※ポケモン剣盾二次創作・マクワとセキタンザン(タンドン)
※幼少期の話
冷たい風がびゅうと洞窟の外を吹き抜けていった。
穴の外から漏れる光は次第に弱まり、薄暗い洞窟の中がずっと暗くなり始めた。湿っぽい香りが強まって、それは雪や雨を連想させた。
小さな洞穴の奥の岩壁に凭れて本を読んでいたボブヘアの少年は、母親に買ってもらったアローラのロコンやキュウコンが描かれた栞を挟んで開いていたページを閉じ、敷いてあったピクニックシートの上に置いた。
それから身をかがめて入口まで出ると、空を見上げる。顔を覗かせた瞬間、ぽたりと冷たいものが頬にぶつかり、それから落ちていった。大粒の雨がぽつぽつぽつと降り始め、あっという間に周囲を飲み込むように降り注いでいく。雲は分厚く、空は重たい暗がりの顔をしていた。
穴の周りは緩やかな斜面になっているが、境界線を区切るように白い雪で覆われている。
これがもし雨で流れてしまったり、凍ってしまったら、帰れなくなるかもしれない。マクワは不穏な予想を立てるが、激しい雨の中、山道を下っていく気持ちにもなれなかった。
真っ白な丸い頭を引っ込めると、再び先座っていた場所へと戻ろうとした。外の灯りが閉ざされて、いよいよ洞穴の中はよくよく目を凝らさないとわからない程の暗闇になり始めている。
マクワは光を付けぬまま、再び身をかがめ、時折掌で地面にある岩の凸凹を感じながら来た道を再び戻ろうとした。しかし奥の壁の下の方だけがうっすらと赤い色に染まっている。
思わず尻もちをつきそうになったが、じっと見れば小さなシルエットが浮かび上がっているのがわかった。
その赤い光はゆっくりと大きくなったり、小さくなったり大きさを変えながらゆらゆらと揺れている。
光を追うようにように進めば、壁に向かって眠っていたタンドンがそこにいた。真っ赤な目は瞼を閉じていても淡い光を放っていた。
「……静かだと思ったら……眠っていたのですね」
マクワはそっとその頭に手を伸ばし、石炭の出っ張りを撫でた。ごつごつして、少しだけ砂っぽくて不揃いの凸凹だらけだが、撫でるとほんのりと温かさが伝わってくる。皮膚の温かさとは違う、彼の身体の奥底に灯ったものが漏れ出た柔い熱だった。
「温かい……」
一度手を引っ込め、前のめりになっていた重心を後ろに置き、身体を安定させると、今度は両手で彼を包み込んだ。それからなんとか重さに負けぬよう上に持ち上げる。まだ幼いマクワにとって、タンドンの質量は随分と重力に近かった。
そしてやっと抱きかかえると壁に持たれるように座りなおす。ふう、と大きく息を吐いた。
「ああ、やっぱり温かいな……」
掌の一部だけで感じていた温度が、身体全体に伝わって心地がいい。思っていたよりも洞窟の中は冷え込んでいたようだ。
タンドンはまだのんびりと寝息を立てていた。ふとマクワは目を閉じてみる。じんわりと染み入るような温かさが、記憶を呼び覚ます。
それは妹が生まれた数か月後、嫌な夢を見て起きてしまった真夜中のことだった。自分の部屋でひとりで寝るのが怖くなって、どうしようもなかったマクワは隣の部屋の母親の寝室に向かった。
冷え冷えとした廊下を抜け、閉め切った扉を小さくノックして、こわごわと開く。中を覗いてみると、もとは自分のものだったらしいものの、最近どんと母の部屋に鎮座したベビーベッドがある。近づけば妹がすやすやと眠っていた。
母はベッドでぐうぐう眠っていたけれど、小さな手で揺らせばあの深い海のような目を開き、大丈夫だよ、と安心する声とともに少年をベッドに入れてくれた。
おかげで朝までぐっすり眠ることが出来たのだった。その温度に少しだけ似ているような気がした。
「もう妹もいるのに……うわ?!」
赤い光が直接目に入り、思わずマクワは目を瞑った。タンドンが目を覚まし、じっと自分の顔を見つめていた。
「ああごめんなさい……。その……きみがあったかくて」
タンドンはふたたびぱちぱちと瞬きをすると少しだけ身体をマクワに寄せ、再び目を閉じて、頭を下げた。目を焼くような赤い光は弱まったが、自分のベストの腹部を光らせていた。
