『大切なもの』
「大切なものほど失って初めて気づく」なんてよく言うけどさ。正直、そんなのただの世迷い言だろってずっと思ってたんだ。
でも、棺の中のお前を見て気づいたよ。それが本当だったんだって。
お前のことが、何より大切だったんだって。
これもきっと、もう聞こえてないんだろうけどさ。
『バカみたい』
あなたの背を追うように動いてしまう視線も、あなたの言葉一つで分かりやすく乱高下する気分も、あなたの香りに自然と上がる体温も。
――ああ、本当にバカみたいだな、俺。
届くわけがないと、叶うわけがないと、分かっていたはずなのに。それなのに、こんなにも振り回されて、悩んで、それでも諦められなくて。
そんな俺の心中も知らずに、あなたはふわりと柔らかな笑みを浮かべて、いつものように優しいまなざしで俺をじっと見つめる。
それが誰にでも向けられるものだと分かりながらも高鳴ってしまう心臓に、漏れ出しそうになった嘲笑をそっと押し殺した。
『欲望』
彼女の頬を伝う涙。月明かりに照らされて輝く雫が溢れてはこぼれ落ちていくのを見て、俺はようやく自分の行為が愚かなことだったのだと悟った。
欲望のままに掻き抱いた細い体躯が、腕の中で小さく震えている。
「……ごめん」
ぽつりと零した謝罪の言葉に、彼女が俯けていた顔をゆっくりと上げる。その瞳は恐怖に揺れていて、口元には赤く血が滲んでいた。先程、俺が乱暴に口づけてしまったせいで出来た傷。今更湧いてきた罪悪感に駆られてその紅にそっと触れれば、彼女は大げさに肩を跳ねさせた。
すっかり怯え切ってしまった様子の彼女に、俺は居た堪れなくなってその体に回していた腕を離した。
「ごめん、ごめんな」
じわりと、目の前が滲む。彼女が目を見開いたのが、ぼやけた視界の中でもなんとなく分かった。泣きたいのは彼女の方だというのに、俺に涙を流す資格なんてないと分かっているのに、自分の情けなさを痛いほど実感してしまえばもう堪えることは出来なかった。せめて嗚咽は漏らさないようにと唇を噛んでいれば、彼女の手が俺の頬にそっと添えられた。
「…大丈夫、大丈夫だよ」
彼女の優しい声が、ひっそりとした夜の空気に響いて溶けていく。思わず目を向ければ、そこにはどこかうっとりとした表情の彼女がいた。
「ごめんね、もう別れるなんて言わないから。…だから、泣かないで?ね?」
鮮烈な色彩が滲む唇が紡ぐ甘い言葉。
思考の全てが、彼女の声に持っていかれる。
駄目だ、これ以上彼女の側にいたら、また彼女を傷つけてしまう。
でも、彼女がそれでも良いというのなら、離れる必要なんてないんじゃないか。
でも、だって、でも。
ぐるぐると考えを巡らせる俺に、彼女は優しく口付ける。
柔らかな感触とふわりと香った甘やかな香りに、僅かに残っていた理性が一つ残らず掻っ攫われていく。
「ほら、帰ろう?」
いっそ幻想的だと思えるほどに綺麗な笑みを浮かべる彼女。その手を取らないという選択肢は、もう今の俺には無かった。
重ねた手から伝わる仄かな体温が、今はただどうしようもなく愛おしくて仕方がなかった。
『花束』
「今までありがとう」とか、「沢山迷惑かけてごめんね」とか、「あなたと一緒にいられて幸せでした」とか。
そんな想いの一つ一つを丁寧に束ねて、貴方に贈ろう。
目の前に差し出された色とりどりの花々を見て、貴方はどんな顔をするだろうか。
ふわりと綻ぶ笑顔が見たくて、私は一歩踏み出した。
両手で抱えた花束を、貴方の元へと届けるために。
『どこにも書けないこと』
どこにも書けないこと、なんていうものは、多分この世に存在していないんだと思う。
実際僕は、誰にも言えないと抱え込んできた秘密も、表立って口にするのは憚られると飲み込み続けてきた不平不満も、あの人への叶いもしない恋心だって全部、日々の記録とともに日記帳の中に書き記している。
要するに、書けはするのだ。行き場のない想いを言葉にして、文字として綴ること自体はいとも簡単に出来てしまうのだ。それがどれだけ酷い内容であろうが、くだらないことであろうが、文章として残すことにはなんの問題もない。
でも、多分多くの人は、どこにも書けないことを腹の中に抱えている。というよりは、抱えているように感じている。
けれどそれは、正確には『どこにも書けない』のではない。
『どこにでも書けるが、誰にも見せられない』もの。
それが、僕たちが『どこにも書けない』と感じるものの正体。
だから、僕は思うのだ。飲み下して溜め込んだ負の感情をどこにも書けない、誰にも言えない。そう嘆く前に、一度、目の前にまっさらなノートと一本のペンを用意してみて欲しい。誰にも言えないのなら、せめて自分自身にだけ見えるような場所に、文章として残してみて欲しい。
きっとそれだけで、心は軽くなるから。