神様が舞い降りてきて、こう言った。「お前に多幸を与えよう」あまりに多すぎる幸福、人の手に余る幸いをもたらす神の姿は、鈍色に輝く巨大な蛸だった。子供の頃にテレビで見た「ウルトラマン」が頭によぎった。あれは言うまでもなくフィクションだが、この蛸は現実にして、それよりも遥かに大きいだろう。現実?私は疑う。
巨大な蛸は夕暮れに差し掛かる空に唐突に、コラージュのようなちぐはぐさで出現していた。そしてその笑むうに細められた眼差しは、たしかに私を捉えていた。
会社からの帰路だった。息をつくまもなく働き、ボロ雑巾のようになって放り出される日々が続いていた。疲れは蓄積して私のたいして性能の良くない頭の回転を鈍らせ、有り得ないような不手際が重なった。当然、その度に叱責された。一ヶ月も微熱が下がらず、頭は常に痛みを訴え、頭痛薬が手放せなかった。
あるプロジェクトをなんとか一区切りさせ、久々に明るいうちに帰れたのが今日だった。やっとゆっくりと息ができると思った。アパートの部屋に戻り、観葉植物に水をやって、買って暫く放置して黒ずんできていたキャベツの消費方法でも考えなければいけなかった。そして、なんとなく空を見上げた。そこに、それはいた。
暮れゆく空は淡い青と黄、赤がなだらかにグラデーションになっていて、きれいだった。そこに巨大な蛸さえいなければ、私の心の束の間の慰みになったはずだ。蛸は私だけに聞こえる音で私に語りかけた。
「幸福をお前に」
そしてついに私の正気を繋ぎ止めていたか細い糸が、ぷつりと断ち切られた。
心を病んだ私は自室で丸くなっていた。もう何もやる気はしなかった。欲という欲全てを刈り取られたかのようだった。ただ薄闇の中で静かに呼吸していた。生きていることが不思議だった。時折親が来て部屋を片付け、食べ物を置いていった。現実味のない平たく靄のかかったような光景だった。
昼も夜も区別がつかず、眠ったり起きたりを繰り返すなか、私は奇妙な夢を見た。霧に霞んだ世界で、私は幼い子供の姿になっていた。黄金に光り輝く蛸の触手が伸びてきて、私をあやした。それは安らかな時間だった。もはやなにが現実なのかわからなかった。あの日見た蛸の姿をした神は私の狂気そのものだったのか?私は狂気を拒めなかったからおかしくなったのか?疑問は浮かぶ端から霧散していった。全部どうでも良かった。良からぬものであろうとなんだろうと、あの日の私にとって、それは救いにほかならなかった。
7/28/2024, 4:13:41 AM