「……きれいだ」
まるでひとの腹を燃やすような温度と色は、マクワの灰簾石の瞳を輝かせた。仄かに揺れ動く暖かでやわらかい光は、強い引力で少年の心を惹きつける。
このきらめきは、まだ誰も知らないきらめきのたまごだ。
今よりうんとはるか未来のいつか、光は強い炎に変わって誰もを驚かせ、楽しませることが出来るだろう。
どんな相手にも立ち向かい、リーグのポケモン勝負にだってすべて勝ててしまう可能性さえ秘めている。彼の燃え立つ炎は、巨大な岩の身体は、容易く砕かれはしない。
それだけじゃない。
こうやって凍える誰かを温めることだってできる。それももっとたくさんのひとだ。
果てしない心の灯は燃え上がり、どこまでも無限を描いていく。
スタジアムの切り揃えられた芝生の上、眩いスポットライトの下。
たくさんの観客がマクワたちを見る。応援する。歓声を上げる。
彼の隣に立ち、ふさわしい格好をして、ふさわしいポーズを決める。
彼の大きさにも負けない成長した立派な自分の姿がここにあった。
ふとマクワは目を開く。水っぽい香りが鼻についた。洞窟の中を川になってちょろちょろと流れていく音がしていた。ざらつく岩壁が背中に当たる感触があり、自分の腕の中で眠るタンドンがいる。そこは薄暗い洞窟の中だった。いつの間にか夢を見ていたらしい。ぽとり、ぽとりと洞窟の入り口で水滴が落ちていて、明るい光が差し込んでいるのが見えた。
母親の今日の試合が終わる夜には、母親の待つスタジアムへ行ってジムリーダーになるための訓練をしなければいけないが、まだもう少しだけ時間はあった。
またあの凍えるようなこおりの夜がやってくるまでの、ほんの僅かな自分の時間だ。なるべく自分のために使っていたかった。
「……この夢が……本当になればいいのにな」
少年は石炭の上に祈りをのせると、再び抱きかかえるようにして瞳を閉じるのだった。
※ポケモン剣盾二次創作 マクワとセキタンザン
※ポケモンが人体に悪影響を及ぼす設定
それは怒りだ。燃え盛る熱が両頬を掌で掴むようにじりじりと焦がし、マクワは立ち上る空気が揺れているのを見た。
普段白い眼が黒目を残しじんわりと赤く染まっていて、彼が今感情を抑える瀬戸儀に立っているのがわかる。セキタンザンと対峙してきたポケモンは、直接これを見てきたのだな。
胸の奥に燻るものとともに、鋭利な角度で出来たサングラスを抑える。目に届く光が少しだけ弱まって、口の中に唾がたまっていたことに気が付いた。
マクワとともにいるとき、いつだってセキタンザンはマクワを肯定し続けてきた。優しく温厚な性質の彼がその秘めた攻撃性を向けるのは、マクワの前に立ちはだかる障壁に対してだけだった。
「……実は今も視界がずいぶん狭くなっています」
マクワは言う。
「ぼくの肺……塵だらけで真っ黒なのです。一切喫煙はしていませんが、喫煙者の何倍も……。塵肺というそうです。つぎの試合が……最後です。その先はもう……あまり長くない」
セキタンザンの目が赤い炎を帯びる。背中の火炎が強まって、ふたりの狭間を高い熱が埋めていく。そうしてゴオ、と大きくひと鳴きすれば、口から音とともに火が漏れ出ていった。
大きな黒岩の太ももが動き、どすん、どすんと重たい足音が響いた。さらに天井に向けて猛々しく叫んだ。マクワは思わず目を瞑った。
ごつごつした、けれども馴染みのある感触が背中に触れて、それからぎゅうと前引っ張られ、胸の岩に圧しつけられる。視界が真っ暗になって、鼻孔を埃のような古馴染みのある香りが満たしていく。
「ボオオ……」
纏わりついていた熱は少しだけ遠ざかって、代わりに硬くてざらざらした石炭がマクワを包んでいた。セキタンザンはマクワをゆっくり抱きしめて、今の今まで火炎の光に充てられていた頬に頬ずりをする。
「……きみに言うのが遅くなりましたね。本当に……すみません」
「シュボ!」
