした彼を低い声でねじ伏せる。
「お前は“たとえ間違いだったとしても”こんな犯行をするつもりなんだろう?」
「…だからそう言っているだろう!」
「そこだよ」
私は、上身を乗り出し、彼の顔を覗き込む。
「たとえ〜だとしてもってのはな、立場や条件を“仮定”して使う言葉だよな?そういう言い方は、自分の置かれた立場が明確に分かってない奴が使う言い草だ。」
「…だからなんだって言うんだ!」
まったく、耳に障る声だ。
私は身体を引いて、ゆっくりと話し始める。
「今回の犯行は計画的なものだった。街中どこで起こった扇動についても、効率的で無駄がない。そして起こった暴動は、未だに鎮圧が難しい。つまり、突発的なものに見えて、継戦能力も保証された暴動というわけだ。…おそらくだが、こちらの展開速度、継戦のための補給、街の状況や勢力図……計画に関することは徹底的に調べ、念に念を入れ、何度もシュミレーションを重ね、長い月日をかけて成し遂げたものだろう」
「…そうさ!当たり前…」
「だからだ。」
「そんなに確実に計画を立てた張本人が、この犯行を行った際に置かれる自分の立場を“仮定”しなければならないほど、理解していないとは思えない。」
「…」
「分かるか?第三勢力に手を出させず、我々を敵に回すことを想定し、徹底的に戦禍を燃やし広げる…。そんな計画は、この犯行が、この街に関わるありとあらゆる者たちからどう見え、どう捉えられるのか、理解していないと出来ないのだよ」
「…」
「“たとえ間違いだったとしても”なんてな、今回の計画犯が、自分の犯行を語る時に使うわけがない。」
がっくりと、彼が項垂れる。
沈黙した彼に「まあ、そこまでして仲間のことを吐かない姿勢には敬意は持てるがな」と本音を投げる。
微かに頭をもたげた彼を一瞥し、続ける。
「だが、こちらも仕事だ。しかも命がかかっていると来ている。敬意は払うが、これからのことは覚悟しておくといい」
冷たい声で言い置いて、私は立ち上がる。
対応しなくてはならない緊急事態は、この時間にも山ほど生まれているのだ。いつまでも尋問と言葉遊びに時間を取るわけにはいかない。
…しばらく寝られそうにないな。
思わず吐きそうになったため息を呑み込み、私は次の面倒事へ向かった。
リキュールを一雫垂らす。
白いミルクのクラウンが跳ねて、コーヒーの濃い茶色がゆっくりと広がっていく。
マドラーでゆっくりと混ぜると、リキュールはみるみるミルクの中に、マーブルを描きながら、溶けてゆく。
今、混ざってしまったコーヒーリキュールの雫は、もうコーヒーリキュールには戻れない。
同様に、たった一雫であれ、コーヒーの雫を受け入れてしまったミルクは、もうノンアルコールの牛乳には戻れないのだ。
僕は、リキュールの雫たちをすっかり混ぜ終わると、カップを持って立ち上がり、電子レンジへと向かう。
つきっぱなしのテレビ画面の外では、大勢の人たちが騒いでいる。
怒号と悲鳴と泣き叫ぶ声…。
大ニュースだ。画面越しの…この地域の、関わりのない者たちには、それだけに過ぎないが、画面向こうの地域では、この後しばらくは語り継がれるレベルの世紀の大事件だろう。
今日の現地時間午前に、突如、主要国の大都市で起こった大規模戦闘は、全世界を震撼させている。
実際、テレビニュースもインターネットニュースも、現在の状況を追いかけるのに必死だ。
リキュールの混ざってしまったミルクは、もうノンアルコール飲料ではない。
泥の雫が混ざってしまった水は、綺麗な水には戻れない。
それは人のコミュニティも例外ではない。
僕は温め終わったカルアミルクを啜る。
ほんのりと温度の増したアルコールは、確実に、いつもより素早く、脳に染み渡っていく。
どうやら、僕たちの準備した“雫”は上手く混ざり、人々を唆して、平和な街を別物に変えたようだ。
テレビの向こう側ではますます諍いの騒がしさは増し、スタッフも慌てながら、地獄の様相を呈した街中を駆け巡っている。
僕たちが“正常な世界”とやらに見捨てられ、この世に絶望し、世界を破壊し尽くしてやる、と、復讐を決めてから数十年。
最初の計画は、大成功を収めているらしい。
当たり前だ。念入りに、何度も、怒りに飲み込まれないように冷静に、準備してきた計画だ。成功しないわけがない。
カルアミルクを啜る。
腹の中に暖かい満足感が広がる。
