リキュールを一雫垂らす。
白いミルクのクラウンが跳ねて、コーヒーの濃い茶色がゆっくりと広がっていく。
マドラーでゆっくりと混ぜると、リキュールはみるみるミルクの中に、マーブルを描きながら、溶けてゆく。
今、混ざってしまったコーヒーリキュールの雫は、もうコーヒーリキュールには戻れない。
同様に、たった一雫であれ、コーヒーの雫を受け入れてしまったミルクは、もうノンアルコールの牛乳には戻れないのだ。
僕は、リキュールの雫たちをすっかり混ぜ終わると、カップを持って立ち上がり、電子レンジへと向かう。
つきっぱなしのテレビ画面の外では、大勢の人たちが騒いでいる。
怒号と悲鳴と泣き叫ぶ声…。
大ニュースだ。画面越しの…この地域の、関わりのない者たちには、それだけに過ぎないが、画面向こうの地域では、この後しばらくは語り継がれるレベルの世紀の大事件だろう。
今日の現地時間午前に、突如、主要国の大都市で起こった大規模戦闘は、全世界を震撼させている。
実際、テレビニュースもインターネットニュースも、現在の状況を追いかけるのに必死だ。
リキュールの混ざってしまったミルクは、もうノンアルコール飲料ではない。
泥の雫が混ざってしまった水は、綺麗な水には戻れない。
それは人のコミュニティも例外ではない。
僕は温め終わったカルアミルクを啜る。
ほんのりと温度の増したアルコールは、確実に、いつもより素早く、脳に染み渡っていく。
どうやら、僕たちの準備した“雫”は上手く混ざり、人々を唆して、平和な街を別物に変えたようだ。
テレビの向こう側ではますます諍いの騒がしさは増し、スタッフも慌てながら、地獄の様相を呈した街中を駆け巡っている。
僕たちが“正常な世界”とやらに見捨てられ、この世に絶望し、世界を破壊し尽くしてやる、と、復讐を決めてから数十年。
最初の計画は、大成功を収めているらしい。
当たり前だ。念入りに、何度も、怒りに飲み込まれないように冷静に、準備してきた計画だ。成功しないわけがない。
カルアミルクを啜る。
腹の中に暖かい満足感が広がる。
もちろん、僕たちの計画はここで終わりではない。
だが、僕の役目は、そろそろ終わるだろう。
僕は立ち上がり、パソコンを立ち上げる。
そして、エンターキーを叩く。
作り上げてきた“雫”を送り出す為に。
今の平和を守る秩序を、混沌に変える為に効果的な“雫”は、人員だけではない。
僕の、作り上げた“雫”は、“言葉”だ。
かくして、僕の“雫”は垂らされた。
インターネットに、世界中に。
…あとは、この平和な世界のクソッタレた秩序をお守り申している方々が、訪問にいらっしゃるのを待つだけだ。後は、この世界をぶち壊したいと願う仲間たちが引き継いでくれるだろう。
僕は椅子に腰掛ける。
背もたれに背を預け、ゆっくりと目を閉じる。
…良い夜だ。
こんなに心が安らいだ夜は、何時ぶりだろうか。あの時ぶりだろう。
僕たちが、周りの大人たちに脅かされた毎日から、命を懸けて逃げ出したあの日。
逃げ出した先で、大人の保護がない子どもに待ち受ける未来の、全貌を知った日。
そして、そんなクソッタレな世界の秩序を恨んだ日…。
そんな世界も変わるのだ。僕たちの垂らす雫で。
赤ん坊の頃以来、体験した覚えのない、懐かしい、柔らかな意識の遠のきが訪れる。
僕は、その“眠気”という感覚に、初めてなんの懸念も持たずに、全身を預けた。
4/21/2024, 2:35:48 PM