顔は見えないが、マクワには伝わる。彼はこのリーグで戦い続ける生活がずっと、もっといつまでも長く続くと思っていたのだ。唐突に、しかも病気で終わるなんて考えているはずもなかった。
マクワはタールショットで発生するコールタールやその蒸気、粉塵に、ずいぶん前から検査の結果ダメだと言われていてもほかの人間より近く居続けた。
誰よりもセキタンザンを理解して、誰よりもセキタンザンを『魅せたい』ためだった。
「……ぼくは後悔していないし、したくないのです。たとえきみがぼくの身体に……何かしら影響を及ぼしているのだとしても、ぼくは最期まできみといたい」
「ゴオ……」
「それにね。……きみに近づいている。ぼくはそう思うのです。きみがくれるものをぼくの身体が受け取って……それを溜めた……きみに近づいた証拠」
背中に回されたセキタンザンの腕に力がこもる。
「ひとの身体が限界まできみという全く違う存在に近づいたのならそれはきっと……すごいことです」
「ボオ!」
セキタンザンは改めてマクワの顔を見下ろした。自分が長い痛苦を与え続けているというのに、平気だと言い切るバディのことを許したくはなかった。
大切な存在と、一秒でも長く居たい。それはひとやほかのポケモンと比較しても長い年月を変わらず生き続けられるセキタンザンだからこそ、何よりの願いでもあった。
そのためなら身体を張り、極寒に震えるいのちだって守ってきたし、苦手な戦いだって克服してみせた。
マクワもセキタンザンの視線を受け止める。
「でも……でも、うん……そうですね……いまもきみの顔がうまく見えなくて……。……むかしみたいにきみといて……ただ楽しいだけじゃない。……息が苦しくなるときがあるのも……それは……さみしい……かもしれません……」
「シュポォ!」
「けれどどうか……ぼくがずっと輝かせてきたきみに……見てもらいたいのです。ぼくのいのちがすべてを賭して、いちばんの輝きを放つ刹那。その瞬間があれば……その後のぼくもぼくで居られると思うから……」
セキタンザンは知っている。彼は頑なで、決めたことはやり遂げるまで絶対に曲げることはない。それはやはりいわに連なる志の在り方に違いなく、証明になれるものこそが自分の存在であることを。
そして誰もが死にゆき、変わることが当たり前の世界のなか、マクワが彼のいる場所で、なにかをいっとう強く置いておきたいことを。
「シュポォー!」
ずいぶんとマクワに毒された。マクワはセキタンザンに近づきたいというが、セキタンザンだってマクワに近づいてしまっていることもたくさんある。
この感情は、眼は、炎の揺れ方は、すべてマクワから受け取ったものだ。最後の試合に全力を叩きつけよう。マクワの選択と幸福を作れるのは自分しかいない自負がある。
だがしかし、それでも。
願わくば、大切なバディがバディとして変わりながらいのちを動かしていく姿を見ていたかった。
マクワと別れたその先には、はるか果てしないほど長い時間が流れ続けることを、セキタンザンはすでに見通していた。
※ポケモン剣盾二次創作 マクワとセキタンザン
こおりの上にいた。
潮の香に乗った裂けるような冷たさが頬を撫でて眠気を払っていく。
どこまでも続く広い海の上、どんよりと暗い雲が並んでいた。
マクワはぷかぷかと流氷に乗って浮かんでいる。
このままキルクススタジアムに向かうんだな。なぜか強い確信だけがあって、それは心強いものだった。
そうでもない。
だってスタジアムに行くにはこおりが必要で、向こう岸にはチャンピオンとリーグ委員長なんだ。
ふと後ろから届く音がある。誰かが何かを訴える声だ。だがそれは聞き覚えのない声だった。
もうジムリーダーになったのに世話しないなあ。
振り返ると、バランスを崩したこおりの島はひっくり返り、マクワはどぼんと真冬の海の中に転覆した。全く冷たくはなかったし、息もできる。
こおりの上にいた。
だが先ほどのような海の上ではない。スタジアムは試合を終えて、ジムトレーナーたちがそれぞれ掃除道具を片手に掃除を始めるところだった。床だけでなく壁にも霜がくっつき、温めて溶かしながら拭っていく。高い天井の鉄の骨組みにさえもつららがぶら下がっているのは、ポケモン勝負が白熱した証拠だった。
