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『欲望』

彼女の頬を伝う涙。月明かりに照らされて輝く雫が溢れてはこぼれ落ちていくのを見て、俺はようやく自分の行為が愚かなことだったのだと悟った。
欲望のままに掻き抱いた細い体躯が、腕の中で小さく震えている。

「……ごめん」

ぽつりと零した謝罪の言葉に、彼女が俯けていた顔をゆっくりと上げる。その瞳は恐怖に揺れていて、口元には赤く血が滲んでいた。先程、俺が乱暴に口づけてしまったせいで出来た傷。今更湧いてきた罪悪感に駆られてその紅にそっと触れれば、彼女は大げさに肩を跳ねさせた。
すっかり怯え切ってしまった様子の彼女に、俺は居た堪れなくなってその体に回していた腕を離した。

「ごめん、ごめんな」

じわりと、目の前が滲む。彼女が目を見開いたのが、ぼやけた視界の中でもなんとなく分かった。泣きたいのは彼女の方だというのに、俺に涙を流す資格なんてないと分かっているのに、自分の情けなさを痛いほど実感してしまえばもう堪えることは出来なかった。せめて嗚咽は漏らさないようにと唇を噛んでいれば、彼女の手が俺の頬にそっと添えられた。

「…大丈夫、大丈夫だよ」

彼女の優しい声が、ひっそりとした夜の空気に響いて溶けていく。思わず目を向ければ、そこにはどこかうっとりとした表情の彼女がいた。

「ごめんね、もう別れるなんて言わないから。…だから、泣かないで?ね?」

鮮烈な色彩が滲む唇が紡ぐ甘い言葉。
思考の全てが、彼女の声に持っていかれる。

駄目だ、これ以上彼女の側にいたら、また彼女を傷つけてしまう。
でも、彼女がそれでも良いというのなら、離れる必要なんてないんじゃないか。
でも、だって、でも。

ぐるぐると考えを巡らせる俺に、彼女は優しく口付ける。
柔らかな感触とふわりと香った甘やかな香りに、僅かに残っていた理性が一つ残らず掻っ攫われていく。

「ほら、帰ろう?」

いっそ幻想的だと思えるほどに綺麗な笑みを浮かべる彼女。その手を取らないという選択肢は、もう今の俺には無かった。

重ねた手から伝わる仄かな体温が、今はただどうしようもなく愛おしくて仕方がなかった。

3/1/2024, 2:19:42 PM