『さよならは言わないで』
閑散とした駅の構内。冷たく沈黙する改札達を背に、彼がくるりとこちらを振り返った。
柔らかな笑み。目の前の彼が浮かべるそれはいつもと何ら変わりのないようで、けれど今日はどこか、僅かな翳りのようなものがある気がした。細められた目の奥で淋しげに揺らいだ瞳に、俺は今更、本当にこれで最後なのだなと実感する。きっとこの先、こうして二人で会うことはもう無いのだ。全く無かった実感が、彼がもう一歩踏み出せば二度と触れられなくなってしまう今のこの状況になってようやく、俺の胸の中にふつりと湧き上がってくる。
「…本当に、これで最後なんだな」
「はは、なに、今更?」
ぽつりと零せば、彼は可笑しそうに笑い声を漏らした。
ずっと変わらない笑顔だ。今までずっと隣で見てきた、世界で一番馴染みのある笑顔。それなのに今は何故か、それが酷く遠い物に感じる。
しばらくして遠くの方から微かに、次の電車がホームにやって来る旨を伝えるアナウンスが聞こえた。どうやらもう時間らしい。
彼が左腕に嵌めた時計へ目線を落とし、何かを押し殺すかのように大きく息を吐き出した。そしてそれから、もう一度俺の方へと顔を向ける。
寒さのせいですっかり色を失ってしまった唇が、おもむろに開かれる。一瞬歪められた口角に、彼が今何を言おうとしているのか嫌でも察せられてしまって、思わず被せるようにして声を張り上げた。
「またな」
二人きりの空間にいやに大きく響いた、未練がましい別れの言葉。驚きなのかそれともそれ以外の何かによるものなのか、彼は大きく目を見開いた。照明の光を反射しながら、両の瞳がぐわりと揺れる。
きっと、ずるい。ずるいし、格好悪い。もう会えないのだと、またいつかなんて俺達には存在しないのだと、分かっているのに。でも、どうしても彼の口からさよならなんて残酷な四文字を聞きたくなかった。声に出してしまえば、きっとその通りになってしまうから。
「…うん、またね」
最初に口に出そうとしていたのとはきっと違うのだろうそんな言葉を、彼は俺へと投げかけた。先程の柔らかな笑みを浮かべながら、震える声で。
俺はもう、何も言えなかった。ただゆっくりと去って行くその背中を、溢れ出す涙を拭いながら見送るしか出来なかった。滲む視界が再び明瞭になった頃にはもう、彼の姿はどこにもなかった。
永遠の別れの代わりに投げ付けた再会を願う言葉が言霊になってくれることは、きっと無いのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、無機質な光から逃げ出すように駅の階段を下りる。外はもうすっかりと夜の闇に包まれていた。
胸中に残った蟠りを誤魔化すように吸い込んだ息を一気に吐き出せば、白い靄となって真っ黒な空に溶けていく。
仄かな月明かりの下、いつも通りの日常へ帰る道を、俺はただ一人で歩き出した。
12/4/2023, 9:16:29 AM