神のみぞ知るセカイ にはまったあの頃。
当時高校1年生。現代であれば、そんなアニメにはまらず、適当に動画サイトで踊って再生数を気にして、もっと華やかな生活だっただろう。
「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」
これが現実なんじゃないかと思う。
「目標」の発明は20世紀初頭、つまり人間の歴史のなかで100年少しでしかない。電気にしてもインターネットにしても、未来や目標を設定した結果出来たというよりは、才能や没頭で生まれたはずである。
その変化が今やガラケーからスマホくらいしかない昨今、懐古主義に嵌る大人が多いのも仕方がないのかなと思う。
もし「この道の先に」明るさを感じる人がいるならば、まだ望みはあるだろう。
宮古島なんて、来たくなかった。だけど仕事の都合で、やって来た。熱いを超えて、痛い。あの空港での日差しの痛みは、今でも覚えている。
小さな平屋暮らしでは、四方向の窓が開く。
うちの猫たちの好む場所は、日当たりの良い南向きの窓である。
特に、雄の黒猫はよく小さな獲物を窓越しに狙って小さく鳴いている。
そして子猫の三毛は、窓枠の隙間にぴったり入り込んで収納されている。冷たくて、気持ち良いのかもしれない。
また、2匹揃って外を眺める姿が可愛くて、写真だけではなく動画を撮るようになったのだが、すると三毛がカメラを意識してかそれとも偶然か、するりとフレームアウトしてしまう。一方黒猫は、しばらくのんびり被写体となってくれる。三毛のほうがよく私の行動を観察しているからカメラ目線が多く、黒猫は自由気ままと、性格の違いが出る。
そして、たまに外からトラ柄の客が訪れる。縄張りの主張なのか、はたまた仲良くしたいのか。3柄の集まりで、何か話しているのかもしれない。
庭側の窓は見える獲物が多いようで黒猫には刺激が強く、網戸が壊れてしまった。だからそこは閉めて、隣家の畑側の窓を開けている。
昼間は揃って大きな窓のそばで日向ぼっこをしている。
人間にとっては車必須の田舎暮らしであるが、猫たちにとっては、自然が多く景色も多方向にあり、良い環境であるに違いない。
鳥や夏には蝉の鳴く声を聞きながら、太陽の光を浴び、われわれはひとつ屋根の下で暮らしていくのだ。
母はネガティブな人だった。その血筋か影響か、私も現実主義なところがあり、あまり恋愛に運命だとか赤い糸だとかを感じることはない。
しかしながら、今の夫にも、そして我々を見ていたとある女性からも、「運命だ」といわれたことはあり、私はそれをただの腐れ縁と思いつつも、そんなものもあるのかなと思っている。
なんでも「赤い糸」の起源は中国とあり、やはり日本はかなり何だかんだで隣国の影響を受けているなと思う。私にとっての赤い糸はいわばラーメンのような存在である。漢字でも良い。輸入された考えや文化を品種改良している点は赤い糸やラーメンに限らないはずだ。それに、赤い糸、ラーメンと聞いて嫌な気のする日本人は少ないだろう。素敵なもの、美味しいものだ。もはや漢字に至っては日本語になくてはならない存在だ。
その「赤い糸」よりも感性にしっくり来るのは、どちらかというと中島みゆきの「糸」である。赤とか色ではなく、縦と横の糸でそれぞれの人間の出会いと相性、縁を表現し、「織りなす布はいつか誰かを暖めうるかもしれない」、そして「逢うべき人に出逢えることを人は仕合わせと呼びます」と締めくくる。さすが名曲である。しかもこの曲も一切糸の色は問うていないから、同じような気持ちで作曲してくださったのかもしれない。そのうえ糸を布にまで発展させていて、天才としか言いようがない。
たしかに今の生活は、赤くはないがなんとか仕合わせられてはいる。
糸単体の人たちも多い世の中であるが、不格好でも誰かと布となり、人を暖めうることがある人生こそまあ良いのかなと思う。