もちろん、僕たちの計画はここで終わりではない。
だが、僕の役目は、そろそろ終わるだろう。
僕は立ち上がり、パソコンを立ち上げる。
そして、エンターキーを叩く。
作り上げてきた“雫”を送り出す為に。
今の平和を守る秩序を、混沌に変える為に効果的な“雫”は、人員だけではない。
僕の、作り上げた“雫”は、“言葉”だ。
かくして、僕の“雫”は垂らされた。
インターネットに、世界中に。
…あとは、この平和な世界のクソッタレた秩序をお守り申している方々が、訪問にいらっしゃるのを待つだけだ。後は、この世界をぶち壊したいと願う仲間たちが引き継いでくれるだろう。
僕は椅子に腰掛ける。
背もたれに背を預け、ゆっくりと目を閉じる。
…良い夜だ。
こんなに心が安らいだ夜は、何時ぶりだろうか。あの時ぶりだろう。
僕たちが、周りの大人たちに脅かされた毎日から、命を懸けて逃げ出したあの日。
逃げ出した先で、大人の保護がない子どもに待ち受ける未来の、全貌を知った日。
そして、そんなクソッタレな世界の秩序を恨んだ日…。
そんな世界も変わるのだ。僕たちの垂らす雫で。
赤ん坊の頃以来、体験した覚えのない、懐かしい、柔らかな意識の遠のきが訪れる。
僕は、その“眠気”という感覚に、初めてなんの懸念も持たずに、全身を預けた。
「何もいらない。」
そっと開いた紙に書き殴られていたのは、たった一言だった。
なんだ、これは、と思った。
私は、誕生日プレゼントのリクエストを訊いたはずだったのだ。
なんでも買ってあげる、と。
つい最近も、やれ、もっと複雑でカッコ良い玩具が欲しいだの、やれ、最新のゲームカセットが欲しいだのと、駄々を捏ねていたはずだ。
それなのにこれはどういうことか。しかもなんと雑に書き捨てられた字だろう。
私は紙を握りしめ、破り捨てようとして、結局、ため息をついて紙の皺を丹念に広げる。
久しく見ていなかった姉の字だ。
私は、姉が家族の中で一番嫌いだ。
姉は、したいことがあると言い放ち、まもなく、その“したいこと”やらのために、連絡を絶ち始め、縁を絶ち始め、最後には、私たち家族と縁を切った。
両親は心配と動揺で、すっかり気が触れたように、“異常行動”を重ね始め、私たち兄妹は、家族が失った隙間に囚われないために、必死に足掻くことが必須になった。
姉が蒸発してからの出来事は、思い出すだけで目が回る。私が実家に帰らなくなったのも、その出来事がきっかけだ。
私は私たちを捨てた姉に、行き場のない憤りと恨みをずっと抱いてきた。
だが、どうしても姉にもらったものが捨てられないのは一体どういうことだろう。
部屋には、姉からお下がりでもらったぬいぐるみが鎮座しているし、幼い頃に姉が交換してくれたシール手帳も、未だに引き出しの中に隠してあるし、姉に描いてもらった絵は、クリアファイルに閉じられている。
この失礼極まる一言だけの手紙も、仲間入りするだろう。
姉を見つけたのは、私の執念の賜物だ。
姉がいなくなったことで崩壊した家の様子を、私は姉に知ってほしかった。
…たとえ、姉が私たち家族を巻き込まないために縁を切ったのだとしても。私は姉に、罪悪感を抱いて欲しかった。後悔して欲しかった。
SNSで、姉らしきアカウントを見つけた時は舞い上がった。毎日チェックして、姉だと確信を持って、でも姉は警戒心が強く、私にも気づいているはずだから_逃げられないように、出来るだけ何気なく、私は訊いたのだ。誕生日プレゼントのリクエストを。
その答えが「何もいらない。」
ふざけるな、と思う。
何もいらない。それはこっちのセリフだ。
私たちは何もいらなかった。姉の気遣いも遠慮も配慮も、私たちにはいらなかった。
私たちの父も母もただ、家族全員で生き抜いていけたら、何もいらなかった。
…私のしてきたことは正しかったのだろうか。家族を捨てる選択をした姉を探して、見つけて、余計なことを言ってみて…
お金と時間とチャンスを放り投げて、姉を追いかけて。
分からない。分かりたくない。
ただ、一つだけはっきり分かる。
このことは、家族にはとても言えない。
手紙をしまいこみ、スマホの電源を落とす。
薄靄のかかったような不透明な空気の中に、近づいてきた島の輪郭がうっすらと浮かび上がる。
ぽっかり、青空が見えている。
清潔なだけの公共会議室。
真四角の青空が、僕を見下ろしている。