大きなブラシで床をごしごしと擦るジムトレーナーにふと目を取られた。その手前で、切り札であり今回の勝利の立役者、ラプラスがまだ残るこおりの上をすいすいと滑っている。
そこでマクワははっと気が付いた。淡いブルーの床が広がるスタジアム。ジムトレーナーたちの白いジムウェアと、青いラプラス。マクワは思わずその名を呼ぶ。
「……ラプ……ラス?」
のりものポケモンはにっこり笑うと近寄ってくる。間違いない。母の相棒を務めていたラプラスだった。それはもう長い付き合いだから知っている。彼女と一緒に訓練をした回数だって計り知れないし、おそらく自分の生まれる前だって全部知っている相手だ。
思わず手を伸ばそうとして、そこで両手を見た。長袖の、ジムトレーナーたちと同じ白い服。
胸を見下ろせば大きく描かれる氷柱を模したこおりのマーク。
「え、え……!?」
「らんら?」
自分は、いわジムリーダーになったはずだった。こおりジムを継がせようとした母に反発して、町を巻き込むような大喧嘩にまで発展した。その後家を飛び出して、いわジムで修行をし、はれてジムリーダーとして就任したはずだ。
ここは母のスタジアムなのだろうか。よくよく見ればジムトレーナーたちも、新しくマクワと共に就いた顔ではなく、母の代からいるひとたちばかりだ。
マクワはすぐに踵を返すと見知ったジムリーダーの部屋に向かう。ウォルナットの扉の前で大きく息をついて、それからとんとんとノックをした。
返事はない。中に入れば誰もいない。いつものジムリーダー室だった。後ろ手で鍵をかける。
だがしかし、棚に収められた蔵書は幼い頃見ていたものとそのままで、やはりこおりタイプに関することばかり。ファイルにもこおりタイプのことが記録されている。しかしあるときから筆致が変わり、太くはっきりとしたものはマクワ自身のものだとわかる。
すべて母が購入したまま、それから何も変えることなく自分が引き継いだ証拠だった。
「らー?」
ボールから出てきたラプラスが心配そうに見つめていた。いつの間にかボールに戻り、そして出てきたのだ。マクワは自分の手持ちの5つのボールを懐から取り出した。
「……ほかのポケモンも……」
どれも見覚えがある。こおりタイプを継ぐことを決められていた自分は、早いうちから5体のポケモンのことも同じように決められていた。そのとおりのメンバーだ。
他のモンスターボールは棚の引き出しやポケットを探っても見当たらない。
「ゆ、ゆめ……? じゃない……ですよね……」
部屋に立てかけてあった鏡を見て、頬を叩く。痛みはある。だがトレードマークにしているサングラスはなく、眉根を潜める顔を隠すものは何もなかった。
もし夢だとしても、覚めることはあるのだろうか。
とんとん、と木製の扉が軽快に叩かれる音が部屋に響いた。
「マクワー? お疲れ様! 今日も良かったよ」
明るく朗らかな母の声だった。試合を見ていたのか。そうだろう。だとすればこれから先に待っているのは、母親によるシビアな自分の反省会。そうに違いない。
反省するのは嫌いじゃない。だがそれは自分自身でひとつひとつ丁寧にやることだ。誰かほかの人に介入されるのなんてたまったものじゃないし、母のやり方と自分のやり方は似ていたとしても違うのだ。
同じものにはなれはしない。マクワは口の中にたまった唾液を飲み込んだ。
「……母さん。すみません、その……あまり体調が……良くなくて……!」
「なんだって、大丈夫かい!?」
ドアノブと蝶番の金属が、がちゃがちゃと一際大きな立てた。そうだった、このひとはやさしくて、おせっかいで……こういうひとだった。
ラプラスは長らく務めたパートナーの声が聞こえて嬉しそうだが、同時にマクワの表情を見て、落ち込んだ顔を見せた。
「……らんら」
「すみませんラプラス……。……ぼく、行かなくてはいけないところがあるのです」
