誰かのために、という感覚がよく分からなかった。それは夜の森で梢の向こうに見る星のようで、普遍の価値を持つ人間の美しい性でありながら、私には遥か遠く、触れる事もできなかった。それは他者の言動を通して時折垣間見える光であり、私の貧しい胸の内をいくら探してもそのような綺麗な意思は見つからなかった。
私は生まれつき注意散漫で落ち着きがなく、人の気持がわからなかった。いつも奇異な目で見られ、どこへ行っても爪弾きにされた。だから空想の世界へ逃げ込んだ。そして、大人になった今も、自分自身で作った空想の檻から出ることができなくなった。
他人を慮る余裕などなく、常に自分自身の世話と理解されない悲嘆とに時間を費やした。無い袖は振れない。自分自身が飢えているのに、どうして誰かに施しができるだろうか。唯一誰かのためにできることといえば、こんな醜い私を、他人の視界から消し去ることくらいだった。引きこもって他人の前に姿を現さないことが、誰かのためになると信じた。
しかし実際のところ、私は異質な怪物のまま、のこのこ人里に降りていく他なかった。学業も仕事も生きていくには必要だった。飯を乞う卑屈さで私は他人に媚びた。さも、優しく思いやりのある利他的な人物であるかのように、自分を取り繕って演じた。
それでも少し油断すれば化けの皮は簡単に剥がれた。迂闊な言動で他人を傷つけては自分自身も傷ついた。
私は自分自身が廃墟になった塔に隠れ住む醜い毛むくじゃらの怪物であるという妄想に逃げた。人の皮を被っては人に近づき、正体を知られては鼻先を棒で打たれ、ヒンヒンと泣きながら塔に逃げ帰ってくる、そんな奇妙で哀れな生き物であると信じた。しかし現実には私は人間だった。柔らかい橙色の肌、黒い髪、痩せた肩の、肌の荒れた一人の若い女だった。それは私が化け物であるから人に馴染めないよりも、よほど私にとって残酷だった。私は人間のくせに、同族とうまくやれないのだった。その手酷い現実を直視して、私はやっとヨチヨチ歩きで妄想の檻から出ることにした。もとより鍵はかかっていなかった。
同族としての他者は、柔らかい皮膚をもち、傷つきやすい心を抱えた、私と同じくらいに惨めで哀れむべき生き物だった。それは愛すべき存在だった。私と同じくらい、愛されるべき命だった。私はまだ誰のために何をすればいいのかわからない。誰かのために、私のために、この縺れた頭と拙い指、涙ぐましく拍動する私の肉体で、何ができるのか、思いを向けはじめたばかりだった。
7/27/2024, 4:06:26 AM