ご飯は手抜き、大口開けてあくびしようが冷蔵庫を足で閉めようが誰からも文句を言われない。用を足すときは閉じ込めに遭ったら大変だから、を言い訳にドアを開放。テーブルの上は常に物置きと化し、たまーに気まぐれに整頓してもキレイなのは最初だけ。否、むしろ必要な物にすぐ手が届くと思えば実用性抜群ではなかろうか。ソファーの端もこれまた同様に、でも、ごろごろできるスペースの確保だけは怠らない。暑い日にわざわざ汗かいてまで外出したくない。仕事帰りに買い物?疲れてるのに行ってられるか!そんな私のためにあると言っても過言ではない、庶民の味方ネットスーパー。ドライバーのおじさんとは、今やすっかり顔なじみだ。
とても快適。だからこそ、気を許した相手以外は絶対に招待しない。
平日休みの日に二度寝しまくり、寝坊しても焦らなくていい、誰にも咎められない幸せ。二度寝だって物は考え様、いやいやこれは瞑想なんだと言い聞かせれば、何となく「やっば。私、いまめっちゃ整ってるやん」感を味わえる。いま流行りの丁寧な暮らしとやらには程遠いが、おかげで頭すっきり、目もぱっちり。素がズボラ気質の私には何ちゃって気分を感じるくらいが丁度いい。
怒涛の一週間にプラスして、昨日夕方から参加したボランティア。老体に鞭打ったせいか何にもする気が起きない。朝兼昼のご飯は冷凍食品様々、チンして揃う所要時間10分足らずの簡単飯でお腹も心も満たされた。
生きてりゃまあとんだやらかしエピソードが数多存在する。私とてその一人。今だからこそ話のネタとして笑っていられるが、当時はもう悩みに悩み、時に落ち込み、自分の不甲斐なさに涙し、それはもう悔しい思いをしたもんだ。でも、喉元過ぎれば何とやら。乗り越えた暁にはひと皮もふた皮もむけてたくましくなる。ようやく担当している仕事が一段落つきそうで、今後は少し肩の荷が軽くなりそう。
訪問介護ってのは介護業界の中でも人気の無さが際立つが、私はこの仕事が大好きだ。世の常識を覆すような強烈なインパクトを残す関係者に出くわすこともしばしばあれど、それもまた、訪問介護の良さである。
私にも若い頃はあった。そりゃそうだ。オギャーと生まれていきなり四十路を迎えたわけじゃない。それなりの人生経験を経て、今がある。
お祭りの思い出といえば何とも甘酸っぱい。それでいて初で、純粋。高校生の頃に好きだった、野球部の男の子。初めてデートしたのが私の住む土地で有名なお祭りだった。張り切って用意した浴衣を母に着せてもらい、髪もめいっぱいめかし込んだ。お互いに緊張して上手く話せなかったあの頃の淡い気持ちは、いったいどこに忘れてきたんだろう。
拝啓、我が母。あんたの娘は今じゃすっかり汚れちまったよ。祭りに出向くより家にいたい。わざわざ人混みに飛び込むより、ソファーでごろごろする方が性に合う、そんな年頃になりました。
浴衣を着せてくれた母はいつしか皺が目立つようになった。私とて人のことは言うまいな。目尻にできた笑い皺が、日に日に濃くなってきたとも。
神様が舞い降りてきて、こう言った。
今回のお題は何というか、難しいの一言に尽きる。そもそも、いるかどうか存在すら危うい神様。もし本当に神様がいたとすれば、戦争も犯罪も貧富の差もなく、誰もが平等で、絵に描いたような平和な世界がとっくに存在するんじゃないかと甚だ疑問である。
ただ、意外にも私は信心深い方ではあって、験担ぎや言霊、因果応報の類に関してはわりと「あり」だと思っている。とはいえ、風水やスピリチュアル関連は胡散臭さが拭えない。占いだって良い事だけしか信じない。
何分、昭和生まれの古臭い考えが残っているもんで、いつ誰を迎えても恥ずかしくないように水回りと玄関の掃除、それから部屋の換気だけは徹底している。それで運が良くなっているかどうかはわからないけれど、少なくとも、帰宅したときに掃除をした自分に感謝できるくらいには気持ちよく過ごせている。