マクワはそう言うと、窓を開けて植木の間に飛び出した。幸いスタジアム用のシューズを履いていて痛みはない。それでも積もった雪の上は溶けた氷が水となって浸透し、温度を奪っていく。
湿った雪の濡れた香りが鼻先をかすめてゆく。滑りそうになりながら石の階段を駆け下り、街の中を走り抜ける。道路を進み、郊外の大きな住宅地の間を過ぎれば、周囲は再び雪の積もる道になる。ときどきポケモンの足跡はあるが、それ以外のひとは入らぬ林の深雪を踏み抜いて歩く。
木々が立ち並び、坂は真っ白な雪化粧に染まっている。時折靴や靴下の間に入った氷雪を払いながら、雪山を登っていく。冷たい空気をたっぷり吸いこんだ肺がちくちくと痛むので、そのたびにゆっくりと息を吐いた。
草木が減って、山がむき出しになったころ、白い袈裟を被るようにして、小さな洞穴に辿り着いた。入り口を覆う木の根を払いのけて、身をかがめながらマクワはその横穴をくぐった。
中は真っ暗だが、外に比べれば断然温かい。岩壁に手をつきながら進むと、マクワがギリギリ立てる大きさの開けた洞窟に出た。どこからかぽたぽたと地下に水が流れて落ちる音がする。
雪解けの香りが石と混ざって、重たくも懐かしいような香りでいっぱいだった。
マクワは大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。大きな石で出来た床はひんやりと尻を濡らしていたが、気にも留めなかった。
ここにいればきっと会える。マクワには確信があった。きっと自分が何者になったとしても、必ず自分を返してくれる存在は、かならずここに居る。
そういえば、時々外に出ていた彼をこうしてひとりでじっと待っていたことがあったっけ。
冷たい膝を抱えていたら、なんだか懐かしい気持ちがじんわりと心の底から湧き出てくる。こころの温かさに乗ったマクワの意識はふっと消えてしまった。
◆
目が覚めると、いわの上にいた。身体中、驚くほどぽかぽかでうっすらと額に汗がにじんでいる。あたたかい。石炭というよりは磨いてもらった黒曜石のようなつやつやの丸い瞳が、両手に抱えたマクワのことをじっと見下ろしている。
「……やっぱり会えましたね」
「シュポォー?」
「なんでもありません。……もしかして心配してくれましたか」
「ボオ!」
セキタンザンは肯いた。石炭の腕の中で体を起こせば、ゆっくりと足から降ろしてくれる。
自分が着ているのはいつもの寝間着で、ここは自分の部屋の寝室だった。外は真っ暗で、朝日が昇るまではまだだいぶ時間があるのだろう。
なんだかよくわからないし覚えてもいないのだが、妙に現実味のある夢をみたような気がする。
こおりジムリーダーとして跡を継いだ夢。それも悪くないかもしれないが、やっぱり見るなら叶えたいの夢の方がずっといい。
マクワは掛け布団を引っ張りだすと、いまだマクワを見下ろすセキタンザンの隣に座った。
「……夢見があまりよくなかったので、引き続ききみに監視をお願いしようかと」
「シュ ポォー!」
「わ、いやきみの上で寝るつもりはありません……! ……まあ……いいか」
セキタンザンも座り込むと、布団で包んだマクワごと自分の足の上に抱き寄せた。少し硬いが、ぬくぬくとして心地がいい。
マクワは次の目が覚めるときを楽しみにして、瞼を閉じるのだった。
※ポケモン剣盾二次創作・マクワとセキタンザン
※お題:七夕
ひらりと短冊が宙を舞った。何も書かれていない細い紙は、なぜかぼくのタブレットから現れて、キルクススタジアムのジムリーダーが主を務める部屋の絨毯の上に降りた。
長い間使われてきた部屋だが、こんな大きなタグのようなものを見るのは始めてだろう。
ぼく自身、キルクスで七夕飾りを見ることは初めてだった。
「もしかして……くっついてきてしまいましたか」
「シュポォ?」
隣で一休みしていたセキタンザンが不思議そうな顔をして紙切れを拾い上げると、ぼくに手渡した。
「ありがとうございます。……これは短冊というものです。カブさんのところでいただいたものを……ぼくとしたことが、どうやら間違えて持って帰ってきてしまったみたいですね」
