nico and…という人気のアパレルブランドがあるのだが、数ヶ月前某SNSにて、nico and…の…は何を表しているかというテーマの大喜利が開催されていた。優勝したのはたしか、o とaとdの切り取られた○を貼り付けたもの、という回答だった。
I LOVE…というお題にものすごく既視感を覚えた原因は恐らくこれだ。nico and…。たぶんきっとそっくり。
というわけでこれを機に、I LOVE…の…の正体についても考えてみようと思う。
I LOVE…には○が1つしかないため残念ながらnico and…と同じ手は通用しない。実直に言葉を当てはめてみるしかなさそうだ。
まず思いつくものとして、YOUが挙げられるだろう。アイラブユー。ドラマや映画、英語圏ではおそらくリアルでも、何度も人々の間を行き交った言葉だ。
それだけではつまらないので、YOUの逆でIにしてはどうか。アイラブアイ。とんでもないナルシストの完成だ。しかし自分を愛するということは、自分を愛してくれている友人や家族をも尊重するということで、ある意味大切なことなのかもしれない。
しかしここで私は大きな問題に気がついてしまった。
Iってアイだし愛じゃん。LOVEもアイじゃん。つまりI LOVE IとはI愛アイでありアイアイアイである。もう何がなんだかわからない。言葉に出して読もうものなら、自然と某お猿さんの童謡のメロディが浮かんでしまう。そして何と言っても重要なのが、関西電気保安協会。これはなんの脈絡もないがついでにCMが染み付いている関西人への罠を仕掛けてみた。
というわけで、I LOVE…とはI LOVE Iでありアイアイアイであり世界が音楽と愛に溢れているということなのである。もう自分でも何を言っているのかわからなくなってきたのでこのへんでさようなら…
『I LOVE…』
私もあなたも誰も彼も、可能性の中で生きている。街は数多の人々の可能性がすれ違う場所だ。
私が小石に躓いて転ぶ可能性。あの角で財布を落とす可能性。道に迷って人に尋ねる可能性。
可能性が背後霊みたいに私の周りをついて回って、私が行動を起こすたび、一歩進むたびに新たな可能性が生まれては消えていく。
街へ行って人とすれ違えば可能性が影響しあい、人の数だけ可能性の生滅は活発になる。
ここで2030年2月の新宿を覗いてみましょう。そこには私があの人にぶつかる可能性と、あの人が私にぶつかられる可能性。ぴったり交わって私とあの人がぶつかるという事実になれば、私とあの人の間に「道でぶつかった人」という関係性ができる。これまで人混みという大きな概念の一部だったあの人が途端に特定の意味を持ちました。
ぶつかったという事実は消えないから、私にとってあの人は一生「2030年2月1日19時28分に新宿の交差点でぶつかった人」という関係性の人です。その座は誰にも取って代わられることはありません。おめでとう、私とあの人の出会いに乾杯!
たった一度きり出会った誰か、一生出会わないどこかの誰か、そういう関係性がたくさん生まれては忘れ去られ、交差していく。だから交差点ってあんなにロマンチックなんだね。
『街へ』
誰にとっても優しいことなんてあり得ないと思う。
最近よく褒めて伸ばすというけれど、部下がミスをしたとして、怒らないのは優しいだろうか。お客様が損害を被ったなら、お客様のために怒ってあげないのは薄情じゃない?
自転車に轢かれそうな女の子を助けたとしましょう。その子がこれから誰かに酷いことを言ったとしたら、その誰かは女の子が入院してた方が酷いこと言われずに済んだのにね。
隣町の少年が八百屋の林檎を盗みました。家族に捨てられてどうしてもお金がなかったのです。飢えて苦しんでいたのに、捕まって前科がついてまた苦しんでしまいました。でも八百屋のおじさんも林檎が失くなってとってもとっても困っちゃった。その話を聞いた私は大変ねえと言いながら、どうでもいいのでハーゲンダッツを食べました。
さておじさんは誰を恨めばいいでしょう。少年ですかその家族ですか、それとも知らんぷりした私ですか、不公平な社会ですか。社会を憎め!でもその社会を構成してるのは誰だっけ。
世界中の全員に優しくしたいなら、まずは世界中の全員が優しくならなきゃ意味ないんじゃないでしょうか。でも皆が優しくなるためにはまず、誰かが皆に優しくしてあげないといけないんじゃないでしょうか。
優しくするのが先か、優しくなるのが先か、卵が先か鶏が先か、両方食べれちゃう親子丼って世界の真理なのかもしれない。
皆が身の回りの人に優しくする。たまに遠くの人にも優しくする。孤独な人は見捨てられる。けど歯車が上手く回れば助かる人もいる。
せいぜいそれくらいが限界で、でも利口ぶって諦めるわけでもなくて、その限界をめいいっぱい伸ばせるように生きていきたいな、と思った。
『優しさ』
12時になったら魔法が解けてしまう。
今日はあなたに逢えたから、それだけで特別だった。
シンデレラはガラスの靴を落としたけれど、私のヒールはベルト付きで脱げなかった。代わりにかかとの靴擦れが残って、私の足に証拠があっても意味ないじゃないとひとりごちながら、大事に痛みを抱えている。
あと10分。
日付が変われば魔法が解けて、楽しかった今日は終わる。
既読に回数表示がなくて良かった。また会おうねなんてありふれた挨拶で終えたSNSを開いては閉じて、閉じては開いて。それからふと思い立つ。
やっぱり特別ルールにしよう。
太陽の仕掛けた魔法なんて時代遅れよ、令和のシンデレラはゆとり世代なの。
私の今日は私のもの、私が終わりと決めるまで今日は終わらない。
無意味に今日を引き伸ばしながら、また針は明日へと進む。
『ミッドナイト』
辞書によれば安心とは、気掛かりなことがないという意味らしい。けれど気がかりがない時間などこの世にあり得るだろうか。
休みの日なら、また次の日には仕事が待っている。大切な人と居れば、その人はいつか居なくなる。そもそも私も百年後には、もうこの世にいないのだ。
そうすると安心とは、不安が麻痺することかもしれない。先に不安なことがあっても、束の間それを忘れていられる時間。
お酒を飲んで、音楽を聞いて、本を読んで、みんなそれぞれの方法で麻酔をかける。
私の麻酔はきっと、言葉にすること。
わからないことは怖い。だからわからないことを私の言葉で噛み砕き、私のものにしてしまう。本当は少し違っていたり、言葉にしたせいで失われるものもあるかもしれないが。私のテリトリーに持ち込めば、ひとまずは安心できる。
そうして私は今日も言葉を紡ぐのだ。
『安心と不安』