幼い頃、私には小さな相棒がいた。
記憶もないくらいに昔、遊園地で買ってもらったうさぎのぬいぐるみ。白くてふわふわでピンクのリボンがついていて、抱っこするとくりっと愛らしい目でこちらを見上げてくれる。私がその子の手を掴むとその子も腕を上げ、ベッドに横たえてあげると静かに眠り、話しかけると黙って聞いていてくれる。その子は私の操るままに動いて、いつでも私のそばにいてくれた。
そして、私が操ってあげなければ、その子は何もできなかった。
ご飯も睡眠もお出かけも、私がその子を抱っこして連れて行き、面倒を見てあげる。私は幼いながらに、この子にとって私が世界の全てであると感じ、私が守ってあげなきゃと無意識に使命感を抱いていた。
そのうちに、私は幼稚園に入ることになった。幼稚園へはぬいぐるみを持ってきてはいけない決まりになっていて、私が泣きながら母に訴えてもそれは変えられなかった。
仕方なく家で留守番をさせて通い始めると、幼稚園は私が思っていたより楽しい場所で、新しい友達が何人もできた。家に帰ってからも幼稚園の先生に習った歌を歌ったり、友達にあげるための絵を描いたり、新しい友達を呼んで遊んだり。私の世界にいくつもの新しい人間関係が生まれて、唯一無二だったぬいぐるみはただの選択肢の一つになっていった。次第に友達と遊ぶ時間が増えて、ぬいぐるみは記憶の片隅に追いやられることとなった。
洗濯物を畳みながらテレビで「ぬい撮り」についての特集を見かけ、私は真っ先にそのぬいぐるみのことを思い出した。結婚して家を出る時何となく引っ越しの荷物に入れてしまって、新居の押し入れに収納したままになっていたような気がする。私はふと思い立ち、押し入れからぬいぐるみを取り出した。
それはあの頃と同じ姿のままで、私が成長した分だけ小さくなっていた。抱きしめたら腕の中で押しつぶされてしまいそうで、私にはもうこの子を守ることはできないと悟った。けれど私には今、他に守るべき存在がいる。
ママ、それなあに?
私がぬいぐるみを眺めていると、5歳の息子が隣へやってきて、服の裾を引っ張りながら私を見上げた。
ママの大切なものよ、と伝えると、いいなあ、と呟いて息子はそれをじいっと見つめた。生まれた時からずっとこの子を見ているから、目を見ればこの子の考えていることは大体わかる。私はしゃがみ込んで息子と目を合わせ、大事にしてくれるならあなたにあげる、とぬいぐるみを差し出した。息子は大事にする!と元気に言い放ち、ぬいぐるみを優しく抱きしめた。
今の息子にとって、このぬいぐるみは一番必要な存在だと思う。
数日前に初めておつかいをさせてみたところ、それ以来息子は幼稚園へも送り迎えなしで行けると言い出した。いわゆる親離れと呼ばれるものなのだろう。その目は決意に満ちていたけれど、少しだけ不安げで寂しそうだった。
息子もいつか、私から離れて自分一人の力で生きてゆくのだろう。世界はあなたが思っているよりずっと広くて大きくて、打ちのめされてしまうこともあるかもしれない。
だけどあなたがそれを乗り越えられるまで、そして自分の守るべき存在を見つけるまで、このぬいぐるみが、そして私の心が傍にいて見守っている。大丈夫、あなたは一人じゃない。
『ずっと隣で』
私が過ぎ去った日々を思い浮かべる時は、二段階で編集が加わっているような気がする。
まず、出来事が起きたその時に、どこか一点に注目したりどこかを見落としたり、自分なりの意味を付けたりして編集をする。次に、時間が経ってその出来事を思い出す時、記憶のうちどの点を重視するか新たな意味を加えるか、封じて無かったことにしてしまうのか、といった具合に再び編集が入る。
これは映画の撮影や、マスコミの報道や、文章を書く作業と似ている。無意識なり意識的なりに捨てるところと拾うところ、繋げ方や見せ方を決めているのだと思う。
自分の人生をそのまま文章にすれば誰でも最低一つは小説を書ける、という説をどこかで聞いたことがある。小説を書かないとしても、人生は自分で作り、自分だけが見る物語なのだろう。
日々過ぎ去っていく出来事のどれに着目しどのように切り取って解釈していくか、ここが腕の見せ所だ。長所とか短所とか、ポジティブとかネガティブとか、本当の自分が何かというのも全て解釈によるもので、同じ出来事でも違う視点から切り取れば全く違って見えてくる。意図的にあるニュアンスを持つものだけを大きく取り上げて、その他を例外的で些末なものとして切り捨てれば、本当の自分なるものも演出できる。何度も同じような解釈を繰り返せば、癖がついて性格や価値観になっていくのだと思う。
せっかく自由に編集できるなら、自分の役に立つような物語を紡いでいきたい。
『過ぎ去った日々』
お金より大事なもの。まるで星の王子さまみたいなことを言うんだね。
とまあそれはさておき、お金より大事なものは何かを考えるにあたって、共有しておかねばならない前提条件がある。それは、お金より大事なものはお金で買えないものであるということだ。お金で買えるものはお金で代替できてしまうし、むしろお金の方が多様なものと交換できる選択肢があるため上位互換になってしまう。
かといって、お金で買えないものが全てお金より大事というわけでもない。お金では買えないけれど恐らくお金より不要であろうものも数多くある。例えば苦しみとか、眠気とか、欠伸とか……今書きながら欠伸が出てしまったのでこんな例が浮かんでしまった失礼しました。