数時間前までいたエンジンスタジアムでのことを思い出す。エンジンでのジムリーダー交流会は、会議を兼ねているとはいえ実りが多くていつも密やかに楽しみにしている恒例行事だった。
今日のエンジンスタジアムは、ちょうど星祭りの中でも『七夕』を祝っており、ほかではあまり見かけないホウエンあるいはその近辺の祭事を行っているところだった。
ジムトレーナーたちが率先してカブさんの故郷の慣習を復元し、笹の木を立て、短冊に願い事を書いて飾っているのだという。
正直なところ、カブさんとはありがたいことに、親の縁でとても長い付き合いをさせてもらっている。おそらくぼくのあまり知られたくないところや見られたくない姿だってよく知っているだろう。
彼はずっと遠い場所からやってきて、そして長くぼくたちの地方に居続けてくれているひとでもある。どこまでも誠実で強いカブさんは、ぼくの目標のひとりでもある。
そんなカブさんがトレーナーとして尊敬され、めいっぱいカブさんを歓迎しようとしているジムトレーナーたちがいることは、ぼくとしてもうれしいことだった。
彼らは会議の休憩時間に七夕について教えてくれて、ぼくにも短冊を一枚渡してくれた。その場で書いて飾ってもらったのだが、なぜかここにもう一枚の短冊が残ってしまった。
「……せっかくだから……きみもなにか願い事を書いてみますか?」
「シュ ポォー」
ぼくはオフィスチェアに座り、デスクの引き出しからペンを取り出した。セキタンザンは興味深そうに短冊を見下ろしている。
「……きみは……きみの願いごとは……?」
「ボオ」
こうして短冊に向き合ってみて、ぼくは気が付いた。彼をぼくの願いに、やるべきことのすべてにずっと連れまわしてきた。ぼく自身の将来のために、疑うこともなく。この先にある道は、岩壁よりもはるかに険しい。それでも必ず彼にとっても幸福を齎すことだと信じてやってきた。
だがしかし、彼の本当の夢や願いを聞いたことなんてなかったのだ。
すうっと、抜ける冷たい風がある。窓は締め切っていて、エアコンも空調の類もつけてはいない。
小さな短い白い紙が、妙に大きく広がって途方もないほど大きく見えた。まるでキルクスに広がる雪山のようだ。
いつも通り、強い引力を連れて自分の願いを書いてしまおうかとも思った。それは絶対的に正しいことだ。ぼくがトレーナーで、彼がポケモンである以上正義であり続けるだろう。
けれど口の中にたまる唾を飲み込んだ音が大きくて、ぼくの動きを阻害する。
「シュポオ」
「へ」
セキタンザンはいつもの人好きのする笑顔でぼくの顔を覗き込んだ。それから彼は小さく頭を横に振ると、真っ直ぐぼくの目を見つめる。
「シュ ポォー」
そこにあるのは、セキタンザンの黒い瞳の中で、僕の青い目が彼の背中の光を受けて輝く『あまのがわ』だった。
「……ふふ……きみは……」
「ポォ」
「きみはぼくの夢が叶うことがきみの夢だって……そう言ってくれる……?」
「シュポオ」
大きな石炭の頭は強く首肯する。
「……ごめん……いや、ありがとう。……そうですね。それを信じることがぼくたちです。……けれど本当は……もう少し早く聞いておくべきことでもあったと思います……」
「シュポォ」
「それでは、ぼくたちの願いを書きますね」
再び願いを書き記す。やりたいことはたくさんある。すべてが途方もない悲願であり、夢だ。けれどポケモントレーナーとして生まれ、今ここにいるぼくだからこそできることもあるはずだ。
このガラルという素晴らしい土地を愛し、そして利用して、そしてぼくが捧げられるもの。
「それではセキタンザン、動かずにいてくださいね」
「ボオ?」
ぼくは短冊をもって立ち上がり、セキタンザンに近づくと、彼の背中で炎が燃える、石の山の中に差し入れた。乾いた紙切れはあっという間にセキタンザンの温かな熱に包まれて、端っこから火の粉を上げて黒く小さく変わっていく。焦げる香りは心地よい。きっと衣服にも残るだろう。
ぼくたちを刻み付けてゆくものだ。
