痛みで目が覚める。足元の猫が寝返りに驚いて噛みついてきたらしい。いたい、と呟いて身じろげば猫はベッドから飛び退いた。気怠い腕でスマホの充電コードを手繰り寄せてみると、夜の3時だった。朝になれば出勤せねばならず、睡眠不足は命取りになる。
もう一度横になるが、頭は冴えてしまっていた。思い出したくもないクソ上司の言葉が頭を占領する。些末なことを咎められ、些細なミスで尋問され、暴言を浴びせられた。そんな映像が生々しい感情を伴って再生された。
到底眠れそうもなかった。起き上がり、キッチンへ向かうと、飴色の瓶を取り出した。足にフワフワとした感触があった。猫がついてきていた。
窓辺に椅子を持ってきて、暗い部屋で、コップに注いだウイスキーをゆっくりと飲み下した。猫も窓辺に横たわった。窓の外には暗い雑木林があった。月は見えなかった。喉の奥が熱くなり、頭がじりじり炙られる心地がした。
コップをシンクに置いて、もう一度寝床に潜った。猫は来ない。まだ窓辺にいるらしい。今度は眠りにつけそうだった。目が覚める前に、すべてなかったことになればいいのにとぼんやり思う。すべて、とは何を指すのか、と自問自答する間に意識は沈んでいった。
神様が舞い降りてきて、こう言った。「お前に多幸を与えよう」あまりに多すぎる幸福、人の手に余る幸いをもたらす神の姿は、鈍色に輝く巨大な蛸だった。子供の頃にテレビで見た「ウルトラマン」が頭によぎった。あれは言うまでもなくフィクションだが、この蛸は現実にして、それよりも遥かに大きいだろう。現実?私は疑う。
巨大な蛸は夕暮れに差し掛かる空に唐突に、コラージュのようなちぐはぐさで出現していた。そしてその笑むうに細められた眼差しは、たしかに私を捉えていた。
会社からの帰路だった。息をつくまもなく働き、ボロ雑巾のようになって放り出される日々が続いていた。疲れは蓄積して私のたいして性能の良くない頭の回転を鈍らせ、有り得ないような不手際が重なった。当然、その度に叱責された。一ヶ月も微熱が下がらず、頭は常に痛みを訴え、頭痛薬が手放せなかった。
あるプロジェクトをなんとか一区切りさせ、久々に明るいうちに帰れたのが今日だった。やっとゆっくりと息ができると思った。アパートの部屋に戻り、観葉植物に水をやって、買って暫く放置して黒ずんできていたキャベツの消費方法でも考えなければいけなかった。そして、なんとなく空を見上げた。そこに、それはいた。
暮れゆく空は淡い青と黄、赤がなだらかにグラデーションになっていて、きれいだった。そこに巨大な蛸さえいなければ、私の心の束の間の慰みになったはずだ。蛸は私だけに聞こえる音で私に語りかけた。
「幸福をお前に」
そしてついに私の正気を繋ぎ止めていたか細い糸が、ぷつりと断ち切られた。
心を病んだ私は自室で丸くなっていた。もう何もやる気はしなかった。欲という欲全てを刈り取られたかのようだった。ただ薄闇の中で静かに呼吸していた。生きていることが不思議だった。時折親が来て部屋を片付け、食べ物を置いていった。現実味のない平たく靄のかかったような光景だった。
昼も夜も区別がつかず、眠ったり起きたりを繰り返すなか、私は奇妙な夢を見た。霧に霞んだ世界で、私は幼い子供の姿になっていた。黄金に光り輝く蛸の触手が伸びてきて、私をあやした。それは安らかな時間だった。もはやなにが現実なのかわからなかった。あの日見た蛸の姿をした神は私の狂気そのものだったのか?私は狂気を拒めなかったからおかしくなったのか?疑問は浮かぶ端から霧散していった。全部どうでも良かった。良からぬものであろうとなんだろうと、あの日の私にとって、それは救いにほかならなかった。
誰かのために、という感覚がよく分からなかった。それは夜の森で梢の向こうに見る星のようで、普遍の価値を持つ人間の美しい性でありながら、私には遥か遠く、触れる事もできなかった。それは他者の言動を通して時折垣間見える光であり、私の貧しい胸の内をいくら探してもそのような綺麗な意思は見つからなかった。
私は生まれつき注意散漫で落ち着きがなく、人の気持がわからなかった。いつも奇異な目で見られ、どこへ行っても爪弾きにされた。だから空想の世界へ逃げ込んだ。そして、大人になった今も、自分自身で作った空想の檻から出ることができなくなった。
他人を慮る余裕などなく、常に自分自身の世話と理解されない悲嘆とに時間を費やした。無い袖は振れない。自分自身が飢えているのに、どうして誰かに施しができるだろうか。唯一誰かのためにできることといえば、こんな醜い私を、他人の視界から消し去ることくらいだった。引きこもって他人の前に姿を現さないことが、誰かのためになると信じた。
しかし実際のところ、私は異質な怪物のまま、のこのこ人里に降りていく他なかった。学業も仕事も生きていくには必要だった。飯を乞う卑屈さで私は他人に媚びた。さも、優しく思いやりのある利他的な人物であるかのように、自分を取り繕って演じた。
それでも少し油断すれば化けの皮は簡単に剥がれた。迂闊な言動で他人を傷つけては自分自身も傷ついた。
私は自分自身が廃墟になった塔に隠れ住む醜い毛むくじゃらの怪物であるという妄想に逃げた。人の皮を被っては人に近づき、正体を知られては鼻先を棒で打たれ、ヒンヒンと泣きながら塔に逃げ帰ってくる、そんな奇妙で哀れな生き物であると信じた。しかし現実には私は人間だった。柔らかい橙色の肌、黒い髪、痩せた肩の、肌の荒れた一人の若い女だった。それは私が化け物であるから人に馴染めないよりも、よほど私にとって残酷だった。私は人間のくせに、同族とうまくやれないのだった。その手酷い現実を直視して、私はやっとヨチヨチ歩きで妄想の檻から出ることにした。もとより鍵はかかっていなかった。
同族としての他者は、柔らかい皮膚をもち、傷つきやすい心を抱えた、私と同じくらいに惨めで哀れむべき生き物だった。それは愛すべき存在だった。私と同じくらい、愛されるべき命だった。私はまだ誰のために何をすればいいのかわからない。誰かのために、私のために、この縺れた頭と拙い指、涙ぐましく拍動する私の肉体で、何ができるのか、思いを向けはじめたばかりだった。