となれば、まずはお金では買えないもののうち、お金より大事と思われるものを挙げていくしかない。今ぱっと思いついたものでは、愛、夢、命あたりかな。友情や家族は広義の愛、時間や健康は広義の命と言っても差し支えないのではないだろうか。
たしかにこれらはお金では買えないし、お金より大事なものだと思われる。しかし、現代ではいずれもお金がないと手に入らなかったり失ってしまうもののような気もする。愛……は分からないけれど、夢は最低限お金がないと叶えられそうにないし、命なんてもっと分かりやすい例だ。お金があっても命がないと意味がないとはよく言うが、その逆もまた然りで、お金が無ければ命を存続させることはできない。
こうなってくると、お金より大事なものなんてないんじゃないだろうか、とテーマ自体を疑わざるを得なくなってくる。そもそも、お金は物の価値を測るための尺度であって、お金そのものものの価値を測ることは不可能なのではないか。お金と他の物事の価値を比べるというのは、例えばcmとこの消しゴムどちらが長いですかと言っているようなもので。cmを使って消しゴムの長さを測るのだから、cmと消しゴムでは土俵が違うというか……ダメだ、例示があまりにも下手すぎる。
というわけで、長々と思考を書き連ねた結果、お金で価値を測ることはできてもお金の価値を測ることはできないので、お金より大事なものというテーマ自体が破綻しているのでは?などというふざけた結論になってしまった。今後どこか他の場所でお金より大事なものは何かという議論を見かけたら、中二病患者顔負けのドヤ顔で、お金の価値を測ることなんてできないよ、とでもお答えしてみてほしい。多分嫌われます。
『お金より大事なもの』
今日のママは僕の知らないママだった。
毎週日曜日、ママは僕を連れて買い物に出る。迷子にならないように手を繋いで、帰りは僕にも荷物を持たせて、家に着いたらお菓子をくれる。それが僕のママだった。
ママは今日、僕に初めてお使いを頼んだ。
いってらっしゃい、と送り出されて、僕は家を出た。右手にはママのエコバッグ、左手にはさっき僕がママから聞き取って書いた買い物リスト。僕はちょっとした旅路の気分で街をゆく。
いつもは見上げればママがいるけれど、今日は空がぽっかり空いているだけ。
歩きながら空の先を目で追ってみる。空は僕が見えている限りどこまでも水色だった。どこまでもっていうのがどういうことか、僕にはよく分からない。水色のクレヨンで壁に色を塗っても、クレヨンはどこかでなくなってしまう。水色の絵の具を溶かして床に溢しても、水はどこかで乾いてしまう。どこまでも続く空にはその「どこか」がなくて、追いかけたらきっと終わらない。綺麗な空も今日だけはちょっと気味が悪い。
しばらく行くと、商店街に入った。アーケードが空を塞いでくれてホッとしたけど、その分景色の密度が濃くなって視界に飛び込んでくる。買い物をする人、剥げた看板、並べられたお菓子、たまに喋りだすスピーカー。その一つ一つが僕になんて目もくれず、知らん顔で佇んでいた。
もし今僕がここで助けてって叫んでも、誰にも聞こえないんじゃないだろうか。皆僕のことが見えていないか、あるいは世界には僕一人だけしかいなくて本当は全部嘘なのかもしれない。そんな恐ろしい考えばかり浮かんできて、背中がぞわっとした。
八百屋と菓子屋と魚屋と、あと3軒くらい知らない店を通り過ぎて、僕はやっとスーパーに辿り着いた。何度も通った道なのに、ものすごく遠い場所からやってきたような気がする。
ママのいない世界は何もかもが大きくて、知らなくて、怖かった。いつか僕が大人になったら、今日みたいに1人で買い物に来るんだ。それもお使いじゃない、自分で考えて買いに来る。パパみたいに仕事をして、お金も自分で用意する。
僕はよく、何でも好きに決められたらいいのにと思っていた。好きなだけお菓子を食べて、好きなだけゲームをして、好きな時間に寝られたらいいのに。けど好きに決めていいってことは、僕が道を間違ったとしても誰も教えてはくれないし、どこまでも続くぽっかり空いた空の下を1人で行くしかないってことだ。それはとても恐ろしいことのように思えた。
買い物を終えて同じ道を帰ると、僕は少しだけ大人になっていた。ママは僕をたっぷり褒めてくれて、優しく頭も撫でてくれた。それでも僕は、今日感じたどうしようもない「1人」の怖さを忘れることができなかった。ママと居るときにいつも感じる、2人がくっついて1つになってしまったような安心感はもう何処にもなかった。
ママは急に僕の顔をじっと見つめて、どうしたの?と聞いた。何でもないよ、と答えて僕はママの知らない僕になった。
『旅路の果てに』
こんばんは、お届け物です。
急に何、ってそんな面倒くさそうな顔しないでよ恋人同士でしょ。
あなたが寂しくないように、私をお届けに参りました。
私って意外と役に立つのよ。
悩みや愚痴があるなら聞いてあげる。タダじゃないわよ、30分につき缶ビール一本。
他愛のない話もしましょう。今日見たテレビの話、昨日見た夢の話、明日行きたい場所の話。お好きなネタを何でもどうぞ。
料理……はできないけど、簡単なおつまみくらいなら買ってきてあげる。
不届き者ですが、なんて野暮なことは言ってあげない。私は届け者。幸せをいっぱい届けてあげるから、これからもどうぞよろしくお願いします。
えっ、不届きじゃなくて不束かだって?ししし知ってるわわざとよわざと!
『あなたに届けたい』