「ぼくの願いは……きみが持っていてください。ぼくの希望を自分の夢としてくれたきみが。
この夢が叶うそのときまで」
「シュ ポォー!」
セキタンザンは一層背中の熱を上げて、ほのおを強めた。一際ぱちぱちと音が立ち、炭の香りが当たりを包む。
ぼくにはセキタンザンがいる。ぼくの信頼する切り札は、いつだって隣で笑って、時に猛々しくいてくれた。
もうとっくの昔、彼が進化した時から、セキタンザンという彼自身にぼくの新しい大望を預けていたのだ。
キルクスの空気には、懐かしい香りと静かな煙が流れ続けていく。
※ポケモン剣盾二次創作・マクワとセキタンザン
ちょうど一年前の今日、きみと最後に会った日。
それはぼく自身との別れの日であり、同時にすべての覚悟を決めた日でもあった。
母と袂を分かつ。しかしそれが簡単なことではないことは、ぼくが誰より知っていた。
母はぼくを後継ぎにするために、心血のなにもかも、ありとあらゆるすべてを尽くしてくれていた。ポケモンに関するあらゆる知識、トレーナーとしての心構えや常識は、今も母親からすべて叩き込まれたものだ。ぼく自身の時間のほとんどはぼくの手中にはなく、座学から実践訓練までを行う母が一秒刻みで管理していた。
母はこのガラル地方有数のトレーナーとして名を馳せている。彼女が培ったものをこれほどまで与えてもらえるぼくは、このトレーナーという職業が強いガラルの中で、なによりも強力な剣となり、ぼくをまもる盾にもなりうるだろう。
しかしそれはぼくにとって何物にも耐えがたい拘束の糸が、喉元で呼吸を縛り付けるものだった。
それはどこまでいっても母だ。ぼくと母の境界線が、まるで雪に埋もれてしまったかのようにみつからない。
母の栄光をなぞり続けるぼくはただの母親のこおりの糸に繋がれた繰り人形だった。
だとしてもぼくが独立したいのだと伝えたとして、はいそうですか、と簡単に返事をもらえる相手ではないことも、ぼく自身の細胞という細胞がその身に刻んでいた。
それは経験もあったし、きっと母から別れて生まれた身体だからというのも、少なからず理由として存在していただろう。
シビアで非常に厳格な母だ。まず自分の実力を見せなければ、最低限の説得はかなわない。見せたとして、祝福してくれる可能性はないにも等しい。それはぼく自身の願いとして存在してているもの。
ぼくの細胞の、母とは違う部分のどこかひとかけらにしか存在していない。もっとも母から生まれた身体にそんな場所が今存在するとも思えないが、ぼくがこうして腹を括ったことだけがわずかで力強い希望の破片だった。
だからこそ、ぼくが見つけた新しい出会いは必要不可欠だったのだ。ぼくが選んだそれそのもの。母でもなければぼくでもない、全く新しい外部のいのちの存在。
きみはずっとぼくと共にいた。いてくれた。それだけで何より心強いことか。
きっとこの分厚すぎる親子の癒着に風穴を開けてくれる。
そう、まさに一石を投じてくれるはずのものだった。
だがしかし先ほども言ったように、母に対して実力を見せつけなければいけない。
少なくともきみとぼくの関係が、今まで通りであってはいけなかった。
きみと出会うために……ぼくはきみとお別れをする。ぼくが抱いた憧れに近づくのだ。
その記念すべき日は、ぼくが設定した。そこに至るまでの過程もすべて緻密に計算し、メニューを組んだ。そう、これがぼく自身がトレーナーとして始める第一歩だ。
こんなことは母にだって教えてもらっていない。トレーナーとしての心得も、指示を出すタイミング、動き方のひとつひとつの細やかなものだって、なにもかも受け売りでしかないぼくが。
だからではないが、メニューを作るのは本当に楽しかった(だってポケモンのことを試案するのはたのしかった。これも母の糸の残りかもしれなくともそれでも持ち得て悪くない糸だ)。
だってきみのことを堂々と考えて、しかも実践までしていられるのだ。これほど幸せなことはない。もちろん初めてのことだ、組んだメニューも実際に行ってみれば、やれ詰め込み過ぎだの、今度は運動量として偏りがあっただの、組み直さなくてはいけないこともままあった。