デスクの上に、人数分置かれた書類。
上席に合わせて引きずってきた、キャスター付きのホワイトボード。
スライドを映し出す、ピンと張られた、暗幕を彷彿とさせる、スクリーンと、それに添えつけられた、ノートパソコン。
ひとつひとつ、確認する。
手の中に握り込んだポインターのスイッチを、ぎゅっと押しながら、これらのモノに向かって、俺は呟く。
「たのむぞ…!」
無事に、一点の赤い光を照射したポインターの先を確認し、僕はジャケットのポケットに、ポインターを滑り込ませる。
そして、今回の会議の主役__カバーの暖色は日焼けし、読み古されている__“問題”図書を手に取る。
誹謗中傷、ハラスメントなどが問題視されている現状、世の中には積極的に使われない、所謂“自主規制語”が増えている。
そして、そんな言葉が目につき、文句や難癖や苦言を呈する人も増えている。
故意に言葉で人を傷つけることは、卑怯で残酷で、あってはならないことだ。
でも、こんな神経質にならなくても…、と個人的にはいつも、怒りと呆れと諦めの混じった感情で、思う。
この図書もその中の一つだ。
先日にクレームがあり、会議が開かれることとなった。
僕がしていたのは、その準備だ。
ずいぶん古い本だ。差別語とか、自主規制とか、そんな概念のない時代から生き残ってきた、読み継がれてきた本だ。今の時代にはそぐわない。確かにそう思う。
それでも、この図書、この本は、僕の世界を、人生を、世界を変えてくれたモノだ。
そして、あの時の僕みたいな状況の人には、きっと希望を与えてくれる、そんな本だ。
だからこの本はいつでも、永遠に読める本であってほしい…
もしも未来が見れたなら。
この“自主規制”がどこまで行くのか、僕はそれが知りたい。
僕の好きな本、僕の好きな映画、僕の好きな言葉は、未来でいくつ残っているのだろうか。
未来が見れたら、見られたら…。
僕は天井を仰ぎ見る。
四角い囲われた窓の向こう、どこまでも広がる青空は、悠々と顔を覗かせている。
雲が、窓枠の外へ、ゆっくりと自由に流れていった。
白々しい。
俺は、広場の前に集まった群衆を眺めて思う。
色がない。誰にも。
こんな状態で、投票で決定を下すなんてイカれてんのか、本気で、そう思う。
広場の真ん中、小高い演説台の横に並ぶ、いわゆるリーダー候補共も、みんな色がないのだろう。
現に今、演説台の上で演説らしき真似をしている奴も、大したことを言っているわけではない。
彼らは穏やかに、淡々と、言葉を述べる。
それを聞く人々も、淡々と、耳に音を入れ、情報を処理している。
皆一様に、ゆるゆると首肯いている。
ここは無色の世界。無色の国。
目に入るものは何もない。光がすり抜けるものばかりのこの世界では、光を拾うという前時代的な視覚機能では、モノはおろか、生き物、ここに住むヒトさえも認識できないのだ。
そう、ヒトも。
彼らはペスフィフル(透過)人。誰も光を反射しない。
そして、彼らはシンクロル(無色)人。
どの住民の思考にも意見にも偏りがなく、個々の個性も皆無に等しい。
皆一様に整列し、誰もが同じことを言い、同じことをし、同じものを目指し、同じ正義を語る。…いや、彼らに“正義”なんて偏った概念はないのかもしれない。
とにかく、思想もモノも生物も、何もかもが、無色透明の世界。
無色透明は、曇りなき純粋な健全世界などではなく、実のところ、偏りも個性もない集まりであり、それは何もないということである。
これが、俺がここに滞在して学んだ唯一のことだ。
…あまりに、濃く、一方的に偏った色に染まった、祖国に耐えかねて、真っ白のまま逃げ出してきた俺には、この世界の、ここの人々は_最初こそ魅力的に映ったものの_中途半端に梯子をずらされたような、奇妙な味気なさを感じさせた。
彼らに関わっていると、彼らの透けた体の向こう側に、中身のない、染まったことすらない、真っ白で白々しい、白紙が透けて見えてくる…そんな気がする。
…苦労も人生経験も何一つ詰まっていない、空っぽの俺も似たようなモンだが。
ふっと自分の手を見て、ギョッとする。
…俺の指先、色が無くなってきてないか?
祖国で叫ばれていた、とあるスローガンを思い出す。
「朱に交われば赤くなる」
…ここに長居するのはヤバいかもしれない。
俺は慌てて、彼らに背を向け、荷物を背負い直した。