『海の底』
暗くて、さみしくて、冷たい。
陽の光も届かないような真っ暗な場所で、今日もぼくは生きている。
ここは、ふかいふかい海の底。
息を吸おうとすればたちまち水が気道を塞いで、言葉を紡ごうと吐き出した息はぽこぽこと小さな泡へと変わる。
上手に泳げないぼくは、どこにも行くことができない。
ただずっと、ここで静かに沈んでいるだけ。
誰も見つけてはくれない。引き上げてくれる人なんていない。そもそも誰も、ぼくのことを見てすらくれなかった。
ここは、ふかいふかい海の底?
明るくて、たくさんの人がいて、あたたかい。
太陽は穏やかに街を照らして、地面にできた水たまりがきらきらと輝いている。
地面に足が着いている。口を開いても、しょっぱい海水が入り込んでくることはない。いろいろな音が、空気を震わせて両耳にはっきりと届く。
でも、それなのにどうして、ぼくはこんなにも息苦しいんだろう。どうして、言葉が一つも出てこないんだろう。
誰もぼくを見てくれない。誰も、引き上げてくれない。
ああ、きっとここは、暗くてさみしくて冷たい場所。
ぼくにとっての、ふかいふかい海の底。
『逆さま』
窓の向こう、逆さまのあの子と目が合った。
真っ青な空を背にして自由落下していく、僕よりも少し小さな体。ぱらぱらと舞う長い黒髪と、風に翻る濃紺のスカート。一切の光を感じられない真っ黒な両目と、視線がぶつかった気がした。
本当に一瞬だった。瞬き一つで消え失せてしまうほどの、ほんの僅かな時間。
音は、聞こえて来なかった。しんと静まり返った教室に佇んでいれば、運動部の声や吹奏楽部の楽器の音だけが微かに響く。何もかもがいつも通りだ。まるで何もなかったかのように。
けれど、白昼夢と呼ぶにはあまりに生々しい光景が、今も網膜に焼き付いて離れてくれない。
疲れていただけかもしれない、きっと見間違いだろう。
僅かに残された希望に縋るように窓に手を掛け僅かに開けば、そんな甘い考えを打ち砕くかのようにざわざわと騒がしい声が窓下から聞こえて来る。
「人が落ちた!」
「救急車!早く!」
どくん。分かりやすく心臓が跳ねた。彼女が屋上から飛び降りたのだと、先程見たあの光景が現実の物だったのだと、そう確信した。反射的に窓を締める。全身から力が抜け、へたりとその場に座り込んだ。荒くなっていく呼吸と震える手足を抑え付けるように、自分の身体を抱え込んで蹲る。
脳裏に蘇ったのは、遠い昔に笑い合った時の彼女の笑顔。そしてついさっき目撃した、いつからか全く笑顔を見せなくなった彼女の、見たこともないほど虚ろな表情。
――どうして助けてくれなかったの?
見て見ぬふりをしてきた自分を責める声が、聞こえる。
すぐそばで、耳元で、彼女の声が。
「ごめん、ごめん、ごめん…ごめんな…」
自然と口から零れ出たのは、謝罪の言葉だった。
今更になってとめどなく溢れ出した言葉は、伝えたい相手に届くことはなく、ただ冷たい空気に溶けて消えて行く。
視界の端でゆらりとカーテンが揺れたのは、きっと気のせいだと思うことにした。
『さよならは言わないで』
閑散とした駅の構内。冷たく沈黙する改札達を背に、彼がくるりとこちらを振り返った。
柔らかな笑み。目の前の彼が浮かべるそれはいつもと何ら変わりのないようで、けれど今日はどこか、僅かな翳りのようなものがある気がした。細められた目の奥で淋しげに揺らいだ瞳に、俺は今更、本当にこれで最後なのだなと実感する。きっとこの先、こうして二人で会うことはもう無いのだ。全く無かった実感が、彼がもう一歩踏み出せば二度と触れられなくなってしまう今のこの状況になってようやく、俺の胸の中にふつりと湧き上がってくる。
「…本当に、これで最後なんだな」
「はは、なに、今更?」
ぽつりと零せば、彼は可笑しそうに笑い声を漏らした。
ずっと変わらない笑顔だ。今までずっと隣で見てきた、世界で一番馴染みのある笑顔。それなのに今は何故か、それが酷く遠い物に感じる。
しばらくして遠くの方から微かに、次の電車がホームにやって来る旨を伝えるアナウンスが聞こえた。どうやらもう時間らしい。
彼が左腕に嵌めた時計へ目線を落とし、何かを押し殺すかのように大きく息を吐き出した。そしてそれから、もう一度俺の方へと顔を向ける。
寒さのせいですっかり色を失ってしまった唇が、おもむろに開かれる。一瞬歪められた口角に、彼が今何を言おうとしているのか嫌でも察せられてしまって、思わず被せるようにして声を張り上げた。
「またな」
二人きりの空間にいやに大きく響いた、未練がましい別れの言葉。驚きなのかそれともそれ以外の何かによるものなのか、彼は大きく目を見開いた。照明の光を反射しながら、両の瞳がぐわりと揺れる。
きっと、ずるい。ずるいし、格好悪い。もう会えないのだと、またいつかなんて俺達には存在しないのだと、分かっているのに。でも、どうしても彼の口からさよならなんて残酷な四文字を聞きたくなかった。声に出してしまえば、きっとその通りになってしまうから。
「…うん、またね」
最初に口に出そうとしていたのとはきっと違うのだろうそんな言葉を、彼は俺へと投げかけた。先程の柔らかな笑みを浮かべながら、震える声で。
俺はもう、何も言えなかった。ただゆっくりと去って行くその背中を、溢れ出す涙を拭いながら見送るしか出来なかった。滲む視界が再び明瞭になった頃にはもう、彼の姿はどこにもなかった。
永遠の別れの代わりに投げ付けた再会を願う言葉が言霊になってくれることは、きっと無いのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、無機質な光から逃げ出すように駅の階段を下りる。外はもうすっかりと夜の闇に包まれていた。
胸中に残った蟠りを誤魔化すように吸い込んだ息を一気に吐き出せば、白い靄となって真っ黒な空に溶けていく。
仄かな月明かりの下、いつも通りの日常へ帰る道を、俺はただ一人で歩き出した。