もちろんプレッシャーはあった。必ずこの最初にセッティングした別れの日程だけは絶対だ。
あまりの不甲斐なさに部屋にこもって奥歯をかみしめ続けたときもあった。
ただきみと一緒にいたいからだ。ぼくがきみのことで把握不足があることが悔しかった。きみのことで予想できなかったことがもどかしかった。
それはそれまでのぼくになかった知識だ、当然のことだろう。
ぼくはこおりタイプのポケモンについての知識と経験は他人よりも深いと自負しているが、いわタイプのポケモンに関しては完全に初心者だった。
きみに届かないような、遠い距離があるような、そんな気持ちさえ抱いていたことだってあった。
それでもきみはずっとぼくと一緒にいてくれた。それがなによりぼくの自信になったか、きみはきっと知らないだろう。
だからぼくはきみとの約束は必ず守る。少々強引だが、必ずきみを強くするという盟約だ。
きみは戦い慣れしていない、どちらかといえば和平を望む種族のポケモンだ。それを戦いに繰り出しているのはぼくに他ならない。もちろんポケモンはみな強さを求める生き物でもあるけれど。
ガラルはそんな彼らと強さを臨める環境を整えてくれたひとたちがいるのだ。その良さをきみにも伝えていきたいと思っていた。
きみはそんなぼくたちの世界で共にに生きてくれると肯いてくれた。
峻厳なトレーニングを幾度も乗り越えて、ぼくが指し示す羅針盤の先、その日はやってきた。午前中に野生のポケモンたちから連続で20回ほどもぎ取って、突然変化は現れた。
戦いを終え、去っていくポケモンの背中を見送り、次の場所へ移動しようとした。だがきみの車輪はうまく動かずその場の砂をぐるりと巻き取った。そうしてぎゅっと目をつぶった。まばゆい光が黒い体を包み込んだ。
「……やってきたんですね。予定通り……です」
きみは肯いた。とうとうお別れだ。ぼくはその石炭の頭を撫でた。
ごつごつした感触が手のひらをほのかに温めた。
きみは連れていく。ぼくの迷いも未練も、そして母の影でしかないぼくのことも。
「……さようなら。……そしてようこそ、新しいきみ。ぼくが出会いを待ち望んでいたきみ」
身体を包む光がいっそう強く激しくなり、見つめる目が痛くなり始めてきたころ、その輝きは突然ぱたりと消え去った。
そのあとには、もうきみではないきみがいた。背に積まれた石炭の山はぼくの背よりうんと高く、辺りの空気を歪ませるほどのほのおを抱いている。ぱちぱちとはじける火の粉は時折岩の埃っぽい香りと焦がした香りを運んだ。
その体はぼくなんかよりもずっとずっと重たくて、ずっしりと落ち着いていて猛々しい。
両手と両足が出来たのがうれしいのか、両腕を握りしめたり開いたりしたかと思うと、今度は大きく開いて見せた。
黒くて丸い目が弧を描き、ぼくを見下ろした。
『きみ』でなければ、あの母に到底勝てるとは思えない。そしてきっちりポケモンを育て、進化させることが出来る自分は、立派なトレーナーの証に違いなかった。
実績は、ぼくの胸を輝かせる勲章だ。その裏にある戻れぬ心には目を向けぬよう、青いサングラスを掛けることで閉じ込めた。
「……尖った目、お揃いですね」
「シュポォ!」
俯いたぼくはつるを抑えて、もう一度きみを見た。
「……改めてはじめまして、セキタンザン。ぼくとともに……ガラルでいちばんのトレーナーとポケモンになりましょう」
「ボオー!」
「ありがとう……ぼくの人生の剣のきみ。かならずきみの輝きをたくさんのひとたちに届けます。……だからまずは目前の試合で強さを見せつけましょう」
「シュ ポォー!」
ぼくはもう、試合の上に立っていた。これがきみと最後に出会った日。
そしてぼく自身との別れと、二度目のきみとのはじめましてを続けた日。
ぼくは今もこの剣とともに、ぼくのいのちの居場所を切り拓き続けていく。
磨かれた赤い輝きと鋭い炭黒が、こおりを溶かしては砕き、勇ましい色を輝かせる。